第二話「気がつけば空は水色に」

 気がつけば空は水色に、透き通るような月と高く頭上に在る太陽は一つに、そして双子星がより一層輝きを増していて、私は自分が人間に戻ったことを実感した。

 行かなきゃいけない場所がある。伝えなきゃいけない想いがある。その想いは、もう私一人だけのものではない。伝えなきゃ。

 私の頭脳は残酷にも必要な記憶の整理と優先順位の設定を行った。もう、驚異のことは考えてはいけないと脳が訴えかけてくる。心はそれを拒絶したが、では岬はどうなる? と言い返され、それに従わざるを得なくなった。一種のパニック状態に陥った心と裏腹に、頭は嫌に明瞭だった。私は、軍隊の一兵士のように大きな目標のために私情を捨てた。

 ゆっくり深呼吸をして立ち上がる。周囲を見渡す。深緑色の草が膝まで伸びている。広い草原だ。なんだか、始まりの草原のことを思い出す。そして、切なさと焦りに襲われる。

 とりあえず、ここから脱出することにした。草を折りながら一歩一歩と歩を進め、草原と草原の間に道があるのを認め、そこまで歩いた。ほんの少しの運動で、心臓は悲鳴を上げた。

 道に出た時、「ここに来たことがある」という直感が走った。記憶を辿る。あれは確か王都へ向かう馬車に乗っている最中。運転手が「馬を休ませる」といって草原の近くに馬を止め、馬がよく草を食べるのでそれを眺めようと岬と共にステップを降りた。

 その時立っていた道だ。

 方向も覚えている。馬車は右の方に行った。ということは、平野城までの道程は左。胸の中に、ふつふつと希望が湧いてきた。

 そうと決まってからは早かった。私はランアンドウォークで平野城への道筋を辿った。馬車は二度休憩を入れた。そしてここでの休憩は一度目。ということは、順当に考えればここは王都まで⅓の地点。それなら、きっと行ける。

 いつしか、太陽は沈み、月が辺り一体を従えるようになっていた。星々は月の子分と言わんばかりに輝きをひそめる。

 夏といえども、寒いことには寒かった。しかし、それよりも体内の熱でバカになりそうだった。それで良いと思ったから、私はバカになってひたすら走った。都合の良いことに道は一本道だ。というより、この道しか通っていないのかもしれないというのが正しいか。どっちでも良いくらい、視界はぼやけ、意識は混濁している。

 足を動かす。力無く。それでも、力を振り絞って。雨上がりなのか、地面はぬかるんでいる。しかし、それは却って私の足跡<そくせき>を目で確認できることでもあり、私はそれを見て確かに前進していることを胸に焼き付け、もう二度と振り返らないと誓い、再び走り出した。

 その道は、確かに知っている道だった。王都へ向かう馬車の中、私は特別になった気になって少しはしゃいでいた。しかし、窓の外はよく覗いてもいた。父親が引っ越しをする時だけ新幹線に乗ったが、長野から名古屋に引っ越す時、あの山が富士山かなと車窓を覗いていた。多分、昔から動くものに乗ると外の景色が気になる性格なのだろう。

 それ故、私はぼんやりとだが道を覚えていた。パズルのピースをはめていくような感覚で、私は歩く。行く先々でピースがはまっていく。

 私は木陰に腰を置いた。月が昼間の憂さ晴らしとばかりに世界を照らしていた。木陰で驚異から借りた水筒のお尻をくいっと上げた。水が体に染み渡っていく。しかし、それは想定より早く終わった。雫が一滴、二滴と垂れる。水筒はもはや水の尽きない水筒ではなくなっていた。

 私は、それを見ても項垂<うなだ>れることしかできない。無念だった。いや、そんな言葉で済ませていいような事じゃない。それくらい重い事だった。

 それでも、彼女は最後、私に託した。なら進むしかない。

 私は仮眠も早々に月明かりを頼って道を歩き始めた。

 ピースが埋まっていく。しかし、果たしてピースが埋まった時にそれを見ることができるのだろうか。視界はどんどんぼやけていく。

 寒さとは違う悪寒がして、心臓の音<ね>が過剰に反響し、手足が痺れて感覚が希薄になっていく。その頃には、一歩足を出すだけで引っ掛かるような感覚があり、上手く前に出ない苦しみがあった。

 呼吸が浅くなっているのがわかる。歩き始めてからそう時間は経っていないのに、過呼吸寸前になっていた。一度立ち止まり、膝小僧を抑えて深呼吸する。

 こんなことは一時凌ぎに過ぎない。岬の姿を見ればわかる事だ。だけど、それでも足掻く。特別な存在じゃなくなったって、誰かの特別になれないわけじゃない。

 私は歩く。今はただ、彼女に会いたい。


 一体、何歩歩いたのだろう。末端は痺れて、完全に感覚がない。体が、筋肉が動かない。動け、動けと叫んでも、それは呼吸の浅さから声にならない。

 太陽も沈みかける頃、私は膝から崩れ落ちた。地面が乱暴に私を歓迎する。

 止まってたまるか。ぼんやりした頭の中で、その言葉だけが鋭く形を成している。何度も起きあがろうとした。しかし、起き上がれない。体を動かす自由はもう喪失してしまったようだった。

 ハァハァ、ゼェゼェと肩を動かす。私は顔を上げて、叫んだ。

「私っ……! 塩沢っ……みぞれ……っ! 絶対、岬の特別になってやるんだから……っ!」

 動け、動け、動け! 

 痺れて動かない体を持ち上げようと、「あーーー!」と叫びながら力を入れる。しかし、力が入らないのだ。立ち上がれるはずがない。

 もう、ここで終わりなのか。

「来訪者様……いや、みぞれ様…。?」

 誰の声だ……?

「ほら、やっぱりみぞれ様だわ!」

「岬の言ってたことは嘘じゃなかった……!」

 遠い……誰の声だ……?

「みぞれ様……立ち上がれますか?」

「立ち……上がれず……」

 顔を少し上げる。そこにいたのは、岬の両親だった。

「凄い熱……それに、この斑点……。岬のために、そんなになってまで帰ってきてくださったんですね。ありがとうございます。ありがとうございます……。お父さん、肩を貸してあげて。私は先に家に行っていろいろ準備してくるから」

 そういって、岬の母は走り去った。岬の父が若干ぎこちなく私を起こして、肩に体重を預けられるような体勢になる。肩にほとんどの重心を置いていてもなお、私の足元はおぼつかない。しかし、歩くことができる。岬に会うことができる。

 そう思って、ふと、最悪の事態が脳裏をよぎった。とても、私からは聞けない。でも、事実となったら受け止めなければいけない。

「みぞれ様。私たちは大変な勘違いをしていました」

 岬の父が話しかけてきた。

「勘違い、とは?」

「岬の命よりも一族の汚名を雪<そそ>ぐことの方が大事なことだと、そう思っていたのです。それどころか、自分の命が惜しくて娘の病気が進行していくのを見ていました。ですが、毎日弱って死に近づいていく娘の姿を見ていたらとてもそんな風には考えられなくなりました。私たちは娘を愛していて、はぐれものかもしれませんが、娘と共に生きてきたのです」

「それは……」

 今更遅いだろ、と思った。けれど、彼らにも親の情があったのだということか無性に嬉しかった。

「……岬は、まだ……いるんですか? この世界に」

「はい。岬は今もみぞれ様のことを待っています。ベッドから起き上がることすらままなりませんが、生きています」

 ああ、どうしてこんなにも簡単に涙が頬を伝うのだろう。私は涙を流し続けた。涙は、とめどなく溢れ続けた。岬の父はそんな私をただ支え、気が済むまで泣かせてくれた。

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