第三章『世界と私の関係』

第一話「とっくの昔に知っている」

 最近、よく夢を見る。あの子が朽ちて、風に吹かれて、塵<ちり>になって消えてしまう夢。今朝もそうだった。彼女は、草原に一人佇んでいた。背中を向けていたから、話しかけようとした。すると、人気を察したのか彼女が振り向いて、私は絶句する。そして風が吹く。私は左手で頭の上を抑えながら、彼女に手を伸ばす。しかし、彼女は消えてしまうのだ。

「そんなこと、とっくの昔に知っている」

 いや、知っていた。そのはずなのに、私は手を伸ばすことしかできない。彼女の袖を掴めない。

 彼女は悪魔に魅入られた。だから、人間がいくら手を伸ばしてもそこには届かない。ならば、私は悪魔にもなろう。そうして、私はこの世とおさらばした。


 目が覚める。昨日の疲れからか、長く眠っていた時特有の体が重い感覚があって、目が覚めてからもしばらく体を起こすのは憂鬱だった。

 私はぼうっとしながらでこぼこした壁をなぞった。

「みぞれ様。そろそろ起きてください。……何をしてるんですか?」

「ああ、これ? 冷たい岩壁を触れば意識が覚醒するかなと思って」

 入り口の岬が不思議そうな顔をする。まぁ、自分の中でも特に意味があるわけではない。私がベッドから降りようとすると、慌てて岬が「靴! 靴!」と叫んだので、「ああ」と思って靴を履き、立ち上がった。 

 この家では外で履く靴のまま生活する。きっと日本以外の文化圏を広くみたら特別珍しいことではないのだろうけど、私にはピンと来ない文化で、毎回靴を履くのを忘れそうになる。

 岬はふふっと笑って手燭を翳<かざ>し、その明かりで食卓まで案内してくれた。

 私はリンゴのスライスと干し肉が用意されたテーブルに座った。寂しい食事のように思えるかもしれない。実際、私は白米が恋しくて、それが家が恋しいという気持ちへ連鎖して部屋で膝を抱えしくしく泣いていた。けれど、そんな夜も岬は必ず話を聞いてくれた。だから、食事にはもう慣れた。

 だが、慣れない部分もある。この家での食事は妙な緊張感があるのだ。食事中、誰も喋らないのだ。それがこの国、あるいはこの家族の文化なのだろうが、沈黙は何を考えているか分からないから恐ろしい。次に飛んでくるのは私をなじる言葉かもしれないし、拳かもしれない。この家に限ってそんなことはないだろうけど、疑問は拭えない。

 食事を終えると、全員が目を瞑り「今日も波が穏やかでありますように」と唱える。岬が言うには、海洋国家で古くから漁業や海上貿易が盛んだった海の国では、波が穏やか荒れているかは自分たちの命に直結する。故に、さまざまな場面でこの言葉を唱えるらしかった。

 ここからは、各自での活動になる。私は岬と共に街へ行って各家庭に王都から来る配給を届ける。王都から帰ってきたばかりの時、岬は父と母を「一緒に街へ行かないか」と誘ったのだが、かなり強い口調で二人から申し出を却下されていた。恐らく、私たちが王都に行っている間代わりに街の人々に物資を届けている最中酷い差別や中傷を受けたのだろう。まだ子供と大人の中間にいる私たちよりも、差別は苛烈を極めたろう。そう思うと、彼らは普段の仕事をしていた方が良いのかもしれないと思わないでもない。

 二人の仕事とは、狩りである。二人は崖下の森に行き、鹿や兎、他には野鳥などを狙って弓矢で狩りをする。狩りには危険が伴う。森には野犬や狼がいて、主に岬の母が見張りを、父が狩猟を担当する。その合間にリスやネズミ。狙った罠を確認したり、果実やベリーを採取したりする。料理は元々岬の担当だったが、今は家を空けているので料理は夫婦の仕事になっている。

 私たちは街に出かける。季節は一度色を失い、そして色付く最中だった。新緑の森を歩く。新しく開き始めた花々。緑色に変わり始めた木の葉。初め夏だった季節は、冬を越し春になった。

「うわっ!」

 目の前の岬が木の根に足を引っ掛けて思いっきり躓<つまず>く。

「大丈夫かい」

 と、彼女の手を取って引き起こす。彼女の髪が泥に濡れていたので、さっさと頭の汚れを払ってやる。岬は照れたように笑って、その可愛らしさが私の心臓をジンジンと痛ませた。踊るように手を離し、彼女が進み始めたところで一人佇み、胸に手を当て、おさまれと念じる。

 季節が半周し、いつしか、私はこの少女に恋をするようになった。けれど、それは叶わないから、罪だから、私はそれを告白できずにいた。

 獣道を歩くのも随分慣れた。最初こそ私に気を遣ってゆっくり歩いていた岬も、今は普通に駆け足で道を越えていく。最近は疲れているのかよく転んだり、ふらついたりしていて心配になるけれど、私は私で基礎体力の無さが仇となり彼女に何度も心配をかけてしまったので、今度は私の番だと受け止めている。

 私は、力になれているのだろうか。川の近く、ぬかるんだ畦道を歩く。足が取られて、彼女との距離が遠くなる。私はその現象に想いを伝えようとした瞬間に足が動かなくなるあの時を連想する。

 畦道で私は足を止めた。傲慢にも、迎えにきて欲しいという心理が働いた。

 その間、私は彼女を好きになった経緯に想いを馳せた。


 その男は、ドアを開けるなり言った。早口に捲し立てる男の話を聞いていると、どうやら家に閉じこもっているのが退屈になった長女が包丁で遊んで、腕を切ったらしい。患部が腕、というのを聞いて、岬は苦い顔をした。

 部屋に入ると、すぐに血まみれになったリビングが目に入った。その片隅に、母親に背中を撫でられながら涙をこぼす小学校低学年くらいの少女がいた。

 岬はゆっくりと近づいてしゃがみ込み、顔を合わせて

「どこを切っちゃったの?」

 と聞いた。

 仕方ないことではあるが少女は泣いてばかりだったから、母親が代わりに「肘の内側をざっくりといってしまった」ことを報告した。

 私は目の前の少女に罪はないと思いつつも、この一家を助けるのには反対だった。この一家は両親揃って岬を中傷し、それは容姿差別にまで及んだ。いつまで、自分を差別する対象を助ければ差別は無くなるのだろう。もたらされるのは差別の解消ではなく都合の良い奴隷の誕生ではないか?

 私がそんな考え事をしていると、岬は「大丈夫だからね。一旦、ママのお膝に寝転がろうか」と指示を巡らした。少女が母親の膝を枕にして寝転がると、岬は父親に清潔な布がないかと問うた。偶然にも、ここは仕立て屋である。父親は急いで清潔な布を持ってきた。

 岬は幹部の右腕を上げさせ、「少し痛いけど大丈夫だから。安心して」と声をかけつつ血がドクドクと溢れる幹部を清潔な布で強く縛り、血が出ないよう圧迫した。その手際の見事さに、私は見惚れるばかりだった。

 ふと、自分が何もしていないことに気がついた。私に医療知識はない。けれど、仕立て屋なら針があるはずで、アルコールがあれば消毒ができるはずだ。私は少女の父親に針をできるだけたくさん持ってくるよう指示し、自分はキッチンにあった料理酒の重い瓶を持ってきた。

 岬がちらりとこちらを見て、笑う。その仕草が、なんだかとても嬉しく、誇らしかった。私は岬が医療をする時の真剣さとどんな相手でも平等に医療を施すところをとても尊敬している。そんな岬に少しでも貢献できたのが嬉しかったのだ。

 次は針だった。「大丈夫、大丈夫」。その言葉は、自分に言い聞かせているようにも思えた。彼女は基本的に内科医なのだ。細い針を一本選んで、仕立て屋の父親が用意した細い糸を針の穴に通す。指先が震えていた。だから私は、邪魔かもしれないけど、一度その手の腹を握った。

「あ、ありがとうございます……」

 岬は一瞬猫のように肩を震わせた。そして、深呼吸をして、震えが止まった。私が手を離すと、岬は少女の肌を指した。少女の呻き声が聞こえる。私は「頑張れ!」と叫んだ。それに呼応して岬も「あと少しだよ、頑張って」と声をかけた。

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