第41話 Time after time ⑤(拓弥)

 ふわりと鼻先をくすぐるいい匂いで目が覚めると、白み始めた外の気配がカーテンの隙間から細く見え隠れしている。床にできた小さな光の池に視線を移そうとすると、ぼくの肩に鼻をくっつけて眠っている美也子さんがわずかに身じろいだ。んー、と寝ぼけたような声のあと、すうすうと再び静かな寝息が聞こえてきて、ほっとした。

 すごくいい夢を見ているらしく、口元がはっきり微笑んでいた。それだけで胸の中が至福の蜜で満たされていく気分だった。髪にほおずりすると、やっぱりとてもいい匂いがした。うちのシャンプーの匂いだけでない、なんともいえない美也子さんのいい匂いだった。そっと髪を撫でて再び目を閉じる。

 エアコンの効いた室内の快適な空気の中、二度寝の贅沢を思い切り味わうのも悪くはないけれど、手つかずの一日を早めにスタートさせてたっぷり楽しみたい、という気もする。どちらも魅力的で選び難い。

 抱き合って眠りに就いて、こんなふうにぴったりくっついて二人で朝を迎えられるだなんて、本当に幸せすぎる。この至福を知らずにいた頃が、まるで信じられないほどだ、なんて思ったら、ふとある歌が口をついて出てきた。

「あやなくも 隔てけるかな 夜を重ね さすがに馴れし 夜の衣を」

 若紫と初めて結ばれた翌朝、源氏が枕元に残す歌だ。

 どうしてこれまで衣を隔てて過ごしていられたのだろう、幾夜も共に過ごしてきたというのに――

 よくよく考えたら、結構あからさまな男の心情を表した歌だと思う。

 ストレートに言うなら、『今の今までよく我慢したよ、偉いよ、俺。ようやく全部脱がせて抱くことができて、あー、満足満足』ってところだろう。

 なんて悦に入ってたら、耳元で意地悪な声がする。

「……朝から、ひとり光源氏ごっこ?」

「お。おはよ」

「おはよう。ねえ、勝手にあたしのこと若紫にしないでほしいんだけど」

「源氏の最愛の女性だよ?」

「数ある恋人の中で、って条件付きじゃん」

「ぼくには美也子さんしかいないんだから、いいでしょ?」

 ん-、まあ、そうだよね。だなんて、まんざらでもなさそうな台詞と共にちゅっ、と耳にキスされて、思わずにやけてしまった。視線を流すと、明らかに期待したような瞳にぶつかって、さらに嬉しくなってしまう。焦らす間も惜しくてすぐさま抱き寄せて唇を重ねると、待ちかねたように口を開いて応えてくるのが、なんとも素直で可愛らしい。

 そうやってしばしの間、ぼくたちは「おはようのキス」を楽しんだ。

後朝きぬぎぬの歌、ってみやびでいいな」

「うんうん。セックスの余韻に浸って朝寝してるところに来るわけだよね。『昨夜の君は素敵だったよ』みたいな歌が」

「あはは。エロいな、それ」

 後朝の歌、とは、一夜を共にした恋人に男性が贈る歌だ。

 当時は、逢瀬のあと、男性は夜が明けきる前に去るのが普通だったから、自分の家から女性の元へ後朝の歌を届けることになる。いかに早く歌が届くかが、男性の愛情のバロメーターだったとも言える。平安貴族もなかなか大変だ。

「あ、でも、さっきの歌には、若紫は返歌しなかったよね」

「まあ、仕方ないよ。半ば無理やり襲ったようなシーンだもの」

 源氏の正妻である葵上あおいのうえは、第一子である夕霧を産んだあと、亡くなってしまう。実は、年上の恋人である六条御息所ろくじょうのみやすどころ生霊いきりょうに呪い殺された、という恐ろしい事実が明らかになる。

 折しも、この少し前、ちょっとした事件が起きていた。

 とある行事の見物に牛車で訪れていた六条御息所は、同じく牛車に乗った葵上と往来で鉢合わせてしまい、お互いの従者同士が場所取り争いをして、大騒ぎになる。天下の光源氏の愛人VS正妻。最終的に、六条御息所の乗った牛車が追い払われてしまうこととなる。当然、周りの見物人にも騒ぎは知られてしまい、彼女のプライドはずたずたになる、というわけだ。

 もちろん、かつての東宮妃という高貴な身分である六条御息所は、表立って恨みを募らせることはないが、自身でコントロールできない嫉妬と屈辱のあまり生霊となり、産褥さんじょくの床にある葵上に復讐をする、という最悪の展開になってしまう。

 憧れの気持ちから通い詰めていた年上の恋人の本性を知って、当然、源氏はドン引きするわけだ。真に愛していたわけではないにしろ、正妻を呪い殺されてしまったことも、許しがたかっただろう。これ以降、源氏の足は六条御息所から遠のいてしまう。

 葵上と六条御息所。二人を失った源氏の心の隙間を埋められる女性は、たった一人しかいなかった。それが、14歳に成長していた若紫だ。

 幼い頃から手塩にかけて自分好みに育て上げた彼女を、とうとう自分のものにしてしまった翌朝、源氏はさっきの歌を贈ったというわけだ。

 それにしても、14歳である。今で言えば、中学生だ。現代の価値観で測るのは無謀とはいえ、同じ男として源氏の行動には恐れ入る。

 倫理観云々の前に、ぼくはそんな子供をとてもじゃないがセックスの相手として見ることはできない。ろくに胸も膨らんでいないような、おそらく棒きれみたいな細い脚をした子供なんて――って、これはぼくの勝手な嗜好と偏見か。 

「いずれそうするつもりで10歳の若紫をさらってきたんだから、当然と言えば当然だけど……もうちょっと待てなかったのかなぁ、とぼくは思ってしまうんだよなぁ」

「ま、無理だったんじゃない? 生殺しで悶々としてるのも、いい加減に限界だっただろうし」

「でもショックだろうなぁ。兄のように慕っていた相手が、いきなり生身の男に豹変したらさ。そりゃ、後朝の歌に返歌する気になんてなれないし、一日中布団被って不貞腐れるのも、うなずけるよ」

 ぼくの言葉に、うんうん、と美也子さんは頷いた。そしてわざとらしく咳払いなんかすると、とりすました声でさらりとこう続けた。

「『かかる御心おはすらむ』とは、かけても思し寄らざりしかば、『などてかう心憂かりける御心を、うらなく頼もしきものに思ひきこえけむ』と、あさましう思さる」

「お。さすが。原文がすらりと出てくるんだね。すごいな」

 心底感心してしまった。国文学科出身の真骨頂というところか。

「下心あったなんて、思ってもみなかった。こんなエロいやつを疑いもなく頼もしく思ってたなんて! ってショック受けるわけだね」

「エロいとか、言わない。そこは、気持ちが悪いとか、いやらしい、ぐらいで訳すこと」

「はい、すいません、先生」

 あはは、と美也子さんは笑いながらぼくにぎゅっと抱きついてきた。

「もう、朝からすっごく楽しい……ああ、幸せ」

「ぼくも。やばいくらい幸せ」

 そのままキスをして、しばらくじゃれ合っているうちになんとなくそんな雰囲気になってしまったぼくたちは、朝ごはんの前にしっかり「逢瀬」を楽しむことになったのだった。


 シャワーを浴びた後、冷蔵庫に残っていた野菜で簡単にスープを作っていると、戸棚の隅にあるホットサンドメーカーを見つけた美也子さんが「これ、使ってみたい!」とずいぶん興奮した様子だったから、チーズと玉ねぎ、トマト、ベーコンを入れてホットサンドを作って朝食にした。福引かなにかでもらって何回か使ってそのまま放置していた代物だけれど、彼女が気に入ってくれたのなら何よりだ。

 連休二日目の今日は、みなとみらい周辺に行ってみたいという美也子さんのリクエストで、まずはシーバスに乗って移動することにした。午前中から暑くなりそうな気配だったけれど、ひとまず天気に恵まれたのは幸いだった。

 ランドマークタワーなど、観光するのにもってこいの場所ではあるけれど、今日はおそらくショッピングがメインになるだろう。となると、ぼくもひとつやりたいことがある。今回、美也子さんが来ている間にしたいことリストの上位にあるやつだ。

 今日の美也子さんは、綺麗な薄紫色の袖のないワンピース姿だった。ウエストで紐を後ろに結ぶとてもかわいいデザインで、丈はひざ下あたりまで。ふくらはぎが綺麗に見える、ぼく的には最高のワンピースだ。

 首回りはわりとすっきり広めに開いているけれど、全体は比較的ゆったりしたシルエットだ。身体の線があまり出ないのは残念と言えば残念だけれど、周りの男の目を考えるとこれが正解なのかもしれない。どのみち、ぼくはあとでじっくり中身を拝めるのだから――なんて思っていたら、しっかり顔に出ていたようだった。

 シーバスが目的地に到着して降りるタイミングで、美也子さんに睨まれた。

「ちょっと。さっきから、絶対なんか変なこと考えてるでしょ?」

「お。すごいな、なんでわかったの?」

「……せめて否定しようよ」

「いや、どうせばれるかな、と」

 はあ、とため息を吐かれてしまった。

「この服、ゆったりしてるから、残念、とか思ってたんでしょ?」

「うん。あ、でも、まあ……」

「まあ……のあとは、なんなの?」

 珍しく追及が容赦ない。手をつないでショッピングモールへと向う道すがら、美也子さんは「あー、さては」なんて口の端を上げた。

「ぼくには透けて見えるから別にいいんだけど、とか言うつもり?」

「お。それいいね。衣通姫そとおりひめか!」

 古事記や日本書紀にも記されている、美女である。美しさが衣を通して光り輝く、というのがその名の由来だ。つまり、服を着てても、中身の身体が見えちゃうよ、というなんともセクシーな女性だ。

 呆れ顔をぼくに向けつつも、美也子さんはちょっと感心した様子だった。

「っていうか、衣通姫、とか普通にさらっと出てくるあたり、すごいって」

「源氏以外もさ、古典系は好きだったからね、学生時代。というか、衣通姫の話はヤバいでしょ、おもしろすぎる。というか、兄妹の禁断の愛、というラノベもびっくりの展開だからさ」

 当然、美也子さんは「げー」という顔になる。

「兄がいる身としては、鳥肌しか立たない設定なんだよね、あれ」

 5世紀頃に存在したと言われる允恭天皇いんぎょうてんのう――古墳で有名な仁徳天皇の息子である――には、木梨軽皇子きなしのかるのみこ軽大娘皇女かるのおおいらつめという子どもがいた。この軽大娘皇女は大変美しく、衣通姫と呼ばれていたのだが、そのあまりの美しさゆえ、

木梨軽皇子は父も母も同じである妹の彼女に思慕の念を抱いてしまう。

 そして、やがて互いに慕い合う仲になった二人は、その想いをとうとう成就させる。つまり、兄妹でありながら一線を越えてしまったわけだ。

 禁忌を犯した木梨軽皇子は失脚し流罪となるが、軽大娘皇女は流刑地まで追いかけていく。

「でも、最後は心中する、という悲しい結末だから、心痛むよなぁ」

「タブー中のタブーだもん。いくら昔でも、やっぱダメなもんはダメだったってことだよ」

 あっさりそう片付けてしまってから、美也子さんは話を戻してきた。

「このワンピース、別に透け感ない素材だけどさ。心の目で透視したりしないでね、お願いだから」

「いや、もう何度も中身見せてもらったから、素で全部目に浮かぶし。それに、また夜見られるから、すごく楽しみだなぁ、って思ってるだけで幸せ、というか……痛っ」

 ぎゅっと手の甲をつねられてしまった。

「もう、変態通り越して変質者だわ。やばいって、それ」

「美也子さん限定の変質者ってことで、許して」

「……嫌すぎる」


 ルームメイトにお土産を買いたいらしく、キッチングッズを扱うお店をしばしはしごした。お酒が好きだから、とマドラーを買うことにしたらしい。

「スワロフスキーのマドラー、楓が欲しがってたんだよね。いろいろ種類があるけど、これにしようっと」

「おもしろいな、これ。上についてるの、オウム?」

「みたいだね。かわいい。絶対気に入ると思う」

 スティック部分は金属製だが、トップについているモチーフはペリドットを思わせる半透明の黄緑色をしたオウムだ。使うのがもったいないほどの綺麗なマドラーだった。とてもセンスがいい。

「スワロフスキーって、メインはアクセサリーだよね?」

「うん。クリスタルガラスだからね。ちゃんとした宝石ではないけど、カジュアルに着けられて、いいんだよー。デザインも可愛いのが多い」

 よし、この話の流れなら――

 多少強引かと思ったが、今日の目的を果たすいいチャンスかもしれない、と思ってさり気なく話題を誘導してみた。

「美也子さん、普段つけてるのって、ピアス?」

「あ、うん」

 今日のワンピースとおそろいで、薄紫色の綺麗な石が耳元で揺れていた。

「こういうぶら下がるタイプのは、休みの日ぐらいにしか着けられないけどね。職場には、もっとシンプルなの着けていってる」

「下のフロアにアクセサリーコーナーあるよ。行ってみない?」

「行きたい! 絶対種類多そうだから、自分用に何か新調したかったの。いいのあったら、絶対買う!」

 よしよし、と内心ガッツポーズをとりながら、表には出さない。ここはポーカーフェイスだ。ひとまず何食わぬ顔で「じゃ、行ってみようか」とエスカレーターへと彼女を促した。


 腕時計や貴金属、アクセサリーを扱うフロアは、若い女性客でいっぱいだった。さっきのキッチン雑貨などのコーナーと違って、家族連れはほとんどおらず、女性グループかデートと思しきカップルばかりである。

「わ。やっぱり種類多い! これは迷うかも」

「ゆっくり見るといいよ。あ、せっかくだからプレゼントしようか?」

「ん-ん。こういうのは、自分で買いたいんだよね。がんばって仕事したご褒美だから」

 にっこり笑って、美也子さんはすでにあれこれ物色し始めていた。その台詞で、すっかり忘れていたはずのあの声と姿が、唐突に脳裏に蘇った。

『欲しいものはぜんぶ自分で買うって決めてるから』

 よどみなくそう言って綺麗に微笑み、あっさり話を終わらせてしまう。いつもいつもそうだった。誕生日も、クリスマスも、何かプレゼントしようと思っても、清々しいほどあっさり断られてしまう。

 その繰り返しで、少しずつ気持ちが冷めていったのかもしれない、と今にして思う。

 当時は、『まあ、自立していて結構なことだよな。稼ぎも十分にあるんだし、そうなるのも無理ないか』と納得していたけれど、当然、少し寂しい気持ちもあった。

 贈り物というのは、相手に対する気持ちが込められている。受け取ってもらえないということは、つまり、気持ちそのものを拒絶されているようにも思えてしまうのだ。

 正直にそう伝えて、無理にでも受け取ってもらうべきだったのかもしれない。けれど、いまひとつ強く出られなかったのは、優秀で隙のない彼女に対してどこか気後れしていたせいなのだろう。弁護士としての能力だけでなく、あらゆる面でぼくなんかが敵う相手ではなかった。

 文句なしに頭がよくて、とても仕事のできる人だった。すごい人だな、と仰ぎ見ていた彼女からなぜか唐突に告白されて、断る理由など何一つなかった。好きか嫌いか、で言えば、当然好きだった。ぼくのストライクゾーンからは外れていたけれど、整った容姿をした美しい人だった。

 昨夜、美也子さんに話す羽目になった昔の恋人は、そういう女性だった。好きで好きでたまらない、というよりは、憧れにも似た尊敬の念を抱いていた。仕事の面で話が弾むのは単純に楽しかったけれど、それ以上には踏み込めなかった。もちろん、大事にしたし、理解しようとは努めた。けれど、司法修習を終えて就職したばかりのぼくたちはあまりに忙しくて、恋愛にのめり込む余裕がまるでなかった。

 それでも一緒に過ごせるのは嬉しかったし、多少、仕事で嫌なことがあっても、まあ、ぼくには美人の彼女がいるし、とすぐに気分を切り替えることもできた。周りの誰もが羨むほど綺麗な恋人がいるのは、単純に誇らしくもあった。

 とはいえ、感情というのはやはりごまかしがきかないものだ。特に、ぼくのようにストライクゾーンが狭いと、心の奥底に少しずつ降り積もる違和感が、ふとしたことで顔を出す。たとえば、プレゼントのことのように。

 美しさや優秀さといった他の誰にでもわかる美点だけではなく、彼女の中にぼくにしか見えない何かがどうしてもほしかった。どんな些細なことでもいい。たとえ欠点だとしてもかまわない。それが見つかりさえすれば、おそらく彼女に対してもっと違った接し方ができたはずだ。

 しかし、如何いかんせん、彼女は完璧だった。失敗をすることも、弱さを見せることもない。いつも美しくて、まったく隙がない。おまけに、自分の機嫌はちゃんと自分でとる。愚痴をこぼすことも皆無だった。

『束の間、羽を休めるための止まり木、かな』

 軽くショックを受けているぼくにまるで気づいた風もなく、あのとき、ベッドの中で彼女はそう言ってにっこり微笑んだ。いつも通り、とても綺麗に。

 1カ月以上もろくに連絡も取れないほど仕事で忙しかった彼女が、しばらくぶりにうちに泊まりに来た晩だった。

『すごく寂しかったよ。久々に会えてとても嬉しい』とぼくは心からの本音を口にしたのに、片や彼女は実にあっさりしたものだった。

『まあ、仕方ないよね。死ぬほど忙しいんだもの。でも、拓弥くんがいてくれて、よかった』と。

 温度差を思い知らされてちくりと胸が痛んだものの、ぼくがいてよかった、と感じてくれているのは、単純に嬉しかったし、さらにもっと何か言ってほしいと思ってしまった。

 それで『ぼくは君にとってどんな存在なの?』と問うと、さっきの答えが返ってきたのだ。束の間、羽を休めるための止まり木、かな、と。

 この時点で、ああ、この人のことを心から愛するのは難しいな、と悟っていた。それなのに、答えを先延ばしにしたのは、ぼくの往生際の悪さがゆえだ。

 時間の経過とともに、状況がよくなるかもしれない。今はただの止まり木だとしても、心地よくて去りがたい、かけがえのない場所だと思ってもらえる日が来るかもしれない、と淡い期待を抱いていた。

 そして、その期待はあっさり裏切られることになる。

『結婚することにしたから、別れて』と告げられたのは、それからしばらくしてからだった。あまりのことに固まっているぼくを前にして、さすがの彼女もすまなそうにはしていたものの、それはすでに決定事項だった。

 実は、こっそりお見合いしたんだよね、とさらりと彼女は言った。

『結婚したかったってこと?』

『仕事に集中するには、先の心配がない方がいいのかな、ってふと思っただけ。ごめんね』

『ぼくには一言も言わなかったよね、そんなこと』

『言われても困ったでしょう、拓弥くんは』

 確かにそうかもしれない。けれど、付き合っているのに、結婚相手の候補にもならない存在って、一体なんなのだろう。

 所詮、ただの都合のいい止まり木でしかなかったのか、とはっきり思い知らされて、間抜けな言い草しか出てこなかった。

『君は、ぼくがいなくても平気だったものね、最初から』

『拓弥くんだってそうでしょう』

『そんなことないよ』

『嘘。大好き、って感じじゃなかったでしょ、私のこと』

 見透かされていた、と後ろめたかった。

 追い討ちをかけるように、やたらと綺麗な顔でにっこり微笑まれてしまう。

『わかるんだよ、それくらい』と。

 だからって、勝手にお見合いなんかした挙句、二股かけたりしてもいいのか、と問い詰めたかったけれど、すでに左手の薬指に大きなダイヤモンドのついたリングが光っているのを見て、何もかもがバカバカしくなった。

 ぼくが何か贈ろうとしても断り続けたくせに、違う男からそんな高価なものを受け取ったのはなぜなんだ。

 欲しいものは自分で買うんじゃなかったのか。

 君の給料ならそのくらい自分で買えるだろう。

 そもそも、ぼくと付き合おうと思ったのはなぜなんだ。

 言いたいことは山ほどあったけれど、もう、彼女に対して感情をぶつける気も失せていた。

 傷ついたか、と問われれば、当然傷ついた。けれど、全面的に彼女だけが悪いわけでもない。ぼくにも非はあった。心から愛して夢中になることがどうしてもできなかった、という致命的な非が。

 幸い、仕事中にそうするように、さっくり感情を切り離して冷静に判断できる程度には、ぼくの理性はしっかり保たれていた。盲目になるくらい溺れることができないまま終わりを迎えた恋に、悲しいほどあっさりと気持ちの整理がついていた。

 まあ、最初から無理だったってことだ。

 はっきり思い知らされた。

 しっかり好みじゃないと、ぼくは絶対にスイッチが入らない。

 容姿だけの問題ではない。ぼくにしかわからない、ぼくだけのための何かが見つからなければ、絶対にのめり込めない。

 生理的欲求に従って物理的にセックスすることはできても、心から愛することはできない。こればかりは、どうしようもない。努力でどうにかなる問題でもないのだ。

 つまらないことを思い出してしまった。学生時代のあれこれ同様、結構な黒歴史だ。せっかく本当に好きな人とデートしているときに、わざわざ黒歴史に想いを馳せるなんて馬鹿げている。

 幸い、美也子さんは、相変わらずずいぶん熱心にピアスを選んでいて、こちらをまったく見ていない。寂しいけれど、今はラッキーだった。そして真剣なその横顔はとてもかわいらしくて、思わず微笑んでしまいそうになる。

 もう少し時間がかかるかもしれないな、とふと視線を移した先にあるガラスのショウケースが目に入ってきて、吸い寄せられた。中身は指輪だった。いろんなデザインの、様々な色の石がついた指輪が並んでいる。

 美也子さんの誕生日は2月だ。まだまだ先だけれど、今回の連休の間に、ぼくはどうしても何かプレゼントしてあげたいと思っていた。できたら指輪がいい。他のアクセサリーと違って、やはり特別感がある。着ける指によっては、恋人がいると周囲に一目でわかるというメリットもある。

 よし、今のうちに目星をつけておくか。 

 ケースに近づくと、すぐさま店員が声をかけてきた。

「何かお探しですか?」

「ええと……あ、ちょっとお伺いしたいのですが、2月の誕生石ってなんでしたっけ?」

「アメジストですね」

 お。ちょうどいいではないか、と嬉しくなる。石の色味が、今日美也子さんが着ているワンピースとぴったりだ。

「アメジストをあしらったリングでしたら、こちらにいくつかございますよ」

「ありがとうございます。見せていただけますか?」

「畏まりました。エンゲージリングをお探しですか?」

 さらりと尋ねられて、ちょっと照れてしまった。

「ああ、いずれは探すことになりますが、今日は単なるプレゼントで、と思っていたんです」

「まあ、そうですか。ファッションリングでしたら……」

 ゴールド、ピンクゴールド、ホワイトゴールド、そしてプラチナ。

 美也子さんの好みもあるだろうけれど、どうせならちゃんとしたプラチナがいい。アメジストは、石自体がぱっと目を引く色だから、デザインはできたらシンプルな方がよさそうだけれど、これも本人の好みがあるだろう。

 大きめの石一粒だけのものもいいけれど、小さいのが並んだタイプのものも、なかなかいい。

 ケースの中身を一つひとつ見ているうちに、ふと、ある指輪に目を引かれた。

「これ、すごくいいですね。とてもかわいらしくて」

「エタニティタイプですね」

 すぐさまカウンターに出してくれた。

 プラチナの地金じがねに、薄紫色の小さなアメジストがびっしりと敷き詰められている。

「ハーフエタニティなので、普段使いに向いていますよ」

「ああ、でも、仕事に着けていくのには……ぱっと華やかな感じのデザインですよね、これ」

 さっきピアスの話をしていた時に、そういえば言っていた。職場には、もっとシンプルなのを着けていってる、と。

「職種にもよりますけど、このくらいなら大丈夫だと思いますよ。指に着けると思ったよりも落ち着いて見えるので」

「なるほど……あ」

 ピアスを選んで会計を済ませたらしい美也子さんが、こちらへやって来る。

「あの、すいません。値札、全部見えないようにしてもらえますか?」

 とっさに店員にお願いした。

「遠慮なく好きなのを選んでもらいたいので」

「まあ。畏まりました」

 慣れたもので、さっと手早く片付けてくれる。ちょうど美也子さんがぼくの隣にやってきた時には、ケースの中身は全て値札なしになっていた。

「おまたせ」

「お。いいの見つかった?」

「うん。しばらく新しいのを買ってなかったから、ちょっと奮発しちゃった」

「そっか。ねえ、こっちもちょっと着けてみない?」

 さっき出してもらっていたハーフエタニティのアメジストリングを指さすと、美也子さんは目を見開いた。

「え……でも、これって」

「ああ。ただのファッションリングだから、そんなに畏まらないで」

 ぼくは努めて気軽に言った。

「ちゃんとしたダイヤモンドのは、もう少しだけ先に……ね」

「さ、どうぞ」

 いいタイミングで店員がにっこり微笑みながら入ってくれる。美也子さんはちょっと迷った様子でぼくの顔を見てから、おずおずと左手を出した。

 するりとリングが薬指にはめられる様子を、ぼくはじっと見ていた。ほっそりした指の根元に、綺麗な薄紫色の花が咲いたようだった。

 そして、さっき店の人が言っていた通り、実際に指にはまると、それほど派手な感じもしなかった。普段のさり気ないおしゃれに向いている。これなら、職場に着けていってもまったく問題なさそうである。

 美也子さんは、どこか放心したように自分の手を眺めていた。

「どう? こういうの、好き?」

「……すごく綺麗。アメジストでこんな繊細なデザインのって、なかなかないもの」

「よく似合ってるよ。今のネイルの色ともマッチしてる」

 今朝、出掛ける前に服に合わせて塗っていた薄紫色のネイルは、この指輪とも相性がばっちりだった。

「気に入った? あ、他にもいろいろなデザインがあるみたいだから、もちろんこれじゃなくても……」

「ううん。これ、すごく素敵。こういうエタニティのデザイン、ずっと憧れてたから」

「よかった」

 よくお似合いですよ、とまたしても絶妙のタイミングで店の人がにっこり微笑んだ。さすがはプロだ。

「誕生石なんだってね、2月の。さっき聞いてさ、これすごくいいなぁ、って思ってたんだ。ね、これ、ぼくにプレゼントさせて?」

「え。でも、誕生日とか、そういうのでもないのに」

「そんなこと、気にしないで。ぼくが贈りたいんだから。あ、サイズ、大丈夫かな」

「ええと……あ、少しゆるいかも」

「ワンサイズ小さいものが、在庫にございます」

 少しお待ちくださいませ、と店員が下がっていくと、美也子さんは相変わらず困った顔でぼくを見た。

「拓弥さん。でも、やっぱり……だって、これプラチナでしょ? 絶対高いよ?」

「いいんだってば。美也子さんに着けてほしいんだ。ぼくがプレゼントした指輪を」

 それでもまだ迷っているような目を向けてくる美也子さんを、ぼくはじっと見つめ返す。

「いつも、ぼくのことを思い出してほしいから。会えなくても、手を見るたびにさ」

「拓弥さん……」

 もっと頑なに遠慮してくるかと思ったけれど、カウンターの内側にはほかにも何人も店員がいるし、周りにいる買い物客の目もあるからか、それ以上美也子さんは何も言わなかった。やっぱりどこか放心したように、美しい指輪のはまった左手を見つめていた。

 ひとまず、値札を隠してもらっておいて本当によかった。おそらく美也子さんは全力で遠慮してくるであろう、なかなかいい値段だったからだ。

 ぼくとしては、まったくかまわない。初めてのプレゼントだから、やはりちゃんとしたものがいい。

 人の心をお金で買うことはできないけれど、自分の想いを伝えるためにこうしてちょっと贅沢な贈り物をするのは、決して間違っていないと思う。素直に喜んでもらえるなら、ぼくとしてもとても嬉しい。

 ふと、視線の先で美也子さんの瞳がはっきり潤んだように揺らめくのがわかって、ぼくは驚いた。

「そんなに嬉しかった?」

「……なんか、感激しちゃったの」

「いいね。美也子さんを感激させられただなんて、めちゃくちゃ嬉しい」

「指輪も、もちろん嬉しい。でも、さっきの言葉が、すごく嬉しかった」

 泣き笑いみたいな顔がぼくを見ていた。今すぐにでも抱きしめてしまいたくなるくらい、ものすごくかわいい。

 涙を浮かべながら、ありがとう、と嬉しそうに美也子さんは微笑んだ。

「毎日、着けておくね。いっつも一緒にいられるみたいで、すごく幸せ」

 

 そのまま着けていきたい、という彼女の希望で、空のケースと保証書だけを袋に入れてもらった。笑顔の店員に見送られて店を出ようとすると、美也子さんがふと足を止めた。

 なんだろう、と思って視線を辿ると、奥まったところで椅子にしっかり落ち着いて結婚指輪を選んでいるらしいカップルがいた。二人とも幸せそうで、実に微笑ましい光景だ。見ているこちらも、なんだか嬉しくなってしまう。

「2カ月ちょっと前にね、お兄ちゃんがひとみちゃんにエンゲージリングを買ってあげたい、って言うから、デパートまで一緒に行ったんだよね」

 カウンター前に並んで座るカップルを見つめたまま、美也子さんが言った。

「あの時は、まさか自分がこんなふうに指輪をもらえるだなんて、思いもしなかった」

「これが最後じゃないよ。これからいくらでもプレゼントしてあげる」

「太っ腹じゃん」

「こう見えてけっこう稼いでるからね。だから、遠慮なんてしないで。美也子さんが喜ぶ顔を見られるなら、ぼくも嬉しい」

 ぼくは美也子さんの左手をそっととった。

「さっきも言ったけどさ、ちゃんとしたダイヤモンドのは、もう少しだけ先にね」

「……それ、本気にしていいの?」

「もちろん。というか、本気だよ。今から予約」

 美也子さんは、またしても泣き笑いのようにちょっと唇を震わせて微笑んだ。

「あのね。さっき嬉しかったのってね、その言葉も、だよ」

「そっか。じゃあ、何度でも言うよ」

 ほんの一瞬だけ、美也子さんの左手に――綺麗なアメジストのリングがはまった薬指に口づけた。

「美也子さんの未来は、ぼくが予約しました。もう少しだけ先に、ちゃんとダイヤモンドのついた指輪を贈らせて」

「……予約のキャンセル不可だよ?」

「お。やった。むしろその縛り、ラッキーなんだけど」

「もう。口が上手いなぁ」

 照れ隠しなのか、ほんのり赤くなった顔でわざと呆れたようにそんなことを言う。

 文句なしにかわいい。思わずにやけて、ぽろっとつぶやいてしまった。

「やばい……速攻で部屋に連れて帰って、めちゃくちゃにしたくなってきた」

「えっち」

「だって、かわいすぎるし」

「だめだめ。あとでだよー」

 美也子さんはちょっと意地悪な笑みを浮かべた。

「夜まで、おあずけー」

「焦らすんだ?」

 焦らすよー、と笑いながら美也子さんはぼくの手を引っ張った。

「その方がたっぷり可愛がってもらえそうだし」

「お。やる気だな」

「だよ? 肉食女子だもん」

 ふふん、となぜか得意げな美也子さんに、ぼくは詰め寄ってわざとじっと目を覗き込んだ。

「こっちも肉食男子なんだけど? そんなふうにむやみに煽って、後悔しても知らないよ? もう全力で好き放題するよ?」

「望むところだし」

 にっ、と美也子さんがいたずらっぽく微笑んだ。

 自然体ですごく楽しそうな姿が、愛しくてたまらなかった。

 ふざけたじゃれ合いみたいな他愛のない会話なのに、不覚にも胸がいっぱいになる。心の底から幸せで、苦しいほどだった。

 彼女のこんな姿は、この世でぼくだけしか見られない。

 ぼくひとりだけの美也子さんだ――それがただ嬉しくてたまらなかった。

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