第四章

嘘(一部回想)

 地下室の扉を抜けた先には、水路があった。

 レルマの地下に水路が張り巡らされていることは知っていたが、実際に見るのは初めてだ。臭いはないため、上水路だろう。


 造られたのは何百年も前だったはずだが、摩耗や浸食は見られなかった。それは、良質な材料によって築かれているからに違いない。ここには、カミラ教が神殿建造に使用するのと同じ石が用いられているという話を以前に聞いた憶えがあった。


 パシャパシャという水音を立てながら、レティシアの後ろで走るヒメナは、額に皺を作っている。それは、頭が疑問で埋め尽くされていたからだ。


 なぜ、レティシアの身体が急に白く発光したのか。なぜ、人工悪魔は急に吹き飛ばされたのか。何が何だかわからない。しかし、そんな疑問も足を動かしていくうちにどうでもよくなっていった。


『私の言う通りにならない娘など要らない。アンヘルとともに、お前は死ね』


 イメルダの言葉が何度も蘇り、響く。その度に、あの瞳を向けられた光景が脳裏に深く刻まれた。地面で死にかけている虫を見るような、冷淡で無慈悲な瞳だ。


 改めて、恐怖と絶望を抱かされる。ただ、同時に懐かしさも感じてしまった。

 それは、あの瞳が過去に何十回、何百回と見たものだったからだろう。



   †



「あぁっ……」


 木剣を握っていた、幼いヒメナが後ろに突き飛ばされた。芝が綺麗に生え揃っている、屋敷の庭で尻餅をつく。顎を上げると、木剣の先端をこちらに向けるイメルダが目に入った。


「ヒメナ、もう一度だ。立て」


 イメルダが促してくる。だが、立ちたくなかった。なぜなら、立てばこの稽古が続いてしまうからだ。


 稽古は、守りに徹するイメルダを、ヒメナが攻め立てる形で行っていた。始めてから、もう二、三時間は経ったか。だが、ヒメナはイメルダに一度も木剣を当てられていない。すべて躱された上で、返り討ちの一撃を食らっていた。


 心と身体は限界を迎えている。稽古を続ける気力も、体力もなかった。

 そんな思いを言葉にはせず、ヒメナは眼差しで伝える。すると、イメルダは不快そうに顔をしかめた。


「なんだ、その目は」


 冷酷かつ無慈悲な眼差しが向け返される。


「理解が足りていないようだな。なら、改めて分からせてやる。お前はどこの家に生まれた女だ?」


「ガ、ガルメンディア、です……」


「では、ガルメンディアはどのような家だ?」


「バルレラ王国樹立時から続く、名門の騎士家系で……」


「だったら、その家に生まれたお前にはどのような義務がある?」


「ガルメンディアの権威を、名声を、傷つけない……立派な騎士になることです……」


「そうだ。だが、このままでは立派な騎士になどなれないぞ。なれなければ、お前は義務は果たせない。生まれてきた意味を失うことになる。それでもいいと言うのか?」


「そ、そんなことは……」


「だろう? なら、もう一度だ。立て」


 イメルダが、ふたたび促してくる。

 瞬間、ヒメナは心が麻痺したような感覚を味わった。絶望、諦念、恐怖、不安、無力感──さまざまな感情が溢れた末、収拾がつかなくなったのだ。


 顔から表情を消し、ヒメナが沈黙していると、ちっ、という舌打ちが響く。


「立てと言っているだろう!」


 イメルダは怒声を放ちながら、木剣の面でヒメナの頬を叩いてきた。ヒメナは側面から、地面に勢いよく倒れ込む。


「私に命じられたら、すぐに返事しろ。その上ですぐに従え。分かったか?」


「……はっ、はい……」


 ヒメナは頬の痛みに耐えながら、なけなしの気力と体力を振り絞る。そして立ち上がり、イメルダへふたたび向かっていった。



   †



 思い返したくもない記憶の一つを思い返しながら、ヒメナは感じる。段々、身体から力が抜けていった。挙げ句、最後は走れなくなる。

 ヒメナは水路の中央でぺたんと座り、ふたたび涙を滲ませた。


「ヒメナちゃん……⁉」


 レティシアが立ち止まり、振り返ってくる。


「……憶えて、いるか?」


 ヒメナは俯きながら、喉から溢れてくる言葉をそのまま吐き出していった。


「ティーハウスに、行ったときだ。わたしは、こう言った……ガルメンディアのためになら、何も不本意なことはない。だが、あれは嘘だったんだ。本当は、ガルメンディアのことなどどうでもよかった。わたしが気にかけていたのは、母様のことだけだった……」


 それは心の奥底に押しやり、ずっと見て見ぬふりをしてきたこと。


「母様に好かれていたい、母様に嫌われたくない──わたしを突き動かしていた感情は、それだけだった。わたしは、母様がすべてだった。だが、そんな母様から見放されてしまった。死を望まれ、殺されかけもした。もうどう生きていけばいいか分からない、もうどうすればいいか分からない……」


 口を動かし、震える声を絞り出しながら、ヒメナは思った。

 一体、何を話しているんだろう。情けないにもほどがある。これはいまここでするような話でもない。そもそも訊かれてさえいない。


 深く俯き、唇を引き結ぶ。ヒメナは、自己嫌悪に襲われていく。

 そんなとき、ふいに柔らかい声が耳を撫でた。


「うん、そうだよね。怖いし、つらいよね」


 顔を上げると、ヒメナと目線の高さを合わせながら、レティシアが真正面に屈んでいた。


「ちょっと分かるんだ。あたしも昔、おんなじようなことがあったから」


 その発言に、ヒメナは目を見張る。


「感謝をしてて、信頼もしてた人たちがいた。でも、その人たちには裏の顔があった。あたしは、その裏の顔を受け入れられなかった。だから背くようなことをしちゃったんだけど、そしたら傷つけられて……」


 それは、レティシアの口から飛び出した話とは思えなかった。だからこそ、ヒメナはその詳しいところが気になってしまう。


「アンヘル、君は……」  


「シブチョーの話、憶えてる?」


 唐突に、レティシアは尋ねてきた。


「カミラ教が水面下で進めてた計画があるってやつ。で、たぶんこれも気になってるよね。なんで急に人工悪魔が吹き飛んだのか──」


 レティシアは、二、三度、瞬きをする。それからヒメナを真っ直ぐ見据え、力強い声で告げてきた。


「〈人工天使計画じんこうてんしけいかく〉っていうのがあったの。あたしは、その実験体。そして、唯一の成功例だった」

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