愛の鳥 第1話
週に一度、ハルは地上に出て空気中に含まれる黒黴を採取し、専用の容器に入れて持ち帰ってくる。その度に、黒黴にまみれた防護服は直ちに処分せねばならなかった。
黒黴とは、“黒黴のように見える何か”である。人間が未だかつて出会った事のない、未知の物質。この百年ほどの間に大気中で増殖し、太陽の光を遮断した。草木は枯れ、人間や動植物の命をじわじわと奪っていった。
「君のその防護服を一着作るのに、いくらかかると思っているんだ」
焼却炉に防護服を放り込むハルの背中に、ロイの声が突き刺さった。その声は、ハルが居る廃棄室にあるスピーカーから発せられていた。
「連合国の意向ですから。申請すれば、また補助金を貰えますよ」
ハルはガラス越しのロイと目を合わせずに答えた。
「そんな事は分かっている。私が言いたいのは、君がそうやって黒黴を持ち帰る事に、何の意味があるのかという事だ」
ハルは連合国管理下の科学者であり、黒黴を研究するチームの第一人者だった。世界各国にそのような研究チームがいくつか存在した。
黒黴が地上で猛威を振るって以降、僅か数年で世界の人口が二割程度にまで激減した。その現実を考えれば、それらの研究チームと世界各国にある限られた地下設備だけでは、この黒黴を地球上から除去する事は不可能であると思われていた。
人類は、静かに死滅の時を待つばかりだった。
連合国の地下コロニーを管理するロイも、そのような認識を持っていた。だからせめて、コロニーに身を潜める人々が最期の時を迎えるその日まで、平穏に暮らしていく事を是としていた。そのためには地下コロニーの設備と秩序を維持するための資金が必要であり、それ以外の出費を嫌った。つまりそれは、世界を救えない研究に投じる資金であり、ハルの存在はその最たるものであった。
「それは少量でもコロニー内に漏れるような事があれば、あっという間に増殖する。君はコロニーの住民を危険に晒している」
「そのリスクを負うだけの価値があると私は思っています。何故私の研究が連合国に支援されているか、ご存じですか」
「あぁ、はっきりと分かる。奴らは自分達が死ぬまでの間、苦しまず楽に、快適に暮らしたいのさ。そのために、奴らが生きている間だけでも、黒黴の増殖を抑制できるような研究成果が欲しいのだろう。将来の人類の存亡については、端から興味が無いだろうさ」
連合国の要人達は、地下コロニーの最下層に位置する大型シェルターに身を潜めていた。五十年程は困らない程の食料を蓄えており、現在において何らかの政治的地位を与えられている者は、黒黴に侵される事なく生涯を終える事を願っていた。そしてロイの言葉の通り、人類の滅亡は避けられないものとして、抜本的な対策を練る者はいなかった。
ドアが開いた。体を洗浄したハルが、下着姿で出てきた。それまでロイから逸らされていたハルの目を見て、ロイの瞳孔は小さくなった。
「その点、君は違う。そうやって命を懸けている者は他にいない。だからこそ腹が立つんだ。私達には何の希望も見えないというのに」
ハルの目からは、血が流れていた。
「⋯⋯ロイさん、そろそろあなたには話しておくべきですね。計画の準備が整いつつあるのと、私に残された時間が少ない事を考えると」
頬に伝う血を拭い、白衣に着替えたハルは小振りな手提げ鞄を持って、ロイを自らの研究室に案内した。ロイがその研究室に入るのは初めてだった。
「黒黴についてですが、この物質の性質については、実は大方解明しています。私が幾度となく外に出て黒黴を採取していたのは、黒黴を除去するための散布剤の効力をテストするためです」
「散布剤?」
「ええ。既に何千通りのパターンを想定したテストを終えています。あとはそれを実行するのみ。しかしそれには、気温、湿度、天候等、それらを考慮して適切な散布剤の撒き方、タイミング、量を綿密に計算しなければなりません。それらを少しでも間違えれば、散布剤の効力は発揮できないのです」
ハルは試験管型の容器を手に取った。容器は透明で、中に黄緑色に光る液体が見えた。
「私はそれを、“蛍”と名付けました。蛍は、使い方を間違えなければ必ず世界を救えます」
「色々と聞きたい事はあるが⋯⋯連合国には報告したのか?」
「先に連合国に報告すれば、彼らの利益のためだけにこの蛍を利用しようとするはずです。それは私の望むところではない。世界を救うためには、真に世界を救う意思を持てる人でなければなりません」
ハルはロイに容器を差し出した。蛍と呼ばれた液体は、砂のようなサラサラとした質感に見えた。手に取ると、容器の傾け方によって、重さに微かな変化が感じられた。視覚的には星屑のように美しく見えるが、ロイにとっては不気味さの方が強く印象に残った。
「散布のための計算はどうする?」
「計算なら、これがやってくれます」
ハルはロイの真横にある机を指差した。机には、旧型のコンピューターがあった。
「これ、動くのか?」
マークがキーボードを叩くと、反転液晶のモニターに白い文字が表示された。
ーーーーーーー Mir ーーーーーーー
「これは⋯⋯?」
目を丸くするロイを見て、ハルはこの日初めて笑顔を見せた。
「私の曾祖父が開発した、環境保護に特化した“ミール”というプログラムです。正確な事は分かりませんが、これが開発された時代を考えれば、恐らく世界初の人工知能かと思います」
「⋯⋯そんな化石のようなプログラムが、機能するのか?」
「ええ。プログラムは生きていますが、流石にハードはもう限界です。現在は別のいくつかの場所へプログラムを移行しているところです。移行は使用する機能を切り分けながら、順に行います。現在、こちらの旧型コンピューターには初期の研究データと簡易的な会話機能のみが残されています。あと数日で移行は完了します」
会話機能と聞いて、ロイは試しに黄ばんだキーボードを叩いて文字を打ってみた。
ーー こんにちは。
ーー こんにちは。ロイさんですか?
「何故、私の名前を?」
「私が事前に、今日あなたをここへ招き入れる事をミールに伝えておいたのです。ミールはそれを理解し、今の入力に対して日付と時間、入力された言葉の意味を考慮し、文字を打ったのがあなたである可能性が高いと判断したのです」
一世紀近く前に生まれた化石に近いプログラムが、そのような高度な思考ができることにロイは驚愕した。それも、このプログラムの機能の一部に過ぎないというのである。
「ミールの機能はこれだけではないのだろう? 新しいコンピューターに移した機能はどんなものなんだ?」
ハルは持っていた鞄から、ノートパソコンを取り出した。
「ミールのメインプログラムにはここからアクセスできます。プログラムの情報はネット回線に逃しています。このパソコンが壊れても、世界のネット回線が生きている限りミールは死にません。連合国側にはネット上のミールのプログラムを解析できないように細工しています。ミールの存在すらも気付かない筈です」
ロイはノートパソコンのモニターを見た。何かのデータがマインドマップのような構図で、細かに階層化して表示されていた。
「こんな膨大なデータが、あの古いコンピューターの中にあったのか? あれでは、データを所持する事も処理する事もできないように思うのだが⋯⋯」
「私の曾祖父は、その膨大なデータを旧型のコンピューターにおいて処理可能なコードに書き換えていました。そのコードを、私が解析して掘り起こしたのです」
「おぱんつだね!」
大きな声がした。ロイが振り向くと、研究室にある机とほぼ同じ背の女の子が、にっと歯抜けの笑顔で私を見ていた。
「あれ、エマじゃないか。エマがここにいるという事は、リサさんも一緒だな」
ハルがそう言うや否や、隣の部屋からドタバタと足音がした。
「すみません、ハル室長! 資料室でちょっと仮眠をしてまして、娘を⋯⋯あれ、ロイさん?」
「あ、どうも⋯⋯」
「おぱんつ!」
「やだ、エマったら。それを言うなら“オーパーツ”でしょう」
かつてミールのすべての機能が搭載されていたという旧型のコンピューターは、確かにオーパーツとも言うべき産物であった。仮に膨大なデータを簡易的な数列に変換できたとしても、人工知能としての学習能力、会話能力をこのコンピューターに押し込むのは不可能に思えた。
「すみません、この子ったら、私が天体模型の話をしてからずっとこの調子で⋯⋯」
「天体模型⋯⋯一万年に一度だけ動くと言い伝えられていた、古代文明が残した天体模型の歯車があと数年で動くかもしれないと、以前ニュースになっていたな。確かに、あれもオーパーツだな」
ハルはエマの頭をポンポンと叩き、抱き上げた。
「機械や道具だけではありません。生き物だって、科学的に説明ができない事が山程あります。私達人間の脳だって、たかが千五百グラムの細胞の塊が黒黴の研究をしたり、オーパーツにロマンを感じたりできるんです。そう考えれば、一世紀前のコンピューターに人工知能の一つや二つ、入っていてもおかしくはないでしょう」
ロイは口を開いたが、言葉を発するのをやめた。理解はできないが、それを否定したところでなにも始まらない。今大切なのは、このミールという人工知能と数人の科学者達と協力して、世界を救う事である。
「私の役割について、整理させてくれ。ミールを使って蛍を撒く計画を立て、実行する。その計画が確立して実行するまでの間、連合国やコロニーの住民にはこの計画とミールの存在を隠す。そのために私が双方に働きかけ、上手く立ち回る。それでいいのか?」
ハルはエマの頭を撫でながら、軽く頭を下げた。
「感謝します。この計画を成功させるためには、あなたの協力が必要です」
ロイは扉まで歩き、ドアノブに手をかけた。その体制のまま振り返り、睨みつけるかのような鋭い眼光をハルに向けた。
「その計画、次の評議会での議決次第では頓挫するぞ。私の方でも尽力はするが、できる事には限りがある。君の方でも相応の準備と覚悟はしておけ」
扉を開け、ロイはそのまま研究室をあとにした。
エマは抱っこしてくれていたハルに降ろしてもらうと、母親のリサのもとへ駆けていった。
「ハル室長。私達の研究は、実を結ぶでしょうか」
「それを願っている。私達の研究と、ミールと⋯⋯ロイさんを、信じるしかない」
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