最終話 神秘と運命 ②
長い、長い沈黙だった。私は膝頭の上で握った手を見下ろして、じっと頭を下げたまま、蘭さんを待っていた。
薄暗い室内の空気は動かない。ぢりっ、と蝋燭の芯が燃える小さな音。障子越し、あまりにも淡すぎる陽光と、炎の明るさが入り混じって、ゆらゆらと机案の上が明滅する。そっと顔を上げれば、並んだ占い道具の黒い影が、不安定に揺れていた。
何分経っただろう。とてつもなく長い静けさのあと、蘭さんが、ゆっくりと面を上げた。きらっ、と冠が輝いて、色の薄い瞳、その滑らかな表面に、蝋燭の光がいくつも瞬いている。
とても真摯な眼差しが、まっすぐに私を射抜いていた。すう、と小さく息を吸う音。薄いくちびるが動く。
「──選択肢を間違えるな」
きっぱりした声だった。私はきゅっと口を引き結んで、蘭さんを見返した。意志の強い視線が私を見つめて、はっきりした声が言う。
「てめぇが選ぶべきは、どうやって死ぬかじゃない。どうやって生きるかだ」
「──やめて」
蘭さんなら、きっとそう言うだろうと思っていた。それでも、どうしても、うなずくことなんてできなかった。
ゆるゆると首を振って、お願いです、と懇願する。
「もう、人生と戦うのに疲れたんです。これ以上、みんなのためになんかなれない。責任を放棄させてください。もう──私を楽にして」
「雨宮」
蘭さんが、まっすぐに私を見つめている。私のいちばん深いところまで、ぜんぶ見逃すまいとするような、ひどく真摯で懸命な、深い情を宿した眼差し。それを見ているのがつらくて、目を背けた。いいの、と小さな声で言う。
「もういいの。どうせこうなる運命だった」
「ッ……」
蘭さんが、今度こそはっきりと息を呑んだ。ああ傷付けたな、と思って、だったら一発くらい殴ってくれるだろうか、なんて身勝手なことを考えて、そのとき──
──ガンッ、とものすごい音がした。
えっ、と顔を上げる。ばらばらっ、と音を立て、儀式の道具が勢いよく飛び散っていく。すぐ目の前に、白い足袋が見えた。
蘭さんが──机案の上に踵落としをかけた音だった。
事態を把握するより前に、ガッ、と胸ぐらを掴み上げられる。すごい力でずるりと引きずりあげられて、ほとんど机案に乗り上げる体勢になって、
「うるッせえよ‼︎ くだらねぇ運命サマに納得してんじゃねえッ‼︎」
蘭さんが吼えるように怒鳴った。ものすごい剣幕だった。あまりの勢いに言葉が出なくて、私はただ口を半端に開く。
「運命? そんなモン意味付け次第だろうが。運命なんざねじ曲げろ、てめぇが納得したい選択を、自分で決めるんだよ!」
怒鳴り声が耳をつんざく。目の前で歪んでいる蘭さんの瞳が、興奮のあまり、こらえきれなかった涙で濡れていた。
でも、とバカみたいに呆然とした声が出る。
「そんな、私なんかが好き勝手ふるまって、それで納得なんて、できるわけ──」
言いかけた言葉は、あァ⁉ とドスにまみれた声で遮られた。
「てめぇができねえっつうなら、どんな拡大解釈だってあたしがしてやるよ。こちとら理屈こねるのだけは大得意なんだ」
胸ぐらを掴む蘭さんの手がぶるぶると震えて、ぎりぎりと、襟元が締め上げられる。息が苦しい。
だけど蘭さんは、私よりずっと苦しそうな顔をしていた。顔を真っ赤にして、あふれそうな涙をこらえて、あらん限りの感情を振り絞るような声で、言えよ、と低い声が私を呼ぶ。指先がぎりっ、と食い込んで、
「──おらッ、どんな運命がお望みだ⁉ 覚悟を決めろ、雨宮藤乃ッ‼」
(っ──……)
その、全身全霊でぶつかってくるような叫びを聞いた瞬間。
胸のいちばん深い部分、魂の底が、じいん、と震えたような気がした。
「──蘭さん」
気が付けば手が伸びていた。目の前の頬を両手で挟んで、興奮で熱くなったそこを引き寄せる。勢いよくくちびるを寄せた瞬間、がつっ、と歯が当たってにぶい音を立てた。じわっ、と血の味がする。
子供じみた、みっともない、下手くそすぎるキスだった。血なまぐさくて痛くて沁みて、絶対に、死ぬまで忘れられないような。
(……ああ、)
なんて美しい人だろう、と思った。胸の底が震える。水のように澄んだ透明な感情が、私のずっと奥の場所から、こんこんと湧いてくる。清潔なものが私を満たす。
そっとくちびるを離すと、口の端から血を流した蘭さんが、呆然と私を見つめていた。微笑みかける。
「相談はもういいです」
はっきりとそうささやくと、蘭さんの瞳から、ぼろっ、と涙が一粒、こぼれ落ちた。くしゃ、と目の前の表情が歪んで、バカ野郎、と震え声。
「選ぶ覚悟はできたかよ」
黙って微笑む。そっと手を伸ばして、蘭さんの目元をぬぐった。くすぐったそうに目を細める蘭さん。その笑顔がきらきら光って見えて、きれいだな、と思った。
(……このひとの、こういうところを好きになった)
強くて綺麗でまっすぐで、子供みたいなくせにやっぱり大人で、いつだってきらきらしていて。このひとは私の中に光を灯す。星みたいに道行きを照らしてくれる。
蘭さんの笑みに重なって、紺洋さんの笑顔が、あのあたたかい痩せた手の感触が、じんわりと記憶の縁から蘇る。運命ってなんですか、あのときの問いかけが、目の前で金色の光を放って、生きた人間として存在していた。
もういい、と思った。充足が胸を満たした。言葉が、自然とこみ上げてくる。
──運命のその先へ行こう。
──もうなにひとつ後悔はない。
ずっとくすぶっていた疑問の答え。それがはっきりとした輪郭を得て、きらきらと光っている。まばたきのたびにきらめく紫と金色。
目の前の人の存在まるごと吸い込むように息を吸って、私は蘭さんをそっと抱きしめた。ゆっくりと背に回った蘭さんの手が、ぎゅっ、と私を抱き返す。鼻先に、ふわりとメンソールと書物のにおい。私のいちばん好きな匂いだった。
この匂いを忘れないでいようと強く思って、ぎゅうと強く蘭さんを抱きしめて。私は静かに目を閉じた。澄み切った多幸感が胸を満たした。
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