第2話
都内の単身者向けマンションの一室。
仕事に区切りをつけた亮は、コロナ禍の頃に衝動買いをした水槽に顔を近づけた。
購入当初は、それは色鮮やかな熱帯魚たちがひしめき合っていて、まるでギラついた不夜城のようだった。思わず二度見するような値段だったが後悔はしていない。
フリーランスで自宅に籠もりがちな亮にとって、この水槽は大切な癒やしスポットとなっていた。
いまは水草だけのゴーストタウンになってしまったが、こうしてかつての賑わいに思いを馳せながら眺めていると、自然と胸に湧きあがってくる郷愁が、亮の心を静かな世界へと連れて行ってくれるのだ……。
「……魚にも幽霊っているのかな?」
PCデスクの上でスマートフォンが震え、亮は現実に引き戻された。
見ると、人材派遣会社からメールが届いていた。
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Subject: 【急募】多々良様へのプロジェクト参画のご提案
多々良 亮様
初めまして、株式会社TechWave Solutionsの野々宮と申します。
フリーランスのプログラマーとしてご活躍されている多々良様のスキルと実績に非常に興味を持ちました。つきましては……
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亮は無言でメールを読み終えると、外出の準備を始めた。
祖父母の遺影に手を合わせ、いつものように右手に黒い手袋を嵌めたあと、玄関で靴紐を結ぶ。
そして、パーカーのフードを目深に被り、誰にも会いたくないという気持ちを形にするかのように顔を隠した。
昨日と打って変わって、今日は風が冷たかった。
「はいはい、三寒四温ね――」
亮はポケットに両手を突っ込み、前傾姿勢でコンビニに向かった。
夕飯の買い物を済ませて外に出た瞬間、風に煽られ前屈みになる。
「うぉっ、寒ぅっ……」
向かいに建つ家にぱっと電気が灯る。同時に夜の気配が漂い始めた。
早足で帰っていた亮は、不意にゾワッとする感覚に襲われ足を止める。
「……」
後ろを振り返るが、誰もいない。
気のせいかと前に向き直ると、どこからか、大勢の人が藻掻き苦しむような声が聞こえてきた。
慌てて周囲を見回すと、横道の物陰で女子学生が身を屈めているのが見えた。
彼女は苦しそうに嘔吐を繰り返している。
だが、その声に亮は違和感を覚えた。
――彼女の声じゃない……。
そう思った瞬間、女子学生の背後に、不気味な声の主と思われる
反射的に建物の影に身を隠す。
「なっ⁉ なんだよあれ……?」
悪霊か、それとも怪異か……。亮にはその答えはわからないが、あれが今まで見てきた中でも一番おぞましいものだということだけはわかった。
「あんなヤバい奴初めて見たぞ……」
物陰からそっと様子を窺いながら、亮はどうしたものかと考えを巡らせる。
「うっ…… ぎ、ぎもちわる…い…」
苦しそうに呻く女子学生を注視していると、彼女が吐いているのは吐瀉物ではなく、黒い霧のようなものだと気づいた。
――何なんだあれは? 煙?
あのデカいのを消すか? いや、彼女に影響が出るかも……。
その時、亮の脳裏に一瞬だけ映像がフラッシュバックした。
幼いころの自分、あどけない笑顔。
自分のものではない記憶――だが、確かに亮の中にある記憶の断片。
亮はイメージを振り払うように首を振る。
そして、右手の黒い手袋に触れながら、苦しむ女子学生を見つめた。
――あんなに苦しそうだし……あれが消えても彼女に不利益はないはずだ。
そう決意した亮は、女子学生に近づいていった。
「うぅ……だ、誰よっ! ほっといて!」
肩で息をしながら振り返った彼女の目に亮の姿が映る。
彼女は驚きと警戒の表情を浮かべていた。
「……そいつのせいだよな?」
亮は彼女の背後にある漆黒の存在を指し示した。
「えっ……あんた
彼女の言葉を遮るように、亮は静かに手袋を外し始めた。
「なっ、何なの、その手……?」
女子学生が悲鳴にも似た声を上げる。
彼女の目には、亮の右手が鱗のような模様に覆われ、赤い燐光を纏っているように見えていた。
亮が闇喰いに手を伸ばそうとする。
「だめっ! いまは制御が……」
「心配ない――どうせ消える」
女子学生が慌てて亮を止めようと身を乗り出す。
だが、すでに怪異は、黒い大波のようにうねりながら亮に覆い被さっていた。
ぐっと目を閉じた女子学生が恐る恐る目を開けると、まるで最初から怪異など存在しなかったかのように、亮だけがそこに立っていた。
「え……」
彼女は呆然とその場に座り込んでいた。
何が起きたのか理解が追いつかないのだろう。
「い、いない……消えた? えっ、嘘っ? 闇喰いがいないっ?」
彼女はパニックに陥ったように周囲を見回した。
生まれた時から一秒も離れることなく自分に取り憑いていた存在が、誰が何度、何をしようとも祓うことのできなかった存在が、いとも簡単に消え去ってしまったことに混乱している。
しかし、すぐにその混乱は別の感情に取って代わられた。
「ヤバっ、肩軽ぅっ! 最っ高なんだけど……こんな解放感、生まれて初めて!」
彼女は急にテンションを上げ、喜びを爆発させた。
一方、亮はそんな女子学生を見て、気まずそうな表情を浮かべていた。
「じゃ、じゃあ、俺はこれで……」
そそくさと立ち去ろうとした亮だったが、帰り道を塞ぐように、黒塗りのSUVが数台、タイヤを鳴かせて急停止した。
車のドアが一斉に開き、黒スーツを着た男たちが降りてくる。
無表情で冷徹な印象の彼らは、全員体格が良く、耳にイヤホンを装着していた。
考える間もなく、気づくと彼らは亮と女子学生を取り囲んでいた。
その物々しい空気に、亮は戸惑いの表情を浮かべる。
「え……」
男の一人がIDを提示した。
「都市安全調査室のものです――多々良 亮さんですね?」
「あ……えっと……」
「我々とご同行願います」
亮は呆気にとられたまま、黒スーツの男たちに両脇を持たれた。
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