第3話『桜子の肖像』
翌日の午後、久保鳳来のアトリエには特別な静けさが漂っていた。彼女は椅子に座り、向かいに座る篠宮桜子の姿を集中して観察していた。
「少し顎を上げて、そう、いいわ」
鳳来は鉛筆を走らせ、桜子の肖像を描いていた。
「先生、本当に私を描いていただけるんですか?」
桜子の声には、嬉しさと恥じらいが混じっていた。
「ええ、ずっと描きたいと思っていたのよ。あなたの顔には、特別な光があるから」
鳳来の言葉に、桜子の頬が少し赤くなった。
「じっとしていて。表情が変わると困るわ」
鳳来は優しく注意した。桜子はすぐに真剣な表情を取り戻した。
アトリエの窓からは、午後の柔らかな光が差し込んでいた。季節は冬から春への変わり目で、光の質にも微妙な変化が見られた。鳳来はその光が桜子の黒髪にどう反射するか、瞳にどう映るかを注意深く観察していた。
静寂の中で、二人の呼吸だけが聞こえる。時折、鉛筆がスケッチブックの上を滑る音だけが、その静寂を破った。
「先生、いつから人物画を描くようになったんですか?」
桜子が静かに尋ねた。
「私? ずっと昔よ。最初は人物画から始めたの。抽象画に移ったのは後からよ」
鳳来は筆を止めずに答えた。
「知りませんでした。先生の初期の作品、見てみたいです」
「ああ、ほとんど残ってないわ。若い頃の作品は、多くはもう、燃やしてしまったわ」
鳳来の声には少しの後悔が混じっていた。
「もったいない……」
「そうね。でも当時は、より良いものを描きたくて、満足できないものは全部捨ててしまったの。今思えば、若さゆえの傲慢さだったわ」
鳳来は少し微笑み、スケッチを続けた。桜子の顔の輪郭が紙の上に現れ始めていた。鋭い観察眼と熟練した技術で、彼女の特徴を捉えていく。高めの頬骨、少し厚めの唇、優しさと強さを併せ持つ目。
「桜子さん、あなたが初めて私のアトリエに来た日を覚えているかしら?」
「はい、もちろんです。学生の頃、研究のために先生を訪ねました。緊張で足が震えていました」
鳳来は懐かしそうに笑った。
「そうだったわね。でも、あなたの眼差しには特別なものがあった。絵を見る目が違っていたの」
桜子は少し照れたように目を伏せた。
「そんな……ただ先生の作品が大好きで」
「いいえ、それだけじゃないわ。あなたには画家の目がある。物事の本質を見抜く目よ」
鳳来は桜子の髪の流れを描きながら続けた。
「だからこそ、あなたにはもっと自分の作品に集中してほしいの。私の助手をしている時間がもったいないわ」
桜子は静かに首を横に振った。
「いいえ、先生のそばで学ぶことは、私にとって何よりも大切です」
「でも、いつまでも私に頼っていては、本当の意味での成長はないわ」
鳳来の声は厳しくも優しかった。
「わかっています。でも、もう少しだけ……」
桜子の言葉に、鳳来は深いため息をついた。
「桜子さん、私はあと何年生きられるかわからないわ。いつまでもそばにいることはできないの」
その言葉に、アトリエに重い沈黙が流れた。桜子の目に涙が浮かんでいた。
「先生……」
「泣かないで。それでは顔が変わってしまうでしょう」
鳳来は優しく言った。桜子は懸命に涙をこらえた。
二人はしばらく無言で過ごした。鳳来は集中して描き続け、桜子はじっと座っていた。
やがて、鳳来は鉛筆を置いた。
「一度見てみる?」
桜子は立ち上がり、鳳来のスケッチブックを覗き込んだ。紙の上には、彼女の姿が生き生きと描かれていた。単なる外見の模写ではなく、鳳来は桜子の内面、その繊細さと強さを捉えていた。
「先生……これ、私なんですか?」
桜子の声は感動で震えていた。
「ええ、私の目に映るあなたよ」
スケッチは完成には程遠かったが、鳳来の筆致には確かな力強さがあった。老いた手でありながら、線は迷いなく、核心を突いていた。
「こんなに……美しく見えるんですか?」
「あなたはもっと美しいわ。私の技術では、十分に表現できないほどに」
鳳来の言葉に、桜子は思わず鳳来に抱きついた。その突然の行動に、鳳来は少し驚いたが、すぐに桜子の背中をそっと撫でた。
「ありがとうございます、先生」
桜子の体温が、鳳来に伝わってきた。若い命の温もり。それは鳳来に、自分の若かった日々を思い出させた。
「桜子さん、このスケッチをもとに、油彩で肖像画を描くわ。明日からまた座ってくれるかしら?」
桜子は鳳来から少し離れ、目を輝かせてうなずいた。
「はい、もちろんです!」
鳳来は立ち上がり、窓際に歩み寄った。外では、小鳥たちが庭の木々を飛び回っていた。
「今夜の食事会、楽しみよ」
「はい、みんな先生が来ることをとても喜んでいます」
鳳来は微笑んだ。若い芸術家たちとの交流は、彼女にとって大きな刺激になることが多かった。歳を重ねるにつれ、新しい視点や考え方に触れることの重要性を、より強く感じるようになっていた。
「私も楽しみだわ。久しぶりに外出するから、少し緊張するけれど」
「先生が疲れたら、すぐに帰りましょう」
「ええ、ありがとう」
鳳来は再び桜子のスケッチを見た。紙の上の桜子は、現実の彼女よりも少し大人びて見えた。それは鳳来が桜子の中に見る未来の姿だった。
「桜子さん、あなたは素晴らしい画家になるわ。それだけは確かよ」
桜子は照れたように首を振った。
「先生のようにはなれません」
「いいえ、私よりずっと上に行けるわ。私には見えているの」
鳳来の目には、数十年の経験と洞察力が宿っていた。彼女は多くの才能ある若者を見てきた。その中でも、桜子の才能は特別だった。
「さて、もう少し休憩しましょう。それから続けるわ」
二人は窓際のテーブルに向かい、お茶を飲みながら静かに会話を楽しんだ。外の光は徐々に変わり、アトリエの中に落ちる影の形も少しずつ変化していった。
休憩の後、鳳来は再びスケッチを始めた。今度は桜子の手に焦点を当てた。絵を描く人の手には、特別な美しさがある。鳳来はその繊細さと強さを捉えようとした。
夕方になり、空が赤く染まり始めると、二人は今日のセッションを終えた。
「七時に迎えに来ますね」
桜子が言うと、鳳来はうなずいた。
「ええ、楽しみにしているわ」
桜子が去った後、鳳来は一人アトリエに残った。彼女は桜子のスケッチをもう一度見つめた。線と影で構成された単純な絵だが、そこには確かに桜子の魂が宿っていた。
「魂を描く……村上先生の言葉通りね」
鳳来は小さく呟いた。
彼女は棚から古いスケッチブックを取り出した。四十年以上前のものだ。ページを開くと、若かりし日の村上先生の肖像画が現れた。時間の経過で少し色あせていたが、線の美しさは失われていなかった。
村上先生と桜子。二人の女性は、鳳来の人生において特別な存在だった。一人は彼女を芸術の道へと導いてくれた恩師、もう一人は彼女の教えを受け継ぐ弟子。世代を超えて繋がる絆。
鳳来はそれぞれのスケッチを並べて見た。似ているところがある。特に目の表情に。好奇心と情熱に満ちた眼差し。
「芸術は続いていくのね」
鳳来はそう思いながら、スケッチブックを閉じた。
夕暮れのアトリエで、彼女は椅子に座り、目を閉じた。まだ描きたいことがたくさんある。まだ表現したい思いがある。これからの時間を無駄にするわけにはいかない。
七時前、鳳来は着替えを済ませ、桜子を待っていた。久しぶりの外出に、少し緊張していた。体調は良くなっていたが、まだ完全ではなかった。しかし、若い芸術家たちとの交流は、彼女にとって貴重な機会だった。
玄関のチャイムが鳴り、鳳来は桜子を迎え入れた。桜子は普段よりも少しおしゃれな服装をしていた。濃紺のワンピースに、シンプルなネックレス。
「素敵な服ね、桜子さん」
「ありがとうございます。先生も素敵です」
鳳来は淡いグレーのブラウスに黒のパンツという、いつもの装いだったが、小さなブローチをつけていた。それは村上先生から贈られた、銀製の小さな鳥の形をしたブローチだった。特別な時にだけ身につける大切なものだった。
桜子の車に乗り込み、二人は夜の街へと向かった。窓の外には、都会の明かりが流れていく。鳳来は久しぶりの外出を楽しんでいた。アトリエに閉じこもりがちな日々の中で、外の世界の色や音や匂いは、新鮮な刺激となった。
桜子のアパートは、都心から少し離れた静かな住宅地にあった。三階建ての小さなマンションの二階。玄関を開けると、中からは話し声と笑い声が聞こえてきた。
「お邪魔します」
鳳来が言うと、室内の会話が一瞬止まった。
「皆さん、久保先生です」
桜子が紹介すると、五人ほどの若い男女が一斉に立ち上がった。彼らの目には、尊敬と興奮の色が浮かんでいた。
「こんばんは。久保鳳来です。よろしくお願いします」
鳳来は優しく微笑んだ。若い芸術家たちの緊張をほぐそうとするかのように。
部屋は広くはなかったが、清潔で整頓されていた。壁には桜子自身の作品や、友人たちの作品が飾られていた。中央のテーブルには、手作りの料理が並べられていた。
「先生、こちらへどうぞ」
桜子は鳳来を上座へと案内した。鳳来はそこに座り、若い芸術家たちを見回した。
「皆さん、緊張しないでください。私はただの老婆ですよ」
その言葉に、場の雰囲気が少し和らいだ。
「では、乾杯しましょう」
桜子がグラスを持ち上げた。全員がグラスを持ち、かちんと音を立てた。
食事が始まり、会話も徐々に弾んでいった。若い芸術家たちは、最初の緊張が解けると、鳳来に様々な質問を投げかけた。
「先生、初めて個展を開いた時のことを教えていただけませんか?」
日差しのような明るい笑顔の女性、田中沙織が尋ねた。彼女は抽象彫刻を作る彫刻家だった。
「そうねぇ、随分昔のことだけれど」
鳳来は少し遠い目をした。
「二十七歳の時だったわ。小さな画廊での展示だったけれど、私にとっては大きな一歩だった。当時、女性画家はまだ少なくてね」
鳳来は当時の苦労と喜びを語った。材料を買うお金がなくて、古いカーテンに絵を描いたこと。評論家に厳しく批評されて一晩中泣いたこと。そして、初めて作品が売れた時の喜び。
若い芸術家たちは、食事も忘れて鳳来の話に聞き入った。彼女の言葉には、八十年以上の人生と、六十年以上の芸術活動から得られた知恵が詰まっていた。
「一番大切なのは、自分自身に正直であることよ。流行や批評に惑わされず、自分の内なる声に耳を傾けること」
鳳来の言葉に、全員がうなずいた。
夜が更けるにつれ、話題は現代美術の潮流や、デジタルアートの可能性など、より広範なものへと移っていった。鳳来は若い世代の考え方や感性に触れ、新鮮な刺激を受けていた。
桜子は鳳来の様子を心配そうに見ていたが、鳳来は予想以上に元気で、会話を楽しんでいるようだった。
食事の後、若い芸術家たちは自分の最新作の写真や、小さなスケッチを鳳来に見せた。鳳来は一人一人の作品に真摯に向き合い、的確なアドバイスを与えた。
「沙織さん、あなたの彫刻には独特の動きがあるわ。でも、もう少し余白を意識するといいかもしれないわね」
「ありがとうございます!」
沙織は目を輝かせた。
最後に、桜子が自分の最新作を見せた。それは小さなキャンバスに描かれた抽象画で、鮮やかな青と緑が交錯していた。
「桜子さん、これは素晴らしい進歩ね」
鳳来は心から感心したように言った。
「本当ですか?」
「ええ、以前よりもずっと自由になっている。色彩のバランスも素晴らしいわ」
桜子の顔が喜びで輝いた。
時計が十時を指した時、鳳来は少し疲れを感じ始めていた。
「そろそろ帰らせていただこうかしら」
鳳来が言うと、若い芸術家たちは一斉に立ち上がった。
「今日は本当にありがとうございました」
全員が深く頭を下げた。
「いいえ、私こそ楽しい時間をありがとう。皆さんの作品と情熱に触れて、私も元気をもらいました」
鳳来は心からそう感じていた。
桜子は鳳来を車で自宅まで送った。道中、二人は静かに夜の街を眺めていた。
「楽しかったですか、先生?」
「ええ、とても。皆さん、才能があるわね」
「はい、これからもっと成長していくと思います」
鳳来の家に着くと、桜子は鳳来を玄関まで送り届けた。
「今日はありがとう、桜子さん。明日また会いましょう」
「はい、おやすみなさい」
桜子が去った後、鳳来は静かな家の中に入った。疲れていたが、心はとても満たされていた。若い芸術家たちの情熱と才能に触れ、彼女自身も創作への意欲を新たにしていた。
寝室に向かう前に、鳳来は再びアトリエに立ち寄った。月明かりだけが照らす薄暗い部屋で、彼女は未完成のキャンバスを見つめた。
「まだやるべきことがある」
鳳来はそう呟き、明日への期待を胸に、静かに部屋を後にした。
その夜、彼女は桜子の肖像画の続きを夢で描いていた。夢の中の桜子は、現実よりもさらに輝いていた。それは未来の彼女の姿だったのかもしれない。
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