第32話 貴人点そして

なおも申し訳無さそうに竜樹が

「あの、貴人きにん台は?」

と聞くと、史恵にも茶の心得こころえがあるらしく

「誰に対しての貴人点きにんだてですか?」

と、驚いた声を上げた。

西口と平田は『貴人点』という作法を知らなかったが、貴い人というキーワードから連想することができた。

それで竜樹の先ほどの言葉から、亡くなったそれぞれの父親に所縁ゆかりのあるお雛様に供養することを史恵に説明してくれたが、理解してはもらえなかった。

納得してはいない史恵だったが、それでも茶筅販売のためのディスプレイの中から探しだしてきてくれた貴人台を丁寧にぬぐうと

「工房へご案内しましょか。」

と言った。


西口と史恵に案内されて入った工房には、時折訪れる見学者のために三畳ほどの畳スペースがあり、そこに電気式の風炉と茶釜、おあつらえ向きに棚までしつらえてあった。

史恵に手伝ってもらって準備を始めた竜樹は、平田のギャラリーで茶を振る舞われることを予想して用意していた懐紙挟かいしばさみみから、自分の袱紗や懐紙そして、扇子を出すと、正客席に飾った雛人形の後ろに作法通りに扇子を置く。

貴人点を始める前に、以前母と一緒に見学した神社での献茶式を思い出し、マスクをしようとしたが、亡き人が見えていることを隠しているてまえ思い直し、懐紙を二枚はずすと右手前に丁寧に折り、慎重に口にくわえ、点てる茶に息がかからないようにした。


貴人台の上の正一の作った茶碗に、哲二が作った茶杓で茶をすくい、茶筅で点てる。

雛人形の前にそれを置くと、青海波模様の正座している膝頭ひざがしらが見えた。

今までずっとぼやけていた文枝の体が、除々に輪郭を作っていき、白い手が茶碗に伸びる。

正一の作った小振りの茶碗が少しずつ二重になり、文枝の手に吸い込まれるように二つに別れた。

白い左手も現れ、両手で茶碗を持ち上げるとそれにつられて、黒留袖の花嫁衣装を着た美しい文枝の姿があらわれてくる。


赤い紅を下だけさした唇が茶碗をはさみ、顎を上げて喉元が見える頃、文枝の横に年老いた哲二が座っていた。

嬉しそうに、恥ずかしそうに、美しい文枝の茶を飲む姿を眺めている。

その哲二に寄り添うように、子どもの正一も現れ

  ―文枝おばちゃん美味しいか?―

と尋ねる。

  ―うん。美味しいよ。―

文枝が、哲二と正一を見てにっこりと笑うと

竜樹を見て。

  ―ありがとう。大切な人の気持ちを届けてくれて、ありがとう。

ありがと・・・―

最後の言葉を包み込むように、三人の回りを桃の花びらを乘せた風が舞い、全てが雛人形の箱に吸い込まれて行く。


工房には、ただ桃の花の香りだけが残る。

「なんや知らん、ええ匂いがしませんか。」

平田の問いかけに、西口も

「史恵、お香をいたんか?」

と尋ねる。

史恵も不思議そうに、ただ、首を横に振った。


そっと自分の唇から懐紙を外すと、袱紗を腰につけ、雛人形に向かって竜樹が

「おしまいいたします。」

と言い頭を下げる。

茶碗を下げようとする竜樹に

「あ、ちょっと待ってください。」

と、史恵が言い。

そうっと雛人形をずらすと正客席に座り、竜樹の点てた茶をすする。

「美味しいわぁ。」

その言葉に皆が笑った。


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