「そのために私はなんだってした。観音通りまで流れたのよ。それなのに、なんで、あんたは……!」

 貴子の声は半分くらい悲鳴だった。真央は、男がなにも言い返さないことを願った。それか、今度こそ上手い嘘をついて、貴子を煙に巻いてくれ、と。けれど男は、風が吹いても痛みそうな、神経がむき出しになったみたいな黒い両目を貴子に向け、はっきりとした口調で彼女に告げた。

 「俺はそんなこと、望んでない。前からずっと、望んでない。」

 貴子の表情が歪む。彼女は明らかに傷ついていた。粉々になっていく、絶望の中で思い描いた理想。傷つかずにいろ、という方が無理な相談だろう。真央は、二人の間に割って入りたい、と確かに思った。両方ともが傷つかずにすむ方法を模索したい、と。でも、そんな方法がこの世に存在しないことも分かっていた。家族間の問題に口をはさむのは馬鹿のすることだとも。それでもなお、真央は男の腕を掴み、待って、と静止をかけようとしたのだけれど、一瞬遅かった。男は貴子を見つめたまま、話の核心を真っ直ぐにつきにいってしまった。

 「俺は、貴子だけいてくれればよかったよ。貴子だけが好きだった。」

 貴子だけいてくれればよかった。

 その言葉を聞いて真央は、いつかの夜に貴子が言っていた言葉を思い出した。あの夜彼女は、涙をためた目で、夢見るような口調で、言ったのだ。弟の側にいるために施設を出て、売春してお金も作った。それなのに、どんどん弟が遠くなっていくみたい、と。

 「姉ちゃん、」

 反射的に、真央は貴子を呼んでいた。自分なんか完全にお呼びでないと分かっているのに。

 「姉ちゃん、お願い、」

 受け入れて、と、言いたかった。ここまでもつれこんでしまったのだ。なにをどう受け入れてほしいのか、真央本人にすらよく分かってはいない。それでもただ、この繊細すぎる黒い目をした男を、受け入れて、と。姉とか弟とか、そんなことがそれほど重要だろうか。こんなに感情を縛られなければいけないほどに。ただ、そう思うのは単純に真央に、兄弟がいないからかもしれなかった。

 けれど貴子は、真央がそう口にする前に、首を横に振った。怖れるみたいに、一歩後ずさりながら。

 真央は咄嗟に、隣に立つ男の顔を見た。彼は、泣いても怒ってもいなかった。ただ、自分の姉をじっと見つめていた。それは、目の中に焼き付けるみたいに。

 だめだ、と、真央はほとんど叫び出しそうになる。このままでは、この姉弟は、一番悲しい終わり方をしてしまう。

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