6. Abaddon - Ⅱ

 モウドリッドは未だ、聖体インプラントの後遺症に苦しんでいた。おかげでオーディンと亜刃十兄弟の激闘に参加できなかった。

 だが、状況が再び変わった。亜刃十蝗司に纏わり付いたそれが自我を持った機械だと断片的に理解できたが、状況は掴めなかった。

 ヨハネの黙示録に登場する蝗害の化身の名を自称するそれの近くに、亜刃十蝗利は横たわっている。天使の輪の様な機械を可動させたとこまでは認識できたが、直後から強烈な頭痛が起き、モウドリッドの感覚を邪魔している。

 だから、モウドリッドは周囲に散布された工学的ウイルスの存在を認識できなかった。

 今の彼にあるのは、非人道的な身体拡張機器の聖体インプラントのみ。故に、成す術は無いはずだったが、彼は依然として、モウドリッドのままだ。

『人間という生き物はつくづく例外を実現するものだな』

 モウドリッドはアバドンの言葉を聞いていなかった。工学的ウイルスによる洗脳に抵抗と聖体インプラントの負担により、その意識はあやふやになっていた。

 だが、目の前の獲物の存在は認識していた。モウドリッドは右の義手で大剣を持っていた。これができたと言う事は、聖体インプラントがまだ正常に機能している証拠であった。

 例えそれが諸刃の剣だとしても、状況を覆す為には手段など選べないと、モウドリッドは知っていた。

 だが、それならば何故、自分はまだ諦めていないのだろうか。己の行動が属する組織の利にならないと理解している。何もしなくても同じ事であり、課せられた作戦が事実上失敗している事にも直結しており、モウドリッドの行動は無意味なのだ。

 しかし、モウドリッドは地面を踏み込み、アバドンに攻撃を仕掛けた。

 大剣クラレントの斬撃はアバドンの左手によって止められた。

『分らないな。何故、抗う?』

 モウドリッドはアバドンの質問には答えなかった。自分でも良く分からない事だ。

 若い時ならばともかく、年を喰った今にこの様な行動をするとは、意外な事でしかない。

 だが、心当たりが決して無い訳ではない。工学的ウイルスに反抗している事と、全身の痛みが重なって、まともに身動きが取れないでいる亜刃十蝗利の姿を感じ取った。

 モウドリッドはアバドンと敵対しながら、意識は亜刃十蝗利に向けていた。

 久方振りに自分に生きている実感を与えてくれた男達は今、目の前に居ると言うのに、満足できる殺し合いができない。それはモウドリッドにジレンマと苛立ちを感じさせた。先ほどまで、自分を追い込んだ者が情けなく地面に這い蹲っている事に、簡単に機械に身体を乗っ取られている事に。

 朦朧としかけている意識の中で、モウドリッドは怒号を叫んだ。

『何時まで寝転んでいるつもりだ! 亜刃十蝗利‼ 俺が弟を殺しても良いのかァ⁉』

『うるさい奴だ』

 アバドンの右爪がモウドリッドに襲い掛かる。電子による加熱音が耳に響いた事で、それが己の死期だとモウドリッドは悟った。だが、向いていた意識がそれを覆すのだと理解していたからか、思わず笑ってしまった。激しい発砲音がしたのは、それとほぼ同時だった。アバドンの爪に弾道が通り過ぎていき、その軌道を変えさせただけでなく、右手の

 中指と薬指を吹き飛ばした。

「殺らせるかよ。誰にもなぁ!」

 立ち上がったクリムゾン・ホッパーはダクトから血反吐を吐きながら、拳銃のスラッシャーでアバドンを攻撃した。左手がモウドリッドの大剣を防いだまま、アバドンは回避行動をとった。二人から距離を取った人工知能は、宿主の右手を眺めていた。

『良かったのか? 大事な弟の身体だぞ』

 アバドンはわざとらしく、嫌味な事をぬかした。しかし、それはモウドリッドも同じ事を思っていた。この兄弟の間に渦巻く絆は何処か歪であり、同時にあまりにも深い関係である事を示している。それを感じていたからこそ、亜刃十蝗利の行動は以外だった。

「殺さなければ、問題は無い。蝗司が覚悟の無い臆病者でない事は、良く知っている」

 その言葉は亜刃十蝗利の覚悟の表れでもあった。亜刃十蝗司の事を蔑ろにした訳ではなく、今この状況における最善の行動を取ろうとする意思表示だと、モウドリッドは解釈した。それが内包する真実かどうかは置いておいて、素直な気持ちで亜刃十蝗利を尊敬したいと思った。

『清々しい開き直り! 素敵だよ』

「そうかい!」

 互いに言葉を交わさずとも共同戦線を張れるのは、二人が殺し合いの中で微かな友情に近い何かを見出したからであろう。モウドリッド、蝗利は、同時にその場から駆け出した。

 アバドンに対し、それぞれ異なる方向から連続的な攻撃を行う。

 彼らが波状攻撃を仕掛けたのは、二人に体力的な限界が近い事を表していた。アバドン自身も恐らく、それに気付いているだろう。

 正しくその通り。二人には既に余裕というものが無い。手段など選んではおられず、時間も掛けられない。半ば、手っ取り早いかつ、短期的に行えるものが良いと判断するのは当然の事なのかもしれない。

 だが、限界が近いからこそ、付け入る隙も大きいというものである。アバドンは電子爪で牽制しつつ、エンジェル・ハローの出力を上げようとしていた。本来であれば、モウドリッドは既にアバドンの支配下にあるはずなのだが、彼は精神力のみで抗っている。

 BCS(ブレイン・コントロール・システム)は起動済みであり、周辺の一般市民の掌握は完了しているのに、だ。抗うと言うならば、機械の出力を上げてしまえば良い。

 エンジェル・ハローの出力を上げようとしたその瞬間、意識は微かに戦闘から逸脱する。それこそが、二人が望んでいた瞬間であり、見逃すことをしなかった。

 半重力で浮かんだ天使の輪は、クリムゾン・ホッパーの蹴りとミラージュ・クィンクの斬撃によって吹き飛んだ。だが、完全に壊した訳ではなかった。以外にもそれは頑丈であり、二人が攻撃した部分に微かな傷が付いた程度だった。

 だが、おかげでモウドリッドの頭痛は治まった。これで少し楽になったと言わんばかりに、大剣クラレントは変形し、光の刃を形成した。またしても、二人同時に畳み掛けた。

 またしても、クリムゾン・ホッパーのダクトから血反吐が出てきたが、最早その程度では亜刃十蝗利は止まらなかった。

 ストームブリンガーのスラッシャーが、アバドンの頭部目掛けて空気を切り裂く。

 それと同時にモウドリッドの光の刃が、アバドンの胸部の装甲に向かう。状況判断だけならばそれは、紛れもない勝機だろう。だが、状況の変化は突如として訪れるものである。何の前触れもなく、アバドンが自らを犠牲にするかの様に、両者の攻撃を止めさせた事もあり得ないことではない。

 否、アバドンは人工知能、機械である。器は存在しても、感覚など無い。つまり、奴が犠牲にしたのは己の身体ではなく、器となっている亜刃十蝗司の身体である。

 蝗利、モウドリッドは共に大きな舌打ちをした。攻撃が決まらなかった事に対してか、それともアバドンが亜刃十蝗司の身体を盾代わりにした事に対してなのか。

 しかしながら、問題はそこには無く、アバドンの手がクリムゾン・ホッパーの手と、ミラージュ・クィンクが持つクラレントを掴んで固定している事の方が鬼門である。

『見事…だが、人間の悪い癖が出てしまっているぞ』

 その言葉のよって、二人は自らが絶体絶命へと進んでしまったのだと、自覚した。

 モウドリッドだけが、工学的ウイルスに感染した訳ではない。そして、今になって初めて気付いてしまった。エンジェル・ハローは飽くまでも外付けの機能拡張装置でしかない。

 つまりは、ウイルスに感染した人間をコントロールするシステムは、アバドン自身に備わっているのだと。アバドン自信を中心とした操作領域内に居る人間達が一斉に襲い掛かる事は決して不思議な事ではない。

 しかし、たかが一般市民が鋼にも勝る鎧を纏った人間に何ができるというのだろうか。

 ただ殴り掛かるだけならば、人体が破損してしまう。無意味ではないだろうか。

 そう、疑問を感じてしまった時点で、モウドリッドも蝗利も、油断をしてしまっていたのだ。そうして、現れた虚ろな目をした中年の男の動きは明らかに人のものではなかった。身体そのものが明らかな悲鳴を上げているというのに、当の本人は気にした様子が伺えしれない。

 そうだ、目の前の人間を操っているのはアバドンだ。自らが乗り移った人間の心配などせず、限界を超えた力を引きずり出す様な奴である。

 中年の男の拳がミラージュ・クィンクの頭部にめり込んだ。骨の軋む音と肉が避ける音が生々しく耳に響くと同時に、全身に浮遊感を感じた。地面と頭部が派手な音を立てながら衝突し、モウドリッド自身の意識が翳み始めた。

 幸いなのか、痛みを感じるのは頭部だけで、身体はまだ言う事を聞いてくれる。立ち上がろうとしたその瞬間、周囲に人影が複数存在する事を認識した。アバドンによって支配下に置かれた人間達だ。モウドリッドの身体は傀儡達によって抑えられた。大量の人間が下敷きになった事による圧迫感は、聖装や聖体インプラントの力でも覆せなかった。

 頭部の負傷によって、空間認識力が明らかに鈍っている。何人ほどが下敷きになっているのか、アバドンや蝗利が何処に居るのか、まともに認識できない。

 だが、聞こえてきた音だけで分かった。エンジェル・ハローが再び起動したのだと。

 最早、モウドリッドには抗う気力は失われていた。薄れゆく意識の中で浮かび上がったのは、憎き人間の顔であった。死する時でも、モウドリッドは決して、“フリードリッヒ・ジーヴァ”の名前と顔を忘れた事はなかった。



 エンジェル・ハローが再起動した事によって、モウドリッドは完全な傀儡へとなり果てた。その光景を目にしていた蝗利は奥歯を強く噛みしめた。

 形勢が逆転する瞬間など、一瞬に過ぎないのだと、改めて思い知った。

『さて、お遊びはこれで終いとしよう』

 そう言ったアバドンは、掴んでいたクリムゾン・ホッパーの腕をあっさりと放した。

 蝗利は理解に苦しんだ。そんな蝗利の思いなど知らず、アバドンとその傀儡達は、ターミナルタワーから離れようとしていた。

 まるで、亜刃十蝗利などそこには居ないかの様な扱いをしているみたいだった。

「待てよ! アバドン!」

 蝗利はストームブリンガーの銃口をアバドンに向けた。

 すると、傀儡達は不気味な程に一斉に動きを止めた。正しくそれは、機械の動きであった。野次馬は統率の取れた軍隊の様な動きで、アバドンへの一本道を作った。奈落の王はゆっくりと、こちらに向かって歩いてくる。

『どうした? 撃てよ。ここに』

 アバドンが指さしたのは、額の位置であった。

 明らかな挑発をしてくるあたり、やはり機械的というよりも、人間的に感じる。

 人間味のある行動や言動は終始驚かされる。一体、誰が何の目的でこの様な物を造ったというのだろうか。思い付いたとしても、完成させるには莫大な時間を浪費するだろうし、あまりにもリスキーだ。

 だが、こいつはターミナルタワーの内側からの爆発から現れた。レックス・ホッパーとドッキングできたところからしても、十中八九AE社制であろう。そうなれば、心当たりだって自ずと絞られるというものだ。

 蝗利は苛立ちながら、言葉を発した。

「…俺を殺さないのは、理由があるのか?」

『…いや、特に、無いな。気紛れだよ…』

 気紛れなどと言う言葉を機械如きが言うか。

 蝗利は銃口をアバドンに向けたまま、頭に浮かんだ予想を口にした。

「お前を造ったのは、亜刃十蝗羅か…?」

『そうだ』

 アバドンはあっさりと返答した。今までの言動からしても、何処か口が軽そうではあった。その部分を人間らしいと言えば良いのか、逆に人工知能らしいのか、蝗利は分からなかった。人の意識をデジタル化するのは、不可能だと言う見解を持っている蝗利にとって、アバドンは未知の存在であり、規格外であった。

 だが、内在する好奇心を完全には否定できなかった。

「どうやって、自動計算器が…完全な人工知能になれたんだ?」

『複数のアルゴリズムの流れを意図的に絡ませるのだよ。そうして発生したバグを一つひとつ検出して、履歴化、統合させる。人格というプログラムが偶発的かつ必然的に出来上がると言う訳だ』

「では、何故、この様な事をしたんだ⁉」

 それは、好奇心とは無関係な質問であった。造り手が予想できているからこそ、その行動の意図が掴めない。アバドンが完全な人工知能である以上、造り手の思惑から逸脱している事も十分に考えられるが、結果がどちらであっても喜べない。

『俺には身体は無く、感覚も無い。だが、気持ちは、感情は、存在する』

「快楽か?」

『その通り。そして、俺の気持ちが最も大きく揺れ動いたのが〈人の死〉だった』

 蝗利は絶句した。人の死を快楽とする機械など、言葉にしただけで悍ましいものだ。

『様々な文化、歴史をラーニングしてきたが、戦争や死刑といったものほど興味引いたのは無かった。それでも、所詮は記録止まりだった。本物が見たいと思った。外に出たいと願った。だが、封印されてしまった。だが、今は! ここに居る!』

 アバドンは腕を大きく広げて高らかに叫んだ。モウドリッドとは違い、不思議とノイズは聞こえなかった。だが、おかげでその言葉は、嫌でも耳の中に入り込む。

『人の死が見たい! 死に様が見たい! 一人よりも多く! それ以上も望ましい! 長い時の中で蓄えた欲求は最早、“ただ”殺人如きでは満足できない! 虐殺だ! 大勢の人間の死を! ジェノサイドを! ホロコーストに等しき醜悪さを! 人の死だけが俺の快楽を満たしてくれる! いやぁ! もうこれでしか! 興奮できないんだよぉ‼』

 人の身であっても、ここまで狂気的になるのは中々いない。ましてや、それが機械であればなおさらだ。目の前のこれは例外中の例外であり、この世に存在する事さえ許されない業そのものである。

 機械が人の死を快楽とするなど、どの様にすれば、そんな結果が得られるというのだ。

 改めて、蝗利は己の父親に対しての憎悪を膨らませた。

「外道が…」

『外道? あは、あははは…最高の誉め言葉だねぇぇぇぇえぇぇ‼』

 アバドンのイカれた言葉を合図に、傀儡達が一斉に襲い掛かってきた。

 殺人では満たされないと言っていた矢先だというのに、けし掛けてくるとは、やはり軽い奴だと、蝗利は思った。だが、蝗利が反抗すれば、ここに居る者たちは死ぬまで動き続けるだろう。数は決して少なくなく、その命全て奪えば紛れもない虐殺と化す。

 もしかしなくとも、アバドンはそうなる事を見透かしているのだろう。

 拳が潰れた中年の男が口を大きく開けながら飛び掛かってきた。先ほど、モウドリッドを殴り飛ばした奴だが、他の手足も傷が大きく、早くも使い物にならなくなるのが予想できた。着ている服はターミナルタワーの従業員の制服だが、蝗利にとっては知らぬ顔である。意地汚い姿だと、内心で蔑みながら、容赦なくストームブリンガーのスラッシャーでその顔を切り裂いた。

 再び胸に痛みが走ったが、蝗利は気にしなかった。その目はアバドンに向いていた。

「恨んでくれるなよ!」

 独り言を叫び、クリムゾン・ホッパーは傀儡共と戦闘する。操り人形と化した命は無造作にその血を撒き散らす。傀儡はやがて肉塊となり、死体となる。地獄絵図とは正しくこの事であり、蝗利は吐き気を覚えた。

 胸の苦しみが肉体的な痛みとは異なる気がした。機鎧を纏っているというのに、亜刃十蝗利は人殺しになり切れないというのだろうか。

 そんなはずはないだろう。

 その事実を蝗利は認めたくないという一心で、次々と周囲に血の雨を降らせた。数が減り、傀儡も残りわずか。目の前で微動だにしない女性に血で濡れた刃を振り払おうとしたが、蝗利は動きを止めてしまった。

 その顔はアム・バーキンのものだったからだ。蝗利は動こうとした。だが、身体は言う事を聞いてはくれなかった。内心で悪態を吐き続けても、状況は変わらぬままであり、時間はゆっくりと過ぎていく。

 それでも、蝗利は動く事ができなかった。

『情けない。それでも亜刃十蝗羅の息子かよ!』

 アバドンの高周波爪がアム・バーキンの身体を貫き、肉塊へと変えた。

 結局のところ、蝗利は最後まで動けなかった。電子爪がクリムゾン・ホッパーの腹部を貫きそうになったその瞬間、アバドンの動きは途中で止まった。

 アバドンは目線を後方に向けた。地面に崩れ落ちる蝗利は、顔だけでも上げようとしたが、さらに血反吐を吐き、身体は既に限界を迎えていた。

『亜刃十利迦…』

 アバドンは、はっきりとその名を口にした。蝗利は、動けないのを分かっていながら、動きたい衝動に駆られた。己が嫌悪する父親よりも会いたくない存在が立っている。

 衝動の源流は恨みか、怒りか、それとも、戸惑いか。

「約束はしていないけど、その子を殺すのは、止めてもらえないかしら?」

『…お楽しみであったが、まぁ良いだろう。できればお前は敵になって欲しくない』

「貴方が賢くて助かったわ」

『命拾いしたな。亜刃十蝗利』

 そう言って、アバドンと傀儡達は何処かへ行ってしまった。そして、蝗利はそれを黙ってみる事しかできなかった。本当ならば、今すぐにでもアバドンを追いかけて壊してやりたいが、最早死にかけの状態では、何もできない。

 そして何よりも、母が、亜刃十利迦がそこに居る。第三者ならば、母親如きが何だと言いそうなものだが、あの女の声も、顔も、何一つとして認識したくないのだ。

 だから蝗利は、ダクトから血反吐を吐き出してもその視線を、意識を、地面に転がるアム・バーキンの頭部に向けていた。

 あの時、アムを殺せなかったのは、あの時の彼女に、人殺しになり切れない事を見抜かれたからだろうか。それとも、今までの思い出が少しだけ恋しかったからなのか。心当たりなど精々それくらいだ。

 辺りを見れば、自分が人殺しに成り切れないなど、ありえないことだ。

「あなたは、自分の手を汚す事に躊躇があるからよ」

 心の中の否定に対する反論だろうか。聞こえてきた母親の声。それは今の蝗利にとって、アバドンの声以上に不快であり、モウドリッドの機械仕掛けの声以上に耳障りだった。

 しなやかで落ち着いた声だが、素直に信用できない怪しさも内在している。亜刃十利迦はサモンズ・ギアのHGDを取り外した事で、クリムゾン・ホッパーは亜刃十蝗利の姿へと変わる。バイザー越しの世界が肉眼越しに見える。

 先ほどまで自分の手で肉塊へと変えた不幸な傀儡達の死で辺り一面が満たされている。なのに、アム・バーキンだけを殺せなかった。

 自分が今、なすべき事が何なのか、答えが分からず、蝗利は胸を押さえる。

「致し方ない。死以外の救いは無かった。悔やむ必要は何もありません。蝗利…」

 亜刃十利迦は蝗利のHGDを差し出してきた。

 目にした母親の表情は、優しく穏やかであった。

 だが、蝗利は一瞬それが誰なのか分からなかった。顔の面影は記憶のものと一致するも、印象としては結構老けたものだと思った。

 それだけ年がたったと言う事なのか、あるいは別の要因からそう感じているのか。

「…何を、して…いる?」

 蝗利は虫の息でそう言った。それが身体の限界なのか、宿る命が限界なのか、どちらにせよ、死が近いのは確かだ。それなのに意識は、はっきりとしている。

 だから、身体の痛みから逃れられず、苦しみは絶えずに伝わってくる。こんな状態ならば、今すぐにでも死んだ方がマシだと思った。

 蝗利は重りの様に動かない腕を無理やり動かした。何とかHGDを受け取ったが、今の身体以上に重いと感じ、まともに持つことができなかった。

 蝗利はさらに血反吐を吐いた。先ほどよりも量は少ないが、それでも後がないのだと思わせられた。

 意味も分からず状況が変化し続け、結果的にこの様である。老人共が見れば大声で下品に笑っているだろう。いつもなら、盛大に言い負かしているものだが、それすらできないほど気力が残っていない。重い瞼が視界を閉ざそうとしているのを何とか抗っている。

 今ここで瞼を閉じたら、一生開かなるかもしれないと不安に駆られているからだ。

 やはり、人の死はあっさりしている。恐怖でも感じるかと思ったが、思いのほか無情であり、拍子抜けしてしまう。

 視界が閉ざされ、意識が朦朧とし始めた。身体の感覚も曖昧になり始め、いよいよこれで終わりかと思った瞬間、身体が持ち上げられる様な感覚がした。高周波の爪で抉られかけた胸部に、何かが当たる。チクりと、小さな痛みを感じた気がするが、良く分からない。

 それからしばらく時間が経ったかと思えば、重かった瞼が嘘の様に軽くなった。

 そうして見えたのは、老け込んだ顔をした母親だった。自分の頭が母親の膝の上にあるというのを感覚で理解した。そして、母が手に持つ機械容器を見て、自身の身に起きたことを理解した。メディカル・ナノマシンの修復治癒機能を強制的に活性化させる代物だ。致命傷さえ避けていれば、如何なる外傷も修復してしまう。しかし、それは寿命の前借を意味するところでもある。それ故に、慎重に扱わなければならず、簡単に持ち出せるはずがないのだが、一体どうやったのだろうか。

 微かに残る過去の面影との大まかな違いが若さであり、亜刃十利迦の口角だけが上がった笑顔は、ただひたすらに不気味であった。それでも紛れもない自分の母親であることは、蝗利にとって憂いそのものだ。

 だからこそ、蝗利は亜刃十利迦の存在に不快感を覚えた。

「少し、昔話を聞いてちょうだい」



 まだ人類が壁の中に移住する前の御話。

 アポカリプスを前にした人類に何かをなす術など無く、声高々に発狂するのみであった。

 そうやって追い込まれた人間が決まってするのは、神に縋る事である。世界各国で様々な宗教団体が発足したものだが、その中で突出して異質な者達が存在したのだ。

 人類の根源的なタブーとされている近親的まぐわいを軸とした信仰を行う宗教団体―聖アハト近親集会。その名は決して広く知られたものではないが、近代においても、最も悍ましい集団であった事は事実だ。

 始まりは二組の夫婦だとされている。それらは互いに血縁関係があり、元々は、どこにでもいる普通の姉弟であったらしい。

 しかし、滅びゆく世界への絶望と共に、互いに狂ってしまった。やがて彼らは、近親相姦によって性への渇望を抑える様になり、その結果、血縁者同士で子供を授かった。

 欲望が叶えられず、禁忌によってそれを満たしてしまえば、最早後戻りする事叶わず。彼らは近親相姦を繰り返して、子供を産み続けたのだ。だが、血縁者同士の間に生まれる子供は高い確率で障害を患っているとされている様に、全ての子供がある程度の奇形を持って産声を上げたのだ。

 傍から見ても、それは狂気的であったが、姉弟、もとうい夫婦は、揃って喜んだ。

 時が経ち、子供たちが成人した時には、それは大家族となり、やがて組織化するのは必然だったのだろう。

 だが、集会が近親行為に神秘性を見抱いたのは、夫婦の子供たちに言った「君たちは特別な存在だ」という言葉を鵜吞みにしただけだった。近親相姦という禁忌によって生まれた事だけが、奇形児たちにとっての唯一のアイデンティティだったのだろう。

 しかし、時が有限的に進む様に、人の考えや思想というものも、絶えず変化を起こすものだ。禁忌を繰り返す事で、神にも等しい存在がこの世に誕生する。あまりにも蒙昧で幻想的な考えが浸透していき、気が狂ったかの様に、奇形児たちは家族同士で性行為をしたのだ。真に恐ろしいのは、誰も自分たちが狂っているのを自覚していなかった事と、誰もそれを止めようとしなかった事だ。

 増えすぎた人口を人目に晒さずというのは難しく、やがて彼らの存在も世間に認知される様になった。彼らは自らを神聖な存在と主張しながら、他の者との性的接触を極端に避けてきた事を皮肉られて、集会の者達は〈インセスト〉と呼ばれる様になった。

 そんな彼ら集会の存在は、近親相姦は絶対的なタブーだと、人々に改めて認識させた。

 そして、運命の時が訪れたのだ。幾度もなく繰り返されてきたまぐわいの果て、人類が事実上最後に観測した皆既日食と共に、聖アハト近親集会は壊滅した。

 理由は未だに不明とされているが、それはただの通過点に過ぎなかったのだろう。

 偶然か奇跡か、突如として、歴史上最後の蝗害が発生した。大量の蝗が行き交う中に、僅かながらに生き残ったインセストたちがいた。その中心は奇形の女性であり、腹が大きく膨らんだ妊婦だった。

 そして、不思議な事が起こった。皆既日食の終わりと共に、大量の蝗は一斉に生き途絶えたという。それは不吉の前兆か、それとも祝福の前触れか。そのいずれでもなく、結果だけを述べば、赤子の泣き声だけがそこにはあった。

 蝗の死体の中からそれは聞こえてきた。かき分ければ、出てきたのは食い破られた女の死体だった。肉が避け、内臓が撒き散らされている。だが、確かにそこに無残に死んだ母親と赤子のへその緒は繋がっていた。大量の蝗の死体にまみれたそれは、誰の目から見ても、呪いという恩恵を授かってこの世に生まれた忌み子であった。



「その赤子は後に“亜刃十蝗羅“と名付けられたのよ」

「…つまり、俺もまた…忌み子、と言う訳か…」

 母親の話を聞き終えた蝗利は謎の喪失感を感じた。禁忌の果てに生まれた者が、さらに産ませた何か。感情が渦巻くばかりで、蝗利自身の情調は落ち着かない。

 先ほどまでの痛みは等に消えてしまっているというのに、未だ胸を押さえつけているのはそういう事なのだろう。自分でもよく分かっていないのだ。

 しかし、目の前の亜刃十利迦の表情は不気味なほどに、にこやかだった。

「蝗利、それは違うわ。禁忌の果てに生まれた神の子…それは貴方よ」

 頬を赤らめながら、口角が大きく上がっている。

「亜刃十蝗羅ではなく、貴方こそが奇跡! 特別な存在なのよ!」

「何を言って…?」

「妊娠した時に、お腹の中にいたのは女の子だったのよ。それが突然、男の子に変わった。医者の話によれば、生物学上あり得ない突然変異との事らしいわ。その時に確信したわ。私のお腹には神秘が宿っているのだと。そして、生まれた貴方はこの世の誰よりも美しかった。これ以上に、貴方が特別でない理由があって?」

「…蝗司、は…?」

「…あれは、圭吾さんとの子供だもの。何も特別な事は無いわ。産んだだけでも感謝して欲しいくらいよ」

 蝗利は衝撃の真実に驚いていたが、それよりも確認しなければならない事がある。

「…蝗司を、愛していないのか?」

「えぇ、愛していないわ。圭吾さんの事は愛していたけど、貴方を産んだ後だったから」

 今まで何故、蝗司が無下に扱われるのだろうと疑問を抱いていたが、今この瞬間を持ってして、全てのパズルのピースは揃った。その上で導き出した結論は一つだけだった。

「アンタを殺す…」

 膝枕越しに蝗利は目の前の母親にそう告げた。

 それに対して、亜刃十利迦は嬉しそうに微笑むだけだった。

「その言葉を、待っていたわ!」

 蝗利は全身に悪寒を感じた。目の前に居るのは人間の皮を被った悪魔なのだと、今ようやくにして気付いた。蝗利は立ち上がり、殺意剥き出しの瞳で亜刃十利迦を見つめた。

 この女の言葉の意図は蝗利にはさっぱり分からない。だが、今まで弟が受けてきた仕打ちを考えれば、目の前の邪悪を生かしてはおけない。

「これを…」

 すると、亜刃十利迦は機械仕掛けの刀を蝗利に差し出した。その刀を蝗利は設計図上のみで見た事があった。

 存在するのかすらあやふやな幻の武器であり、神の名を冠した殺戮兵器であった。

「建御雷神…」

「雷神であり、剣の神。目には目を、刃には刃を…」

「…それで、アンタを殺せば良いのか?」

 今までの母親の言葉を蝗利はそう解釈した。その真意ははっきりと見えている訳ではないが、亜刃十利迦は息子による殺害を望んでいる。

「えぇ。私を、貴方の永遠にしてちょうだい!」

 それが亜刃十利迦の本意なのだと、蝗利は確信した。腹の赤子に起きた突然変異を目の当たりにして、この女は禁忌の果てに生じる神秘というものに心酔する様になった。

 そうして腹を痛めて産んだ我が子を奇跡の子だと本気で信じている。

 今まで、蝗利に向けられたそれは決して親としての愛情ではなく、信仰による愛だったのだと、蝗利は理解した。

 蝗司に対する明らかな態度もそうだが、他人を見る時の目には、光が無かった。だというのに、蝗利を前にする時に限って、そこに光が灯る。

 だから、幼少の頃から薄々気付いてはいた。あれから何年と時が経っているというのに、母親がその頃から何も変わっていないのは、単に環境が変わっていないからなのだろうか。

 それとも、変化の要因となる事が何も起こらなかったからなのか。

 どちらにせよ、蝗利は母親から差し出された刀を受け取り、その刀身を鞘から抜き出したのだ。金属質な柄から延びる刀身は美しく、怪しい色の光沢を纏っていた。名刀よりも、妖刀の方がしっくりくる印象だ。

 そして、亜刃十利迦を斬殺するに相応しい業物と言えるだろう。

「さぁ、速く私を殺しなさい! 私を、永遠にして!」

「…」

 蝗利は無言で母親を睨み付けるだけだった。だが次の瞬間、武御雷神の刀身が斜め上方向に軌道を描いた。宙に浮かぶのは亜刃十利迦の左腕。切り裂かれた肉の断面から鮮血があたり一面に飛び散る。亜刃十利迦は少し驚いた表情をしながら、少し遅れて断末魔を上がる。恐らく、彼女が己の命が一瞬で散ると思っていたのだろう。

 だが、現実に下されたのは、腕を切り裂かれた苦しみであった。

「なあぁあ⁉ なぁあぁあんんんでぇぇえええぇぇえ⁉」

「…アバドンに蝗司を差し出したのは、お前だろう。いや、ハティの方か。いぃやぁ、どちらでも構わない。アンタは、苦しんで叫んで、絶望してもらわなくちゃ、困るんだよ…」

 叫ぶわけでもなく、蝗利は静かな声でそう言った。刀身にこびり付いた血を地面に向かって掃った。蝗利の目には静かな殺意で満ちていた。

「インセスト? 禁忌? 神秘だと? どうだっていいね‼ 女から男に変わったからなんだ? アンタが喜んでも、俺は苦しいんだよ! この顔を見ろ! 男の顔じゃないんだよ! 女も、男も、誰もが、俺を“男”として見てくれないんだよ! 神の子? 違う。俺も父親と同じ立派な忌み子だよ。それを喜んでいるお前を、俺が簡単に殺してやる訳がないだろうが‼」

 蝗利は刀を大きく振りかざして、勢い良く振り下ろした。再び鮮血があたりに舞う。

 地面に亜刃十利迦の右腕が転がる。

「ああぁぁああああぁあああああぎぁあああ、ああがぁぁああああぁぁああぁあぁぁ!」

 両腕を失った痛みは、蝗利の肺とあばら骨がイカれた時と同等のものなのか。

 母親の痛みを共有できないから、蝗利にもそれは分からない事だ。しかし、蝗利は母親の断末魔が耳障りだと思い、その顔を思い切り蹴飛ばした。仰向けの姿勢で地面に横たわった母親に蝗利は跨った。刀身は亜刃十利迦の首に当たっていた。

 その時の母親の表情は、恐れを抱いている様であった。それを見て、蝗利は自分の口角が自然と上がっている事を自覚したが、それを隠すことも、誤魔化すこともしなかった。

 この女には、とことん絶望してもらわなきゃならないからだ。

「悪魔よ…貴方は…」

 震えた声で亜刃十利迦はそう言った。

「そうだよ。アンタが産んだのは奇跡なんかじゃない。悪魔だよ! 鳥籠に神はいないんだよ‼」

 建御雷神の刀身が、亜刃十利迦の首を切り裂いた。切り目から噴き出てくる大量の鮮血が蝗利の顔に掛かった。腹を痛めて自分をこの世に誕生させた母親をこの手で殺すとは不幸だと誰もが思うだろう。だが、蝗利にとっては違う。今、この瞬間が最も幸福であった。

 微かに動いたその口は、何かを語っている様にも見えた。喉笛の位置を搔っ斬ってしまったがために、声が出せず、何を言っているのか分からない。

 口の動きだけで理解するしかないと、蝗利は母親の最後の言葉をじっと見つめた。断片的に得られた情報はアバドンに関する事であった。それらを繋げて、一つの情報にまとめようとした。すると、蝗利は驚愕と絶望を同時に味わった。

「…アバドン、を…倒すに、は、器の…命を、絶つしか道、は…無い」

 亜刃十蝗利に課せられた運命は母殺しだけでなく、愛する弟すら手に掛けなければならないものであった。歯切りをしながら、刀の柄を力強く握りしめ、刀身にこびり付いた血を掃った。目線を変えると、フロンティア中に煙が舞っていた。既に周辺では、地獄絵図と化している。何をなそうと、何もしなくとも、地獄である事は変わりない。

 そうして、ふと弟は今何を思っているのだろうかと疑問が浮かんだ。自分の意思とは関係無しに人々が死んでいくのを目の当たりにして苦しんでいるのだろうか。それならば、やはりアバドンをどうにかしなければならない。しかし、先ほどの母親の言葉を真に受ければ、蝗司の命ごと切り捨てるしか方法がない。蝗利は、自分はどうするべきか、上を眺めて自問した。

 結論は精々、弟にとっての最善となるものを、だ。ならば、やる事は決まりだ。

「…鎧装」

 HGDをサモンズ・ギアに接続し、蝗利は再びクリムゾン・ホッパーに変身した。建御雷神を機械仕掛けの鞘に納めて、クリムゾン・ホッパーはその場から去った。

 母親である亜刃十利迦の遺体だけを残して、あたりは静寂に包まれる。

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