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俺は美穂さんを起こさないように手元のライトだけを付けて明日の授業の予習。タブレットで先生から送られてきたレジュメを取り込んだ。
レジュメを読みながら、気になったところをマークアップしていく。明日の授業のときに質問をするための準備。授業終わりには長文のレポート提出もあるから、その質を上げるためにも必要なこと。
面白くてつい集中してしまう。けれど時々顔を上げて美穂さんの様子を確認する。すやすやと穏やかに眠っている。美穂さんの寝顔を見ることは滅多にない。寝るときまでここにいることは、いつもはないから。
それがお互いのためだということは分かっている。もっと頼ってくれても良いとは思うけれど俺たちの間に何か悪い噂が立てば、社会人の美穂さんに迷惑が掛かるから。二人の間にある信頼が、社会的に理解されないことは常に念頭に置いている。
レジュメの確認を終えて、グイッと伸びをする。肩甲骨の辺りがバキッと鳴った。そろそろメンテナンスの時期だ。スマホを開いて予約サイトを開く。
「あー、どうしよっかな」
少ない給料で、マッサージ屋に行くのは俺の生活には必要なこと。筋トレもストレッチもしている。それでも肩が凝る。足が張る。疲れも溜まる。そんなときにはメンテナンスをしてあげる必要がある。
「とりあえず、一時間コースにしようかな」
ぽちっと予約。自分を大切に。それは母からの教えだった。自分を大切にできないのに、他人を大切になんてできないから。最初は良くても、次第にボロが出る。
ふと美穂さんを見る。目元は赤い。充電式のホットアイマスクを付けてあげる。また、少し髪を撫でる。出会ったころより艶も出て、元の黒い髪に近づいてきている。コシがある手触りも良い。
「大丈夫、大丈夫ですからね」
髪を撫でながら、呟く。美穂さんがもっと自分を許してあげられるように。絶対に揺らがせたくない信念は貫くことができる人だから。辛いときくらい、辛いと言って良い。
「美穂さんは頑張り屋さんですね。偉いです」
眠っている間に声をかけると頭に擦り込まれると聞いたことがある。起きているときには言えないけれど、少しでも美穂さんの心が元気になるように。そっと囁いて、撫でていた手を離した。
「寝るか」
俺は来客用のエアベッドをポンプを使って手押しで膨らませる。電動の方が楽なのに、といつもならぼやく。けれど今日は静かに膨らませられることに感謝した。
黙って黙々と黄色いポンプを押す。空気は青いホースから、エアベッドに。ちょっとずつ、ちょっとずつ。
「面倒臭い」
面倒なものは、面倒。ポンプを足で踏むスタイルに変更。立ってぷしゅぷしゅ踏みながら、手が届く範囲にある机の上の教材を通学用のリュックに詰める。タブレットを充電器に繋ぐ。
他のことをしながらもポンプを踏んでいると、エアベッドがぷくぷくに膨らんだ。手で固さを確認して、空気の流入口に栓をする。ブランケットをポイッとエアベッドの上に投げて、キッチンへ。
歯ブラシを取って、歯磨き。隣に並んでいる美穂さんの歯ブラシ。美穂さんと夕食を食べるようになってから、友人を家に招くことはなくなったと思う。あらぬ疑いほど面倒なものはない。
歯磨き粉のツンとするミントの香り。
「へっくしゅっ」
流しの中へ、くしゃみ。いつものこと。歯磨きしながらキッチンから離れることができない。歯磨き粉と唾液が混ざったものを部屋中に散布したくはない。あれは悲惨だ。ちょっと匂いが残るし。
磨き残しがないか舌で触って確認。それから口をゆすいで、深く息を吐いた。
「よし」
歯を磨いて少し目が覚めた。けれどそのまま布団に潜り込んでひと息吐く。
「トイレ行き忘れた」
渋々布団から這い出して、トイレに向かう。トイレから出てくると、炊飯器の保温機能が点灯していることに気が付く。
「冷蔵しておかなきゃ」
タッパーに小分けして、粗熱を冷ましている間にお釜を洗う。冷たい水に身震いしながらお釜を拭いて炊飯器に戻した。ご飯を詰めたタッパーも冷蔵庫に入れて、やっと作業終了。
念のため他に忘れているものがないか確認して、ようやく布団に。隣で眠っている美穂さんの寝顔をもう一度確認。
ホットアイマスクの電源は既に落ちている。そーっと外してあげる。
「むにゃぁ……からあげぇ」
何の夢を見ているんだ。つい頬が緩む。しばらく頬杖をついて眺めていると、またすやすやと安定した寝息を立て始めた。
「元気になったら、からあげ作ってあげるか」
最後にもう一度だけ。頭を撫でる。
「おやすみなさい」
小さく欠伸をして、デスクライトを消す。部屋が真っ暗になる。美穂さんの寝息だけが響く部屋。目を閉じる。
眠れない。けれど、その呼吸音を聞いていると落ち着いてくる。なんとなく、リズムを合わせて呼吸をしてみる。深く、穏やか。妙に落ち着くのは、呼吸のせいなのか、美穂さんだからなのか。
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