そんなことないよ。呟いた真央の声は、力なく石張りの沓脱に落ちた。

 「姉ちゃんは、俺のこと買い被ってる。」

 そして彼は、寒いから中入ろう、と、貴子の手を離して室内へ引っ込んだ。もう話は終わりだ、と、まだ骨が大人になりきっていない背中が孝子を拒絶していた。

 きちんとした家庭でしつけられた痕跡を、いくらでも残している真央。今ならまだ、手遅れではない。そう言いたいのに、彼の背中の寂しさが、貴子の言葉を拒む。こんなふうに会話が途中で一方的に打ち切られるなんて、はじめてのことだった。こうなってしまえば貴子も、真央の背中に続くしかない。これ以上言いつのれば、真央はすぐにでも手ぶらで部屋を出て、もう二度と帰ってはこないだろうと思われた。真央は観音通りの売れっ子だ。自分ひとりの身体さえあれば、どうにでも食っていける。貴子はそのことを、痛いほどよく知っていた。

 リビングに入って、エアコンのスイッチを入れた真央は、貴子を振り向いて、いつものように笑いかけた。

 「お腹空いたよ、姉ちゃん。」

 マフラーをほどき、コートを脱げば、首に刻まれた痕の痛々しさがあらわになる。それでも貴子は、それ以上言葉を紡げない。失うことが、怖い。自分が真央との暮らしをそんなふうに感じるほど深みにはまっていることに、はじめて気が付いた。ひとりには、もう戻りたくない。そう感じる自分が、怖かった。この暮らしは一時的で、最後は結局ひとり。そんな当たり前のことが、分からないはずもないのに。

 「スープを温めるわ。」

 貴子が台所に入っても、真央はついてこなかった。お互い、頭を冷やす時間が必要。本当に賢い子だと思う。

 貴子はスープを温めて皿につぎ、それから洗面所から持ってきたタオルを濡らして絞った。首を絞められた後は、締められたところを冷やしておいた方が、治りが早いし痛みが少ない。観音通りの売春婦なりの知恵だった。

 「真央。これ。」

 タオルを渡された真央は、大人しくそれを首に巻いてから、スープをスプーンできれいにすくう。

 「姉ちゃん。」

 「なに?」

 「俺、出て行こうか。」

 言われると思っていたので、さほど動揺はしないで済んだ。

 「なんで?」

 「……いない方が、姉ちゃんはひとりで落ち着いて暮らせると思うから。」

 貴子は、自分は今だって落ち着いていると、真央と自分自身に示すために、スープをゆっくりと啜った。

 「真央は、出ていきたいの?」

 問われた真央は、しばらく考えた後、首を横に振った。

 「俺、まだ姉ちゃんといたい。」

 いっそ幼いような口調は、その分だけ真摯に聞こえた。貴子は、いっそ泣きたい気分で小さく頷いて見せた。

 「なら、いいじゃない。」

 真央は一拍の間の後、ぎこちなく微笑んだ。貴子も同じ表情を返した。

 お互い、過去は傷痕だらけで、探られればいくらでも腹が痛む。分かっていて、これまでそれらには触れないできたのに、段々そうもいかなくなってきていることが、貴子にじんわりとした恐怖を与えていた。

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