第2話 白鳥翔

 山崎ひろしは、昭和37年生まれの25歳。

 小学校まで本など少しも読もうとはしなかったが、中学に入って親から『旺文社文庫日本の名作50冊』というセットを買ってもらい、最初に『坊ちゃん』を読んだ時より、小説の魅力に引き込まれた。

 鴎外、龍之介、太宰などが揃った50冊を1年もせず読み終わり、次は新潮文庫で『若きウェルテルの悩み』や『車輪の下』を読んで感動したが、翻訳物は読みにくいのですぐ挫折した。

 当時、山口百恵の主演作が川端康成や三島由紀夫など文芸作品の映画化ばかりなのが気になったが、映画館は父兄同伴という校則により行けなかった。原作を読んで映画を想像した。

 ある日映画化の帯に惹かれて買った横溝正史の『犬神家の一族』に寝不足となった。以来、松本清張や森村誠一など推理小説にのめり込んだ。中3で『八つ墓村』に一人で行ってからは、角川映画中心に映画館へも足を運んだ。

 高校受験を終えた中学最後の春休み、『未知との遭遇』を観て取りつかれた。高1夏の『スター・ウォーズ』が続き、今度は映画の魅力に夢中になった。アメリカの娯楽作も観たが、キューブリックやコッポラに心酔した。日本のATG映画や松田優作主演作にも刺激を受けた。

 やがて、自分で映画を撮りたいという気持ちが芽生えた。大学は都内の文学部に進んだが、映画を勉強したくて、卒業後 鶯谷にある映像専門学校に入った。大学時代から、自分でストーリーを考え脚本を書き、仲間と作ったビデオ映画で監督もした。




 『小説之友社』の事務所。時刻は10時過ぎ。

遅刻したひろしが、取締役 兼編集長の岩波のデスクの前で、小さくなって立っていた。

 岩波編集長は、黒縁の眼鏡をかけ、五十代後半にしては白過ぎる頭をしている。黒澤明監督の『生きる』で志村喬が演じていた市役所の課長さんみたいなタイプだ。

 机の原稿に目を落としたまま、抑揚のない口調で話し始める。

「締め切り前は睡眠不足になるから、出稿したら少し気が緩むのはわかりますよ、編集はね。でもあなたは営業だから。営業はそれでまた大変だとは思いますよ。でも、ここは会社だから・・・・・」

 岩波の説教は、毎回およそ同じ内容だ。ひろしが叱られるのはいつも遅刻なので、そうなるのかも知れないが、テープを繰り返し再生しているかのようだ。頭ごなしに怒鳴られるよりはずっといい、とひろしは毎回約1分30秒の説教を聞いている。

 1分30秒が過ぎ、ひろしが席に着くと、一つ向こうのブロック席に座る智美と目が合った。智美、アラレちゃんのような大きなメガネをかけて、ベーと舌を出す。

「山崎くん、出がけにこれ、共同印刷に持って行ってくれないかな」

 背後から、編集員の角川に声をかけられる。

「はい、わかりました」

 角川は、三つ先輩の編集部員で、東大文学部出身。東大を出て、なぜこんな小さな出版社でひろしたちと机を並べて働いているのかは、色々事情があるらしいが、多くの社員は知らない。

 それよりも、角川が智美に仕事を教えるときの言動が、いちいち馴れ馴れしくて癪に障る。智美のまんざらでもない表情も気に入らない。互いに気があるのか?と勘ぐってしまう。

 角川から受け取った原稿を大きなカバンに入れると、「行ってまいりまーす」と外回りに出て行く。




 『小説之友社』に入社して、智美はすぐに編集に配属されたが、ひろしは営業に回された。編集志望は出していたが、男はまず営業に出されるらしい。

 出版社の営業職は、書店営業と広告営業に大別されるが、ひろしは書店営業である。文字通り書店回りだが、小さな出版社でしかも新入社員なので、今日のように印刷所に原稿を持ち込んだり、校正刷りを代理店から受け取ったりもさせられる。要は使い走りだ。

 夜も9~10時まで会社にいて、1時間電車に揺られて銀座から赤羽まで帰り、それからシナリオを書いている。寝坊もするわけだ。






 昭和通り沿いの会社を出て、地下鉄銀座一丁目駅まで歩きながら、ひろしは昨夜の変な男のことを考えていた。

 鍵も忘れずかけてあった部屋に、あいつはどうやって入ったのだろう。元来のんきな性格のひろしは、一晩も明けてから今さらそんなことを不思議に思っていた。

 ふと、背後に人の気配を感じた。ふり返ると、人影がサッとビルに隠れるのが見えた。

 ダッシュで走り出す。地下鉄駅の入口前まで全速で駆け抜ける。追って来る何者かがいることを、確かに感じる。足音さえ聞こえないが、なぜだかそれがわかった。急に立ち止まってふり返る。

 オットットと、前のめりによろめく男の姿があった。昨晩の革ジャン男である。

「あいつだ」

 ひろし、階段を駆け降りる。

 革ジャン男も追いかける。もう隠れもしないで、必死に走る。

 改札を抜けると、ホームに電車が停まっている。ひろし、電車に飛び乗る。ほぼ同時に扉が閉まる。

 動き出した電車の扉の窓から、後ろへ消えて行くホームを見るひろし。男の姿はない。

 ホッとして、電車の中に顔を向けるひろし。

「うわっ!」

 反対側の扉に、革ジャン男の姿を見つけて、絶叫する。

 男はニヤリと笑って、ロバート・デ・ニーロのように肩をすくめて見せる。

「駅伝選手なんだよ、俺」

 ひろし、後ずさりして、気弱になって尋ねる。

「どうして僕をつけ回すんですか。何も悪いことした覚えないし、借金もありませんけど」

「刑事でもサラ金でもないよ。昨日から白鳥翔だって言ってるでしょ」

 それを聞いて、途端に強気に変わるひろし。

「バカ!いい加減にしろ。やっぱ頭のおかしいヤツか。今度こそ警察連れてってやる」

 ひろしの大声に、周りの乗客たちがふり返る。

「バカと言ったな」

 革ジャン男の態度が豹変する。

「おとなしくしてりゃいい気になりやがって。俺は気が短いんだ」

「お、キレた」

「あんた、俺がこれだけ自分が白鳥翔だって言ってるのに、どうして信じようとしねえんだ。あんた作者だろ。見てわかんねんのか」

 ひろしも負けていない。

「バカかお前!白鳥翔は架空の人間なんだよ。信じるわけねえだろ、このバーカ」

「またバカと言った。バカはあんただ、この石頭。どうしてわかってくれねえんだ、このボケは」

「何だと、このタコ!」

 ひろしと男、互いに突っつき合う。

 乗客たちが、明らかに気の毒な人間を見るような顔でこちらを見ている。

 ひろしは全く周囲が見えていない。

 そのうち、次の新富町駅に到着する。扉が開くと同時に外へ飛び出すひろし。

「おい、警察行くぞ」

 ふり返ったホームに男の姿はない。ひろし、四方を見回すが、どこにも男はいない。

「何なんだ、あいつ・・・」






 『小説之友社』事務所、午後5時30分。

 ひろし、机に向かって手書きの伝票を書いている。

 智美がバッグを手に通りがかって、声をかける。

「忘年会、行くんでしょ」

「うん、もう少しかかるから、遅れて行くよ」

 角川が出口で智美を呼ぶ声がする。

「早川さん、一緒に行こう」

 智美、「はーい」と言って嬉しそうに角川について行く。一度ひろしをふり返る。

「じゃあ、あとでね」

 ひろし、それを目で追って、手の伝票をくしゃくしゃにしてゴミ箱へ投げつける。席を立って、トイレへ行く。



 小用便器が二つ並ぶ男子トイレ、ひろしが用を足していると、隣に背の高い男が立つ。

 横を見ると、それはサングラスをかけた革ジャン男。

 ひろし、目を丸くして驚く。

「お、お前は・・・」

 男、ひろしを見てニッコリ笑う。

「白鳥翔です、ヨロシク」

「この野郎、しつこい」

「じゃあ、あとでね♡」

「おい、ちょ、ちょっと待て」

 と言うが、ひろしはその場を離れられない。

 革ジャン男、出口際で背を向けたまま立ち止まり、

「ちょっと待て、出かけたオシッコ止まらない・・・白鳥翔」

 と川柳をひねってから出て行く。

「おい待て、このヤロー!」




 カラオケスナックの店内、『小説之友社』の社員たちが十人くらいで飲んでいる。二次会と思われる。ひろしはカウンター席に座っている。

 智美がステージに立って、杏里の『オリビアを聴きながら』を歌っている。最近のOLたちが好んで歌う曲で、これを歌っている女の子は例外なく可愛く見えるから不思議だ。

 でも智美は、そんな魔法のような曲を歌わなくても可愛い。白いセーターのふくらみを遠くから眺めながら、ひろしはそう思った。




 映像学校で、ひろしは仲間たちと夏休みに映画を撮った。

 ひろしの脚本・監督で、タイトルは『ミスキャスト』。主人公は劇団俳優で、演技の訓練として二人の恋人の前でそれぞれ違った男を演じているが、舞台の役も相まっていくつもの人格が交錯し、精神に異常をきたして行くというストーリー。

 この恋人役の一人が、早川智美だった。

 ひろしは、入学した頃から、友達とニコニコ話をしている智美の姿を、後ろ席からずっと見ていた。そこだけ後光が差したように眩しく見えた。

 ダメもとで出演依頼をしたところ、返事はYESだった。演じることをしてみたかったのと、彼女の声を初めて聞いた。

 撮影中二人きりの隙をねらって、映画に誘った。その頃映画仲間で話題だった『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を、有楽町スバル座で観た。

 それから10回ほどデートを重ねたが、松田聖子の歌のように、ひろしは手も握れないでいた。11回目のとき、智美が『ミスキャスト』のNGカットが見たいと言った。完成した映画は関係者を集めて上映会をしていたが、使われていない自分のシーンを見てみたいというのだ。

 初めて智美を部屋に招いた。ビデオをひと通り見終わった後、思い切ってキスをした。夢中で唇を吸いながら、スカートのホックの外し方を教える智美の声を聞いた。NGカットは、煮え切らないひろしに対する智美の作戦だった。5分後には二人とも裸になっていた。

 ひろしは舞い上がったが、関係は長く続かなかった。後光が差すような女神様は、ひろしのような男では物足りなかった。鈍感なひろしが気がつかないくらい、ゆっくり少しずつ智美は遠ざかって行った。気がついたときには、別の彼氏が出来ていた。




 智美の歌が終わると、次はひろしが歌わされた。近藤マッチの『愚か者』。

 ステージの上から、カウンターで顔を寄せて話をしている智美と角川が見えた。

 角川は、さすがに東大出だけあって頭は良いようで、日本近代文学からロシア文学まで知識が豊富だ。特にドストエフスキーが好きだそうで、『カラマーゾフの兄弟』が愛読書で3回も読んだという。『罪と罰』上巻で挫折したひろしには理解出来ない頭の持ち主だ。

 しかし彼は文学論は語れるが、自分で何かを書いたりはしないらしい。智美もそれを言っていた。実作をしたことがない人間に編集の仕事は出来ない、と相変わらずの辛辣な評価をしていた。

 そんな角川と、智美はつき合っているのだろうか。日比谷で二人を見たという社員の証言もある。


 ふと、智美たちの先の一番奥の席に目を向けると、あの革ジャン男が座って飲んでいる。夜の屋内でサングラスをかけたまま。

「おい!お前、何でここにいる!」

 ひろしの叫びがマイクからハウリングして響く。皆がひろしをふり返る。

「どこまで追っかけて来る気だ。いったい何者なんだよ、お前」

 マイクを通した大きな声のまま、男に話しかけるひろし。皆が耳をふさぐ。

 男、ダルそうな態度でサングラスを外す。

「だから、白鳥翔だって言ってるでしょ」

「まだ言ってる。いくらシナリオがつまんなかったからって、そこまで他人をおちょくることねえだろ」

 智美が、自分のことかと目を丸くする。

 ハウリングにたまりかねて、角川が声をかける。

「山崎くん、どうしたの?」

「あの男が昨日から僕の部屋に勝手に上がり込んだり、つけ回したりしてしつこいんです。みんなで捕まえて、警察に連行してもらえませんか」

 同僚社員たち、ステージのひろしの目線の先を見るが、誰もいない。そっちの方とひろしの方と交互に見ながら、首をかしげる。

「男って、誰のこと言ってるの?」

「そこの一番奥に座ってる、ダサい革ジャン男ですよ。ほら、いま手を上げてる」

革ジャン男、ニヤニヤしながら右手を上げる。

 しかし、同僚たちには男の姿が見えない。したがって他の人たちからは、ひろしが誰もいない場所に向かって一人で怒っているようにしか見えない。みんな、ひろしを怪訝そうに見ている。智美も、ひときわ凍り付いた表情で立っている。

 ひろし、マイクを放り投げて、男のいる場所まで駆け寄る。

「こいつですよ、こいつ」

 誰も何も言わない。

「見え・・・ません?」

 ひろし、革ジャン男の頭を叩きながら、訴え続ける。

「編集長、見えますよね」

 岩波編集長が立ち上がり、相変わらずのゆったりとした口調で言う。

「山崎くん、疲れてるようだから今日はもう帰りなさい。明日は休んでいいから」

 ひろし、困惑しながら、異常な事態を感じ取る。

「どういうことだ」

「やっとわかったか。俺が生身の人間じゃないってこと」

 ひろし、智美の方を見る。心配しているのか軽蔑しているのか、わからない顔でこちらを見ている。

「とりあえず、外に出て話をしようか」

 革ジャン男が言って、ひろしも後をついて店を出て行く。


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