第2話『白のキャンバス』
朝の七時、久保鳳来は習慣通りに目を覚ました。体調が悪かった一週間は例外として、彼女は六十年以上この時間に起きていた。若い頃から、朝の光が最も美しく、創作に適していると考えていたからだ。
ゆっくりとベッドから起き上がり、窓を開ける。二月の空気は冷たく澄んでいた。小さな庭には、前日の霜が草の上に白い結晶となって残っている。
「今日も生きている」
鳳来は小さく呟いた。それは彼女の日課だった。毎朝、自分がまだこの世界にいることを確認するように。
洗面所に向かい、顔を洗う。鏡に映る顔は、言うまでもなく老婆のものだった。深いシワ、たるんだ頬、白髪。しかし、その目だけは若い頃と変わらず、鋭い光を放っていた。
簡単な朝食を済ませた後、鳳来は庭に出た。冷たい空気が肺に染み渡る。昨日までの咳は、ほとんど治まっていた。
小さな庭には、柿の木と梅の木が一本ずつ植えられていた。梅の木には、小さな蕾がいくつか見え始めていた。
「もうすぐ春ね」
庭の端には、小さな石の地蔵が置かれていた。長年の風雨で表面は滑らかになり、顔の部分はほとんど判別できないほどだった。鳳来は毎朝、この地蔵に手を合わせる習慣があった。
信心深いわけではなかったが、何かしら目に見えない力を感じていた。特に歳を重ねるにつれ、そのような感覚は強くなっていった。
アトリエに向かう前に、鳳来は地蔵の前に立ち、静かに手を合わせた。
「今日も、よろしくお願いします」
小さな声で言うと、胸の前で合わせた手を下ろした。
アトリエに入ると、昨日と同じように白い光が部屋を満たしていた。未完成の大きなキャンバスが、まるで彼女を待っていたかのように中央に立っていた。
鳳来はゆっくりとキャンバスに近づいた。この作品は、来月の個展のためのものだった。テーマは「生と死の狭間」。五年前の心筋梗塞の経験と、今回の病気をきっかけに構想したものだ。
キャンバスには、既に下地となる色彩が塗られていた。深い青と鮮やかな赤、そして金色。しかし、中央部分は空白のままだった。何を描くべきか、まだ決めかねていたのだ。
鳳来はパレットを手に取り、絵の具を準備し始めた。油絵の独特な匂いが、アトリエに広がる。その匂いは、彼女に安心感を与えた。
筆を手に取ったところで、電話が鳴った。
「はい、久保です」
電話の向こうは、画廊主の水原だった。
「久保先生、お体の調子はいかがですか?」
「ええ、もう大丈夫よ。来月の個展は予定通り行けるわ」
「それは何よりです。実は今日、新聞社の方が取材に行きたいと言っているのですが……」
鳳来は少し考えた。取材は嫌いではなかったが、今は制作に集中したかった。
「今週は遠慮させてもらえないかしら。来週なら大丈夫だけど」
「わかりました。そのように伝えておきます」
電話を切った後、鳳来はため息をついた。個展が近づくと、このような連絡が増える。彼女の名前には、それなりの重みがあった。日本を代表する女性画家の一人として、メディアの注目を集めるのは仕方のないことだった。
しかし、鳳来自身はそのような評価に対して複雑な思いを抱いていた。自分の絵が評価されることは嬉しいが、時にそれは創作の邪魔になることもあった。特に歳を重ねるにつれ、外部からの評価よりも、自分自身の内面と向き合うことが重要だと感じるようになっていた。
再びキャンバスの前に立つ。中央の空白部分を前に、鳳来は筆を持ったまま動かなかった。何を描くべきか。生と死の狭間にあるものとは何か。
ふと、先週倒れた時の感覚が蘇ってきた。意識が遠のいていく中で見た光と影。そして、不思議な浮遊感。
「そうか、あれを描けばいいのね」
鳳来は筆を白い絵の具に浸し、キャンバスの中央に向かって一本の線を引いた。そこから放射状に、様々な色の線が広がっていく。それは彼女が見た、意識の彼方にある光のようだった。
制作に没頭している間、時間の感覚はなくなった。いつの間にか正午を過ぎ、アトリエの光の角度が変わっていた。
ノックの音で、鳳来は我に返った。
「どうぞ」
扉が開き、桜子が入ってきた。
「先生、こんにちは。お昼持ってきました」
桜子の手には、小さな弁当箱があった。
「まあ、ありがとう。でも自分で作れるのよ」
「いいんです。作るの、好きですから」
桜子は弁当箱を開けた。中には色とりどりのおかずが詰められていた。鮭の塩焼き、卵焼き、ほうれん草のお浸し、梅干し。すべてが丁寧に作られていた。
「いつもありがとう、桜子さん」
二人は窓際のテーブルで向かい合って座った。
「先生、随分進みましたね」
桜子はキャンバスを見て言った。
「ええ、少しね。でも、まだまだよ」
鳳来は箸を持ちながら答えた。
「本当に素敵です。先生が倒れた時に見たものなんですよね?」
「そうよ。意識が遠のいていく時に見た光……いつも描きたいと思っていたのに、言葉にできなかったのよ」
桜子は静かにうなずいた。彼女は鳳来の言葉の意味を理解していた。芸術家として、時に言葉では表現できない感覚や思いを抱えることがある。それを形にできた時の喜びを、彼女も知っていた。
「先生、明日の夜、うちで食事会をするんですが、よかったら来ませんか?」
鳳来は驚いた顔をした。
「まあ、どういう集まりなの?」
「若手の画家たちが集まって、お互いの作品について話し合う会なんです。先生にもぜひ来ていただきたくて」
鳳来は少し考えた。若い世代との交流は、彼女にとって刺激になることが多かった。しかし、体調のことも考えなければならない。
「でもね、桜子さん。私が行くと、若い人たちも自由に話せないんじゃないかしら」
「そんなことはありません! みんな先生にお会いできるのを楽しみにしています」
桜子の目は輝いていた。鳳来はその熱意に負けた。
「わかったわ。行くわよ」
桜子は嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます! 七時からです。迎えに来ますね」
食事の後、桜子は自分の制作のために別室に移動した。鳳来のアトリエの隣には、桜子のための小さな作業スペースがあった。
再び一人になった鳳来は、キャンバスの前に戻った。午前中に描いた白い放射状の線は、乾いて光を反射していた。
鳳来はその線を見つめながら、死について考えた。死とは何なのか。彼女はこれまで何度も死について考え、絵に表現してきた。特に五年前の心筋梗塞の後は、死が身近に感じられるようになった。
しかし、今回の病気は違った感覚をもたらした。死は恐ろしいものではなく、むしろ自然な移行のように思えた。生から死へ、光から闇へ、あるいは別の光へ。
鳳来は新たな色を選び、筆を動かし始めた。白い放射状の線の周りに、淡い紫と青のグラデーションを加えていく。それは朝焼けや夕焼けの空のような色彩だった。
制作に没頭しているうちに、外は徐々に暗くなっていった。鳳来はようやく筆を置き、一歩下がって作品を見た。
まだ完成には程遠いが、彼女が表現したかったものの輪郭が見え始めていた。生と死の境界線、その瞬間の美しさと神秘。
疲れを感じた鳳来は、アトリエのソファに座った。窓の外は既に暗く、星が見え始めていた。冬の星座は特に美しい。
彼女は目を閉じ、息を整えた。老いた体は、以前のように長時間の制作に耐えられなくなっていた。それでも、創作の喜びは変わらない。むしろ、限られた時間と体力の中で制作することで、一筆一筆の重みが増していると感じていた。
鳳来が目を閉じていると、アトリエの扉が静かに開いた。
「先生、まだ起きてますか?」
桜子の声だった。
「ええ、ちょっと休んでいるところよ」
桜子は部屋に入り、鳳来の隣に座った。
「無理しすぎですよ」
「大丈夫。昔に比べれば、ずっと短い時間しか描いていないわ」
二人は暗くなったアトリエで、静かに並んで座っていた。
「桜子さん、あなたはどう思う? 死んだ後、何かがあると思う?」
突然の質問に、桜子は少し驚いたようだった。
「そうですね……私は何かがあると信じたいです。でないと、あまりにも寂しいから」
鳳来はうなずいた。
「私もね、若い頃はそう思っていたの。でも今は違うわ」
「違うんですか?」
「ええ。死後に何かがあるかどうかは、もはや重要じゃないと思うようになったの。大切なのは、今この瞬間に、どう生きるかということよ」
桜子は黙ってうなずいた。
「先生が倒れた時、私、本当に怖かったんです」
桜子の声は小さく震えていた。
「ごめんなさいね、心配させて」
「いいえ、そうじゃなくて……」
桜子は言葉を探すように間を置いた。
「先生がいなくなったら、私はどうしたらいいのかわからなくて」
その言葉に、鳳来は優しく微笑んだ。
「桜子さん、あなたは立派な画家よ。私がいなくても、自分の道を進めるわ」
「でも……」
「人はいつか必ず死ぬの。それを受け入れないと、真の意味で生きることはできないわ」
鳳来は桜子の手を取った。その手は暖かく、生命力に満ちていた。
「私の作品が残れば、私の一部も残るでしょう。でも、それよりも大切なのは、あなたのような次の世代が、新しい芸術を生み出していくことよ」
桜子は涙ぐみながらうなずいた。
「わかりました。でも、まだまだ先生には長生きしてほしいです」
「ええ、できるだけ頑張るわ。北斎には負けたくないしね」
二人は笑い合った。窓の外では、星がより一層輝きを増していた。
その夜、鳳来は久しぶりに心地よい眠りについた。夢の中で、彼女は若い頃の自分と対話していた。情熱に満ちた若い鳳来と、経験を積んだ老いた鳳来。二人は同じキャンバスに向かって、互いに筆を動かしていた。
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