プロローグ③ 姉の懐妊と祝宴、城の専用風呂

料理も食べ終わり、窓から空を見上げる。


「夜の営業の準備しなきゃ。今日はここまで。」

シルビアの合図でみんな揃って、神に感謝の祈りをささげて、

孤児院をあとにし、宿屋兼食事処の《赤ちょうちん》へ向かう。

日差しが傾き、すこし寒さを感じるころに、私は店の厨房にはいり、今度は店の夜営業の仕込みを始める。

朝と違う所は、あまりない。料理人は誰かの笑顔の為に、料理を作る。

この夜も、いつもと変わらない仕込み作業。違うところがあるとすれば、

姉が元気なさそうな気がするくらいだろうか


孤児院から戻った私は、夕食の仕込みをしていた。ふと、姉セリスの様子が気になった。

「セリス、ちょっと顔色悪いんじゃない?」

「大丈夫よ、疲れてるだけ。そんなことより、手を動かして」

そう言って姉はいつも通りの笑顔を見せたが、どこか力がない気がした。しかし、無理に聞き出すこともできず、私は仕込みを続けた。

夜の営業が始まり、常連の冒険者たちが次々と店に訪れる。賑やかな店内の中、給仕をしていたセリスが突然ふらつき——

「……っ!」

どさりと倒れた。

「セリス!」

慌てて駆け寄ると、母の落ち着いた声が響いた。

「大丈夫よ、リーファ。セリスには、新しい命が宿ったのよ」

一瞬、時間が止まったように感じた。

「……え?」

そして、店中の冒険者たちがそれを聞いて大騒ぎになった。

「おいおい、めでたいことじゃねえか!」

「祝い酒だ! 今日は飲むぞー!」

赤ちょうちんは、祝福の大宴会へと早変わりした。


宴も終盤に差し掛かり、賑やかだった店内も少しずつ落ち着きを取り戻し始めていた。

酒を飲み交わし、祝いの言葉を交わしていた常連たちも、次々と宿の二階へ上がっていく。

店内に残ったのは、片付けを進めるリーファと、静かにこちらを見つめるシルビアだった。


リーファは、忙しさに追われながらも、じっとこちらを見ているシルビアの存在に気づく。

彼女はテーブルに肘をつき、グラスをくるくると回しながら、どこか満足そうな表情を浮かべていた。


「リーファ、今日もお疲れさま。」


シルビアが微笑みながら言う。


リーファは、最後の片付けを終え、エプロンの端で額の汗を拭いながら苦笑した。


「朝からずっと料理しっぱなしだったよ……さすがに疲れた。」


リーファは椅子に座り、テーブルに腕を投げ出すようにして、深いため息をつく。

その様子を見て、シルビアがニヤリと笑った。


「私は今日は久しぶりに城に帰るけど……リーファも一緒に来ない?」


「え?」


リーファは顔を上げる。


「いやいや、さすがに疲れたし、今日は早めに寝たいよ。」


リーファは苦笑しながら断るが、シルビアはわざとらしく肩をすくめると、

わざとらしく 「ふぅーん」 と言ってから、グラスを口に運ぶ。


そして、まるで何気ない話題のように、さらりと口にした。


「そうかぁ、残念だなぁ……私専用のお風呂 で、今日の疲れを癒してあげられたのに。」


「?!」


リーファの目が、一瞬で見開かれた。


「シルビア、すぐ行くよ!! お風呂! お風呂!! おっきなお風呂!!🎵」


「ちょっ!? わかったから、引っ張らないでぇぇー!」


リーファは、今までの疲れが吹き飛んだかのように、シルビアの腕を掴んで勢いよく立ち上がった。

今度は、昼間とは立場が逆転し、リーファがシルビアを引きずるようにして城へ向かう。


「いや待って、落ち着いて、ほら、せめて馬車に——」


「そんなのいいから早く!! お風呂!おしろのお風呂ー!!🎵」


「ちょ、ひっぱらないでぇぇ!!」


まるで騎士に引きずられる悪党のように、シルビアは リーファにズルズルと引きずられながら、

夜の街へと消えていった——。



夜の街を抜け、馬車は静かに城の裏門へとたどり着いた。

シルビアは手綱を引きながら、にっこりと笑う。


「さあ、リーファ。夢の大きな風呂が待ってるわよ!」


「う、うん……!」


赤ちょうちんとはまるで別世界の煌びやかな城の中に足を踏み入れると、リーファは思わず息をのんだ。

赤い絨毯が敷かれた広々とした廊下、壁に掛けられた豪華な絵画、燭台の灯りが揺らめきながら幻想的な影を作る。

窓の外には三日月が輝き、静寂の中に城の威厳が漂っていた。


「ふぇぇ……久しぶりにお城に入ったけど、やっぱりすごいなぁ……」


「まあね。でも広いだけで、寒いのよね。」


「シルビアの部屋、広すぎない?」


シルビアは手早く着替えを抱え、カンテラを手に取る。


「でしょ? でも、お城は全体的に寒くてね。赤ちょうちんがなかったら、冬は凍えて過ごしてるわ」


シルビアはさらりと言いながら、少し笑みをこぼし、

また、リーファは室内を見回しながら、肩をすくめた。



「こっちよ。お風呂は地下にあるの。ちょっと暗いから、足元に気をつけて。」


城の煌びやかな廊下を抜け、シルビアはカンテラを手にしながら、地下へと続く石造りの階段を下り始めた。

リーファも後を追いながら、徐々に変化していく空気に気づく。

ひんやりとした湿気が肌にまとわりつき、壁に取り付けられた魔導灯の光が、ゆらゆらと揺れている。


「ねぇ……本当にお風呂があるの? なんか、地下牢みたいな雰囲気なんだけど……」


「ふふっ、大丈夫よ。もうすぐよ。」


リーファは不安げに周囲を見回しながら、シルビアの袖を掴んで慎重に足を進めた。

やがて階段を下りきると、そこには——。



「うわぁ……すごい……!」


リーファの目の前に、広大な浴場が広がっていた。

天井は高く、優美なアーチを描く柱が並び、大理石の壁には繊細な彫刻が施されている。

広々とした空間には、柔らかい蒸気が漂い、湯の表面には神秘的な光が反射して揺らめいていた。


中央には、まるで神殿のような大理石の浴槽 が鎮座している。

黒曜石のような漆黒の縁取りが施された白い大理石が、厳かな雰囲気を醸し出し、湯は澄み切って透明だった。

壁には、王家の紋章が彫り込まれた金細工の蛇口があり、湯が絶えず静かに流れ込んでいる。



「これ……一人で使うの?」


リーファはぽかんと口を開けながら、ゆっくりと辺りを見回す。


「そうよ。シルビア様専用の浴場だからね。基本的に、ここに入るのは私だけ。」


シルビアが誇らしげに言うと、リーファは驚きながら振り返った。


「えぇ……広すぎるでしょ!? これ、何十人も入れるじゃん!」


「おじい様が贅沢に作らせたみたいだけど、私はこういう豪華すぎるのはあんまり好きじゃないのよね。」


シルビアはさらりと言いながら、棚に並ぶガラス瓶を指差す。

エメラルドグリーン、ルビーのような赤、サファイアの青……高級そうな香油がずらりと並んでいる。


「好きなの使っていいわよ。これは全部、王家に伝わる特別な香油よ。」


リーファは、そっと手に取った瓶の蓋を開ける。

ふわりと広がる甘い花の香りに、思わずうっとりと目を細めた。


リーファは大理石の浴槽の縁に腕をかけ、心の底からリラックスした声を漏らす。

湯は適温で、大理石の滑らかな感触が心地よい。


「あーーー極楽極楽……!」


「コクラク? なにそれ? コロッケよりおいしい?」


「違う違う!!」


思わず突っ込むリーファ。

父である幸一と一緒にお風呂に入っていた頃、父が湯に浸かったときにいつも言っていた言葉が、自然と口をついて出たのだ。


「へぇ〜、コクラクって、そんなに気持ちいいことなのね。」


「まあ、そんな感じ……」


そんな会話をしているうちに、シルビアの表情が急に真剣になる。


「リーファ、あのね。」


「ん?」


「私、来年18歳になるの。そうなると、王族はみんな北の寄宿学校に入るのが習わしなの。」


「すごいね! じゃあ、シルビアも学生になるんだ!」


リーファは笑顔でお祝いするが、シルビアは真剣な表情を崩さない。


「そこでね、お抱え料理人として、あなたも一緒に来てほしいの。」


「……え?」


湯気の向こうで、シルビアの真剣な瞳が揺れていた。

リーファは、突然の申し出に言葉を失う。


「すぐに返事をしなくてもいい。でも、私はずっとあなたがそばにいてくれたらって思ってるの。」


「……うん、考えてみる。」


どれくらい湯に浸かっていただろうか。


リーファは、ほんのり顔を赤らめながら、静かに湯船から立ち上がる。


「そろそろ、お店に戻らないと。色々やることがあるし。」


「そう……また明日ね。」


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