第22話 いつもの平泉
真紅に染まるふかふかの椅子に俺は座っていた。あまり人は少ないだろうと思っていたが、百席ある映画館みたいな椅子は七、八割は埋まっている盛況ぶり。俺は中央のやや後ろにいた。周りの多くが京夏の学生と親、他校の演劇部関係者が多くを占めているだろう。
前にあるデカい暗幕はステージ全体を隠している。
俺は、土曜日の十三時半から始まる演劇部の観劇にやってきていた。
清水をリハーサルの途中で抜け出させてしまったので、謝罪の意味も込めて来ていた。と、理由の多くを占めているのだが、もう二つほど来た理由がある。
その一つが、左隣にいる俺の親友だ。ウチのクラス宛に朝霧先生から緊急でメールが送られてきた。『来れる人は、来て! 国語の評点ちょっぴりプラスするから!』と必死な嘆きが届き、蒼馬も行くと今朝LONEが届いた。
「演劇見るの初めてだな」陸上部帰りなのだろう、私服ではなく、陸上のジャージだ。
「あぁ、これで演技、参考にしろ」
「うぅ、まだイジるのかよ」
「戒めだ。……それより」左手を口に添えて小声で話す。「隣の彼女をどうにかしてくれ」
蒼馬の隣にはジジっと俺を睨む彼女の佐々木美沙がいた。こちらも同じくジャージ。
「俺の脇腹に手刀を入れる五秒前だぞ、ありゃ。構ってやれよ」
蒼馬はさっきから俺ばかりに話しかけてきていた。
「それを見てみたい気もするが、親友の頼みとあらば、仕方ない」
ふざけた言葉を聞いていたのか、蒼馬の脇腹へ手刀が入った。ぐはっと、泡を出している蒼馬。ニコッと笑う美沙ちゃんが怖い。俺はすぐに前を向いた。聞いた話によると、彼女の美沙ちゃんは中学時代さまざまな格闘技を経験している、のだとか。
蒼馬。彼女と喋るのを『仕方ない』はダメだ。
相当、俺の話ばかりをしていて、苛立っていた様子。
もっとも、陸上部は新入部員の獲得をなんとか出来たようだが。
俺の後ろの席に誰かが近寄る。足音は三人組のようで、馴染みのある声も聞こえた。
振り返ると、パンチくんと目があう。俺は、何も見なかったように顔を前へ戻した。
「おぅ、アニキ!」
俺の両肩を握り、体を揺さぶってきた。
「アニキも姉ちゃんの演技見に来たのか?」
「お前のお姉ちゃんは演技しねぇよ」
仕方なく椅子の背もたれに右腕を置いて、話す。
彼らは西高の学ラン姿だ。
「そうなのか?」
パンチくんの両隣にいるノッポも太っちょも項垂れた。何度言っても、忘れるのだろう。
「まぁいいや、姉ちゃんが作り上げた物だったらさ」
やっぱりパンチくんの目は少年のような輝きをしていた。
「劇中は、静かにしてろよ」
「ポップコーン食ってもいいか?」ポップコーンをどこからか取り出した。
「映画じゃねぇんだから、ダメに決まってるだろ」
ノッポが親みたいにパンチくんを落ち着かせるような小さな声で話し出したので、俺は前を向く。ステージ上の右上には、デジタル時計があり、十三時十八分。もうすぐ、開演のため扉が閉まる筈だが、右隣の空席は埋まらない。
「あいつ、なにしてんだよ」
小さく呟くと、『わぁ〜すご〜い』と後ろの方から声が響いた。
まぁまぁ静かになってた空間での声だから意外に通るのだ。
その声に注目するように何人かは後ろを振り向く。俺は恥ずかしくて後ろを振り向けなかったが、後ろの席の奴は『おお〜い、天然ちゃ〜ん』と叫ぶ。辺りから鋭い視線が飛んでくる。俺は隠れるように前の背凭れへ顔を隠した。
とことこ、と足音が右隣までやってくる。
「パンチさん、こんにちは。あっ、皆さんも」声が近づいてきた。「何してるんです、明智くん」
ダンゴムシがまるまる時ってこんな時なんだろうな、と軽口を叩こうと、平泉の方へ顔を向けた時、俺は息を止めた。
見たことがない女性がそこにいた。
カールされた
「……」
俺はその時、見惚れていたんだ。
綺麗だと思ったんだ。
だが、彼女は何も無いところで、躓いて、前の席の背もたれにオデコをぶつけた。前の男性は嫌な顔をしたが、その女性を見て数秒間、呆然としていた。
違う、違う、違う。
何やってんだ俺。コイツは天然平泉だ。
顔を振る。視線を逸らして口遊む。
「遅いんだよ」なんで怒ってんだ、俺。
「すっすみません」
席へ彼女が座ると普段は香らないムスクの匂いを感じた。
ドキドキ、と胸が異様に高まるので、座る位置を何度も調整するフリをして、身じろぐ。
左隣の住人達がヒソヒソと小声で話し合っている。
ほっぺをぷっくりと膨らませ、俺を揶揄っているような瞳をしていた。
「アニキ」肩を揺さぶってくる。俺は仕方なく左耳を貸す。「天然ちゃん、めっちゃ可愛いですね。さすが、アニキの彼女」声を高くしている。
「……」
俺は無言で前を向いた。
やばい、左右後ろが詰んだ。
もう演劇が終わるまではずっと前を見てよ。観劇ってそういうもんだよな。
「あの、明智くん」
「ナンデスカ」
片言になってしまった。緊張しているのがバレてしまっただろうか。
「嬉しかったです、わたし。明智くんが来てくれて」
気づけば俺は、平泉の横顔を見ていた。
そこにいたのは、ちょっと天然で、いつもの優しい平泉だった。
「清水さんが来なかったら多分、紗枝ちゃんは放送を止めなかったと思います。でもわたしは、清水さんが来た時よりも、明智くんが来てくれて心がホッとしました。今も、隣にいるだけでホッとしてます」
俺はどうだろうか、そんな投げかけを自分相手にしてみるも、わからなかった。
胸はドキドキと煩いし、周りの目は気になるし。
ただ俺は、平泉の声を聞いた時、『あっ、やっときた』と思ったんじゃ無いか?
「もう少し、早く来たらよかったです」
俺の心を見抜くような彼女の言葉に俺は咄嗟に口を開いた。
「どうせ、また何かに巻き込まれたんだろ?」
「はい。男の子が外で迷子になってました。さすが、明智くん。わたしのことなんでも知ってますね」
「……」
上演が始まるまで、彼女の息遣いが俺の耳許を覆った。
演劇としては、一時間ほどあるらしい。
高校生の演劇だから、あまり期待はしていなかったが、良い意味で覆された。
ユーモアあるセリフに思わずくすりと笑い、意外性のある展開にはわっと声を上げた。
音響も照明も練りに練られたと分かるほどにステージを彩る。
生徒たち役者の演技も分かりやすく、熱が籠っている。
躍動感がステージ上を物語に染め上げていく。
その中でも特に、水際立った演技をしていたのは、清水だった。
あの一件があったが、清水の演技は目を見張るほどに素晴らしかった。普段のおっとりとした清水はなく、真に迫った圧巻の芝居。
まるで彼だけに強い光量のスポットライトが注がれているのかとすら思った。
劇の内容としては、学校で起きた些細なすれ違いを契機に、事件が起きる。
それを登場人物たちが丸く収めるために奮闘するといったもの。
その中で清水演じる主役は昔の恋人への別れの場面に差し掛かっていた。
物語の節目というべき場面だ。
会場の視線を一身に受けた主役は黄色のワンピースを着た彼女に向かって口を開く。
「あのひと時で笑う君の顔。君の優しい言葉。僕は確かに君に魅了されて、確かに恋に落ちていたんだ。君が好きだったんだ。ありがとう、好きになってくれて」
そのセリフはどこか別の物語の続きを思わせるほど、心が篭った彼女へのメッセージに思えた。隣の平泉は瞼を落として、左手のハンカチで静かにこぼれ落ちる涙を拭っていた。
そして、この広い会場の一席から誰かの啜り泣く声が聞こえた。
こうして、彼女の恋は終わり、また次なる恋へと踏み出していくのだろう。
暗幕が落ちるのに伴って、胸の中で抱いていたものがフッと取り除かれていくように感じた。
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