第五章『花冠は草原のすみ』

第一話「その普通に甘えても良いかな」

 霧は濃いが、不思議と湿り気はなく、それは視覚的な魔法のように思えた。こちらの世界の空気は気持ちが良い。けれど、不思議な気配がした。人の気配だ。

 「カチャ」と音がして、ニュッと黒い物が霧の中からその鼻先を表した。同時に驚異が現れ、一瞬にして私を追い越し、その鼻先をナイフで跳ね上げさせた。

 爆発音がした。一瞬、何が起こったのか分からなかった。それは、あまりにも破壊的で、音というよりは衝撃に近かった。私が状況を理解したのは、跳ね上がった黒い筒の先から煙が出ていたのが見えたからだった。

 銃。

 驚異が霧の先に突っ込んでいき、瞬く間に視界から消える。男一人の悲鳴が聞こえた後、部屋の隅々からどよめきと銃を構えるカチャという音が聞こえた。

 突然、胸ぐらを掴まれ強引に体が前に持っていかれる。尖った長い爪。驚異の手だった。

「止まれ! この男はまだ死んでいない!」

 霧の向こう側、見えた景色。驚異は右手で武装した兵士の男の首根っこに右手を回しつつ、ナイフを頸動脈に押し付け、自分の前に持っていき盾にしていた。私は彼女の左手に引っ張られ、ちょうど男と驚異、私が重なるようになっていることに気が付いた。これは人質戦術。

 では、敵とは?

 それは、そこら中にいた。門の前面を囲むように、十人前後の黒いコートの兵士達が砲身をこちらに向けていた。幸いなのは、完全に包囲されているわけではなく扇形に囲まれているに過ぎないことだった。けれど、その気になれば彼らは真横に移動するはずだ。こんな人質一人で身を守れるのか?

 私が前に出るか? それはつまり、一般人に戻った私にとって死を意味するが、私の目的はあくまで岬と罪の一族を助けることだ。それは、脅威に果たしてもらえば良いのではないか?

 しかし、そんな作戦も無謀だと気付く。私はすぐに蜂の巣にされて、時間はほとんど稼げないだろう。それに、人間の王が悪魔からの献上品を受け取るだろうか。または、罪の一族からの献上品を受け取るだろうか。

 そんな思考を巡らす間にも、驚異は次の手を打っていた。門を背後にしながら、兵士らの右側、壁の方にじりじりと近づいていく。兵士たちはそれを睨みつけながらも有効打が打てていない。これなら、この場を乗り切れる。

 そう思ったのも束の間、銃声がした。男がのけぞり断末魔をあげた。打ったのは、細身の男。その顔に見覚えがあった。

「外務卿……! お前……!」

「お前ら、こいつを取り囲め! 哀感から伝え聞いた通り、来訪者は悪魔を従えている! 来訪者と悪魔を殺して奇跡品を奪え!」

 外務卿の叫びに呼応するように、兵士たちはしなやかに隊列を変える。

「強行突破」

 と、驚異がつぶやき、彼女が盾にしていた男を隊列に投げ飛ばす。鮮血が飛沫となってほんの一瞬、目眩しになった。その隙に、驚異は私を連れ、目の前のガラス壁に向かい走り出した。

 再び爆発音がした。それは、驚異がガラスをぶち破る音とほとんど同時だった。驚異は私の手をしっかり握った。

「転移」


「ハァ……ハァ……」

 私が立ち尽くしている場所は、一瞬にして豪勢な廃墟の中から人で賑わう市場の裏路地に変わっていた。表通りから人の行き交う音が聞こえる。

 発砲を目の当たりにし遅くなっていた世界が急激に加速する。

「ハァ……ハァ……ッ!」

 私は顎に伝うほどの汗をかいた。究極の緊張と、そこからの解放は体の機能をおかしくしてしまった。私は膝に置いた手を震わせながら、汗が地面に滴り落ちるのを見ていた。

 しばらくそうしていて、ふと、驚異はどこだと周囲を見回してみると、私の後ろに倒れ込んでいた。そして、大地は彼女の口から溢れた赤い血を吸い込んでいた。

「きょ……驚異……?」

 考えていることが思わず口に出る。こんな体験は初めてだった。

 倒れる彼女に触れていいものなのか一瞬悩み、しかしそんなことを考えている時間はないと思い直して彼女の肩を軽くゆすった。反応はない。

「驚異……驚異……っ!」

 涙をこぼしながら、彼女の肩を揺する。力を込め、半ばやり過ぎなくらい強い力で肩をゆすった時、彼女はようやく意識を取り戻し、軽く咳き込んだ。当然咳によって飛び散る飛沫も赤色だった。

「撃たれたの……?」

 咄嗟に彼女の体から血が出ていないかを確かめる。恐ろしかったが、それよりもまずは止血をしなければという意識が優先された。彼女の頭を支えている左肩が血に濡れている。私は恐る恐る彼女の服を肩からずり下ろした。やはり、というべきか銃痕があった。絶え間なく流れる地で手が赤黒くなる。思わずあげてしまいそうになった悲鳴を噛み殺して、他に傷がないかを探す。

 驚異の体には三発の銃痕があった。そのうち一つは、左肩甲骨の下、内臓に響くような位置にあった。驚異の服のフリルをちぎり、銃痕を抑える。それ以外、私にはどうすることもできなかった。

 驚異が左腕を動かす。最初は、傷口が痛むから特に意味はなくそうしているものかと思っていた。しかし、何かおかしいと感じた。それは、彼女の視線が私の方ではなく自身の指先の方に向いていたからだった。

 彼女の視線の先を見やる。アルファベットらしき記号が見えて、それがぼやけ、知っているものに変化する。

「……文字?」

 知っている記号に変わったそれも、何かがおかしい。しかし、もし文字を書いているのであれば、その性質上、それは鏡文字になっている。そう思い覗き込む。それはやはり、彼女からのメッセージだった。

『呪文ヲ唱エラレナイ』

 その次は?

『私ヲ置イテ行ケ』

「……は?」

 驚異は血に汚れた左手の人差し指を目線とともに私に向けた。時に、目は口ほどに物を言う。彼女の目は「お前一人で行け」と、そう言っていた。

「ちょっと待ってよ、どういうこと……?」

 また、彼女が何かを書き連ねる。

『魔法ハ反動ガアル』

「そんなことじゃない! 驚異は何百年と生きてきた中で、最後の最後に岬の顔を見ることに決めたんでしょ!? だったら、こんなところで……ダメだろ、こんなとこで止まってたら! 私が担いででも連れて行く」

 分かってる。正しいのは、明白に驚異の方だ。彼女はもう「転移」の魔法を使えない。私もただの人間に戻った。追っ手は、私と驚異を殺すつもりでいる。目的地が分かっている以上、きっと追いかけてくるだろう。そして、私を殺し、奇跡品を自分のものにする。なら、足手まといは見殺しにして助けられる可能性のある方に望みを託すべきだ。さもなくば、どちらも失うことになる。二人の寿命には、限りがある。

「だけどっ! 私は命を救ってくれた恩人を見捨てるほどの恩知らずじゃないし、正しい方を常に選択できるほど賢くもない! だったら、足掻かせてよっ……! もしかしたら、奇跡的に二人とも助かるかもしれない! やってみないとわからない!」

 その時、驚異の目の色が移ろったのを私は確かに見た。彼女は一瞬困ったような目をして、それから仕方ないなという顔をして。左腕で右耳につけている円盤状の青いピアスを引きちぎって。そこから滴る何かを一口掬って口に入れて。私の方に手を伸ばした。

 その手つきの優しさを知っていたから、私は初めて会った時のようにそれを怖がったりはしなかった。しかし、その順番は逆の方が良かった。

 驚異は私の額に指を押し当て、唱えた。

「みぞれだけ転移」

 私が顔を上げるまでの短い時間に、彼女はもう一言だけ言葉を添えた。

「行ってらっしゃい」

 その低い声が耳にこだまする。そこは、打って変わって静かな場所。どこか知らない野山に変わっていた。もう驚異の姿はなかった。代わりに、彼女の血が私の額を滑って落ちていった。

 終わってない。まだ終われない。そう思っていても、立ち上がることができない。私は滑り落ちる彼女の血の一滴を手皿で受けて、手に染み込んで消える前にそれを飲み干した。

 どうしてそんなことをしたのかはわからない。どうして一瞬体が動いたのかもわからない。

 きっと、私の手で確かめたかったのだと思う。彼女はいない。私が、最後の証拠を消した。

 彼女の血は、ほんの一滴でも舌に山椒のように残る辛味と、歯科で麻酔に使うえも言えぬ苦みがあった。彼女は、やはり悪魔だったのだ。

 だが、悪魔は人間を愛していた。

 私も同じだ。

 女だが、女を愛している。

 きっと、他者から見たら悪魔だろう。

 それでも、愛してしまうのだ。

 普通で良いって言ってくれて、救われた。だけど、ごめん。私、普通じゃないんだ。女の子のことが好きなんだ。だけど、それが私の普通だから、その普通に甘えても良いかな。

「岬……」

 高く、空を見上げた。その空が、彼女の元へと続いていることだけは知っていたから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る