第39話 Time after time ③(拓弥)

「せめてお皿はあたしに洗わせてね」

 あれこれおしゃべりしながらゆっくり過ごした朝食後、予想どおり、美也子さんはさっと席を立った。

 もちろん気遣いは嬉しかったけれど、せっかくこうして泊まりに来てくれたのだから、ぼくにはどうしてもやりたかったことがある。

「ねえ、一緒に片付けようよ。普段は絶対できないことだし」

「そっか。うん、そうだよね」

 ぼくの意図がわかったらしく、彼女もにっこり笑って快く賛成してくれた。

「じゃあ、あたし洗うから、拓弥さんは拭いてくれる?」

「OK。ちょっと待って」

 シンクの下の引き出しを開けて、新しいゴム手袋取り出す。今回、彼女が泊りに来る前にいろいろ買い物をした折に、用意しておいたのだった。

「はい、これ。よかったら使って」

「え……すごい、なんで」

 彼女はずいぶん驚いた様子だった。

「確かに家では洗い物するとき、いつもゴム手袋を使ってるんだけど……どうしてわかったの?」

「爪。いつも綺麗にしてるでしょ」

 結婚式で初めて会ったときだけでなく、長野で食事をした夜――つまり、仕事の帰りにぼくと会ってくれたあの晩も、美也子さんの手には綺麗なネイルが施されていた。あまり詳しくは知らないけれど、ちゃんと手入れをしているらしいことは一目瞭然だったし、おそらく家事や仕事の際にも、手や指先に気を遣っているだろうことは容易に予想ができた。

 今も、品のいい淡いピンク色に塗られた10個の爪が、きらきら綺麗に光っている。

「貝殻みたいですごくかわいい。剥げたりしたら、もったいないよ」

「ありがとう、拓弥さん。なんか、もはや感動しちゃいそう」

 袋を開けて取り出したゴム手袋を着けながら、彼女はほうっ、とため息を漏らした。

「気遣いがほんと細やか。ねえ、いつもそうなの?」

「まさか。こう見えて、実はちゃんと分けてるよ」

 テーブルからマグカップやお皿を下げてきて、シンク内に置く。

「こんなふうにするのは、プライベートでだけ。しかも、好きなひと限定。なんども言うけど、あちこちにばらまくんじゃなくて、美也子さんだけに自分のすべてを注ぎたい」

「ありがとう。嬉しい」

 前みたいに固まったり絶句したりということは、ほぼなくなってきた。ぼくの物言いにも少しずつ慣れてきたようでなによりだ。少し顔を赤くしながらも、素直に微笑む美也子さんはやっぱりとてもかわいい。

 よし、じゃあ、さっと片づけて出かけようね、とスポンジに洗剤をつけて彼女はマグカップやお箸を洗い始めた。布巾を手に、ぼくはその横に立つ。

 こうして並ぶと、美也子さんはそれほど大きくないことがよくわかる。室内だと靴のヒールがない分、ずいぶんとかわいらしいサイズなのだった。

「美也子さんって、身長何センチあるの?」

「156くらいかな。あともう少しほしかったのに、伸びなかったんだよね」

「十分じゃない? ヒールのある靴履いて、160ちょいくらいになるよね?」

「ん-。ひとりで取材行くことも多いんだけど、すらっと背が高い方が侮られなくていいんだよね。顔もさ、あたし、そんなきりっとしたタイプじゃないし。メイクでどうにか大人っぽくしてるんだけど、なかなか……」

 なるほど、そういう悩みもあるのか。確かに、自分も人を相手にする職業だけに、見た目や雰囲気にはわりと気を遣っている。

「拓弥さんは、その点いいよね。背、結構高いでしょ。それに、ちゃんと真面目に見えるし」

「見えるだけじゃなくて、しっかり真面目だよ?」

「あはは、まあ、そうだけど。真面目過ぎないから、バランスがいいよ」

 ああ、確かにそうかもしれない。もともとの髪の色が結構明るめなのもあって、逆に好印象を持たれることが多い。普段はスーツを着て髪を分けているから、あまり真っ黒だと老けて見えるし、堅苦しいと思われかねない。

 そうだ、と何か思い出したかのように彼女は話し出した。

「変なこと訊くけど……もしも依頼人が女の人の場合、あれこれ相談乗ってるうちに、恋愛感情を持たれちゃったり、ってことあったりする?」

「あー。それは、絶対ないようにかなり気を遣ってるよ」

 小説やドラマの中だけの話、と笑い飛ばしてしまいたいところだけれど、実際、この手の話は同業者からもよく聞く。弁護士あるあるだ。

「弁護士は100%依頼人の味方だ。話は最後までしっかり聞くし、親身になるし、場合によっては、信頼を得るためにちょっとした芝居をしたりもする。でも、それは案件処理をスムーズにするためだ。それ以上でもそれ以下でもない」

「でも、好意だと誤解されちゃうことも……あったり?」

「まあね。特に、離婚調停だったり、夫の不倫がらみの相談なんかだと、そもそも初期段階で精神的に参った状態でぼくらのところに来るわけだから、いろんな意味で隙だらけというか……ちょっとしたことでも、ぐらぐら心が動いてしまう、という女性が少なくない。まあ、いわゆる吊り橋効果みたいなものだよ」

 それ以外の案件だったしても、そもそも、弁護士に相談を持ち込む人間というのは、全員じゃないにしても、トラブルに巻き込まれやすく、また自らもトラブルを起こすタイプだ。相談を受けるこちら側がうっかり巻き込まれてしまっては、元も子もない。

「ぼくは、仕事中はさっくり自分の感情は切り離してる。言葉は悪いけれど、いわゆる『営業スマイル』的な感じのいい微笑みを浮かべはするけれど、気持ちのこもった笑顔を向けるのは、絶対に避けてる。今こうして美也子さんに向けてるような顔は、依頼人には絶対見せない。特に、女性には」

 こういう顔ね、とにっこり笑って見せると、美也子さんも同じように微笑み返してくれた。やっぱりとてもかわいくて、見ていると嬉しくなってくる。

「というわけで、依頼人は、男性、女性の区別なく、ただの依頼人。問題解決のために持てる力は全て尽くすし、いつなんどきも味方でい続けるけれど、それはあくまで職業的良心からであり、オブラートに包まず言ってしまえば報酬と引き換えである、というのが前提条件だからね」

 真面目に喋りすぎたか、と皿を布巾で拭きながら少し反省しかけていると、美也子さんはずいぶん感心した様子だった。

「すごい。すっかり弁護士の顔になってる」

「あー、ごめん。せっかく美也子さんと一緒にいるのに」

「ううん。あたし、仕事中の拓弥さんを知らないから、そういう顔がちょっと新鮮。それになんかかっこいい。ドキッとしたかも」

「お。惚れ直した?」

「うん」

「やった。嬉しい」

 かっこいい、という言葉がすごく嬉しい。思わずにやけてしまうと、すかさず突っ込まれた。

「なにー? かっこいい、って言われてそんなに嬉しい?」

「そりゃ嬉しいよ。美也子さんに言われればさ」

「あたし、拓弥さんの顔、好きだよ。なんか気になるっていうか」

「いいな、それ。『まあ、まあイケメン風』とか適当に嘘くさく褒められるより、正直で」

「あはは。よし、これで最後」

 最後のお皿を水で洗い流して、はい、と手渡してくれながら、美也子さんはぼくを見た。

「見ててとっても安心する顔だよ? それに、いろいろバランスがいいっていうか……ね、覚えてる? 長野で食事したとき、目の色素が薄いよ、ほら、って近くで見せてくれたでしょ? あのとき、けっこうドキドキしたんだから」

「もちろん。あれね、実は計算ずくでした、今だから言うけど」

 もういいや、この際、と思ってばらしてしまった。

 あのときは、距離を縮めるのに必死で、隙あらばもうなんでもしてやろう、と開き直っていた。美也子さんの様子とか場の雰囲気で、ああいうあからさまな真似をしても許されそうだと思って、あえてやったのだった。

「うわ、策士だ。それってどうなの?」

「なりふりかまわず、とにかく美也子さんと仲良くなりたかった、ってことで。どうか、許してください」

 手を合わせて頭を下げておいた。もちろん、冗談っぽくだけれど。

 まあ、ああいう計算ずくなことは、ちゃんと付き合い始めた今となっては、もう必要ない。

 美也子さんは、明らかにわざとだとわかる意地悪気な顔を向けてくる。

「どうしようかなー」

「美味しいケーキを好きなだけご馳走します。だから、許して?」

「それプラス、もう一個リクエスト聞いてくれたら、許してあげる」

「お。いいよ、一個でも二個でも」 

「太っ腹じゃん」

「美也子さんのリクエストなら、そりゃ、いくつでも」

 お皿やカップを戸棚にしまい終わったぼくの傍にやってくると、美也子さんは耳元でこう囁いたのだった。

「今日、お出かけのあとでね、ここに帰ってきてから、またあたしのことたっぷり可愛がってくれたら、許してあげる」

 そうきたか。予想の斜め上を行かれて、一本取られた気分だった。

「喜んで。というか、ぼくが得するみたいで申し訳ないけど」

「ウィンウィンでいいじゃん。肉食同士だし」

「言えてるな」

「でしょ?」

 にっ、といたずらっぽく微笑む彼女に、ぼくはちゅっ、と小さくキスをした。


 美也子さんが出掛ける支度をしている間に、シャワーを浴びることにした。どこか行きたいところがあったら、教えてね、と言いおいて浴室へ向かう。

 この前の結婚式のときは、翌日すぐに長野に戻ったらしく、あまり観光はできていないとのことだった。となると、連れていきたいところはたくさんある。

 ありがたいことに、晴天に恵まれた。そういえば前に電話で、景色のいいところを歩き回るのが好きだ、と言っていた。暑くなる前なら、山下公園を少し散歩してもいいかもしれない。あと、中華街にとても行きたがっていたから、お昼は中華で決まりだ。

 それから、昨夜、寝る前に、源氏物語関連の専門書がたくさんある古書店の話をしたら、当然のごとく、すごい勢いで食いついてきた。確か、お盆もお店は開けていたはずだから、こちらは午後に行ってみるか。ちょうどおやつの時間になるはずだから、そのあとケーキを食べに行って、あとは――

 ああ、あれこれこうやって考えているだけで、本当に楽しい。というか、一日ずっとデートしていられるなんて、幸せすぎてどうにかなってしまいそうだ。

 シャワーを済ませ、着替えて居間に戻ると、すっかり支度を済ませた美也子さんがモップをかけてくれていた。

「あ、いいのに、そんなの」

「ん-ん、髪の毛とか落としちゃったかな、と思って」

 見れば、どうやら洗面所の周りなどもさっと掃除してくれたらしい。

「ごめんね、勝手に。もともとずいぶん綺麗にしてあったから、あたしが汚しちゃったら、申し訳なくって」

「いやいや、ぜんぜんかまわないよ。でも、そうやってついでにさっとやるの、ぼくと一緒で嬉しいかも」

 掃除はついでに、かつこまめに。そうすれば、大がかりにならず、苦にもならない。汚れないし、散らからない。習慣になってしまえば、なんてことがない。

「拓弥さん、几帳面なタイプでしょ。あたしも見習わなくっちゃ」

「そんなことないよ。大掃除が面倒だから、ちょいちょいやるだけで。逆に面倒くさがりなんだ。あ、片付けまで、ありがとう」

「どういたしまして」

 モップを片付けて戻ってきた美也子さんが、ぼくの正面に立った。

 フレンチスリーブの黒いカットソーに、涼しそうな薄い生地の水玉のギャザースカート。丈が昨日のスカートよりも若干長めで、残念ながらふくらはぎは見えない。けれど、カットソーはやっぱり身体にぴったりしたデザインで、綺麗な形の大きな胸がしっかりはっきり目立っている。昨日のニット同様ちょっとエロいけど、美也子さんには文句なしによく似合っていて、控えめに言って最高である。こんな姿の彼女と並んで歩けるなんて、幸せすぎて、もう死ねる。

 当然、きちんとメイクをしてあって、昨日の夜に駅で会った時と同じように毛先だけがゆるくカールした髪はつやつや輝いていた。

「お。なんだか一気によそ行きになったね。すごく綺麗だ」

「あはは。すっぴんがあまりに落差あって、実はがっかりしてたでしょ?」

「まさか」

 昨夜のあれこれのあと、お風呂に入って出てきた美也子さんは当然のことながら、素顔だった。化粧をしていない彼女を見たのは、これが初めてだ。

 決して、普段もばっちり濃いめ、というわけではないにしても、きっちり綺麗にメイクしている姿を見慣れていたから、素朴でつるんとした素顔がとてもかわいらしくて、むしろめちゃくちゃテンションが上がった。素顔のほっぺは吸い付くような手触りで、キスするととても幸せな気分になったのだった。

「化粧してる美也子さん、すごく素敵だから大好きだけど、でも、素顔なのも同じくらい好きだ。なんていうか、ちょっと幼く見えて、ますますかわいい、っていうか。肌、もともと綺麗だし」

「あ、ありがとう……」

 美也子さんはぱっと顔を赤くした。ああ、やっぱりかわいい。

「だって、基本、ぼくしか見られないよね? 素顔はさ」

「ん、まあ、そうだね。以前のお兄ちゃんを除いては」

 ああ、そういえば、しばらく二人暮らしだった、と言っていたのを思い出す。ご両親は仕事の関係で群馬にいるらしい。

「ぼくは兄しかいないからなぁ。異性のきょうだいがいるのって、どんな感じなのか、ぜんぜん想像がつかない」

「まあ、そうだよね。そんないいものでもないけど」

 美也子さんはちょっと嫌そうに顔をしかめた。

「純粋な好奇心なんだけど……美也子さんみたいなかわいい妹がいるのって、どんな気分なんだろう」

「え」

「ほら、よくあるでしょ、漫画とかラノベでさ。妹を溺愛する兄とか、逆に、お兄ちゃん大好きなブラコンの妹とか……」

「ないないないない!」

 今にもげそうな勢いで美也子さんが首を振る。

「鳥肌立つからやめて、それ」

「あはは。バッサリだね」

 美也子さんは顔をしかめたままで小さくため息を吐いた。

「前も言ったでしょ? お兄ちゃん、基本的に超がつくほど学問馬鹿で、ひとみちゃんと再会する前は、マジで女っけなしだったんだよ? そういう思考回路、たぶん、ぷっつり切れて機能不全だったんだよ。研究してれば、それで幸せ、みたいな」

 いやいや、妹にあれこれ話していないだけで、さすがに彼女のひとりくらいはいただろう。美也子さんの話しぶりだと、学問馬鹿というより女性に縁がない残念な学問オタク、といった感じだけれど、実際の聡史さんはとてもそんなふうには見えない。

 おしゃれ眼鏡――ああ、以前は美也子さんいうところの「ダサすぎる眼鏡」だったのか――は別として、すらっと背はまあ高いし、太っているわけでもなければ、細すぎるわけでもない。顔立ちも決して悪くない上、ちゃんと清潔感があって、おまけに、職業柄だろう、知的な雰囲気がしっかり漂っている。平たく言えば、とても品がいい。ああいう感じの男性を好む女性は、意外と多いんじゃないかとぼくは思う。

「聡史さん、ぼくはなかなか素敵だと思うけど」

「えー?」

「ひとみさんの初恋の人だよね?」

「あれ、ホント謎なんだよね。ひとみちゃん、お兄ちゃんの一体どこが良かったんだろ」

 はあ、とため息なんかついている美也子さんを見ながら、ぼくは当然、あのガーデンパーティーでの聡史さんのことを思い出していた。

 美也子さんを『かわいい』と言ったぼくに対して、まあ、ずいぶんな言いようだった。

『遠慮はないし、ずけずけものを言うし、ついでに品もない。かわいいとは、真逆かと』

 兄妹、お互いに容赦がない。とはいえ、聡史さんが妹である美也子さんを実はとても気遣っているということを、ぼくはちゃんと知っている。

 長野に出張に行った折に、失礼なほど直球でぼくに釘を刺してきたのは、記憶に新しい。『もう、泣くところは見たくない』というあの言葉は、しっかりぼくの心に刻み込まれている

 片や、美也子さんの兄に対する辛辣な言いようも、本音がゼロではないだろうが、半ば照れも混じった軽口であると推察する。要は、ちゃんと仲がいいからこそこういう感じなのだろう。

 ふと、美也子さんがぽつりと言った。

「まあ、同居人としては、楽な人ではあったけど」

「へえ、そうなんだ?」

「仕事忙しくなると、自分のことには無頓着だけど、まあ、家事がまったくできないわけじゃないし」

 なるほど。ということは、今は意外といい旦那さんになっているのかもしれない。というか、十中八九、そうなっているだろう。なんといっても、妻はあのひとみさんだ。首輪のような勢いでキスマークをつけまくるほど溺愛しているのだから、さぞかしまめまめしく家事などを手伝っていそうである。

 と、そこまで考えて、ふたりの結婚後に実家を出てから、美也子さんが友達とルームシェアしている、ということを思い出した。

「ねえ、美也子さんの今のルームメイトってどんなひと? 前、お酒に詳しい、って確か言ってたね」

「そうなの。カクテルすごく好きでね。石川かえで、っていう大学の時に仲が良かった友達なの。学科は違うけど、不思議と気が合ったんだよね」

 なぜか、美也子さんの口の片端だけが意味ありげに上がっていた。

「でね。あたしと同じ、肉食女子」

「お。似た者同士なんだ?」

「まーね。でも、あたしよりさらに激しいよ、楓は」

「美也子さんより激しいって……それ、すごいな」

 わざとそう言ってみると、案の定、美也子さんの目がすっと細くなった。

「ちょっと。それ、どういう意味?」

「すいません、冗談です」

 もう、と小さく笑ってから、あのね、と美也子さんは説明してくれた。

「激しいってのはね、変な意味じゃなくて……ものすごーく自分に正直なの。やりたいことは、我慢しないタイプ。オブラートに包んだり、っていうのが、まったくないのね。まあ、もちろん……あっちの方も含めてだけど」

「なかなか濃そうな人だね」

「濃いよー。あ、でも美人だよ。背が高くて、スレンダーで。あたしとしては、うらやましい」

「いやいや。美也子さんは、ぜひともこのままで」

 ぼくは、あわてて目の前の美也子さんをぎゅっと抱きしめる。

「ダイエットは禁止。この柔らかい抱き心地が失われたら、残念だし」

「……喜んでいいのかなぁ」


 10時少し前にアパートを出て、そのまま山下公園を手をつないでしばらく散歩した。うちからは歩いて15分ほどで、ぼくも休みの日にはよく散歩に来る。横浜港に面していて景色は文句なしに素晴らしいし、5月中旬から6月頭くらいまでは見事な薔薇が楽しめる。

 ちょうど『未来の薔薇園』のあたりを通りかかっていて、美也子さんがさも残念そうにため息を吐いた。

「もう今年はとっくに終わっちゃってるんだよね。あー、見たかったなぁ」

「あ、秋にも見ごろになる種類のがあるんだよ、そういえば。10月中旬から11月にかけて」

「ホントに? じゃあ、絶対見に来なきゃ」

「うんうん。ぜひまたおいでよ。ここ一面ぐるっと360度見渡す限り薔薇がいっぱいで、とても綺麗だから」

「いいなぁ。素敵」

 薔薇に囲まれて微笑む彼女は、さぞやかわいらしいことだろう。絶対に写真を撮らねば。

「うちの実家の庭にもね、薔薇、何種類か植えてるの。お兄ちゃんと二人になってからもね、お手入れ結構がんばって、ちゃんと咲かせてたんだー」

 どうやら花が好きらしい。覚えておかなくては。

「美也子さんはともかくとして、聡史さんも庭いじりとかするんだ?」

「仕事が立て込んでない時は、わりとちょくちょくやってたよ。今もそうみたい。というか、今の方がしっかりやってるんだろうけど」

 まあ、そうだろう。妻のひとみさんに「めろめろ」なのだから、なんて思っていたら、あ、ねえ、と美也子さんが公園の案内図を指さした。

「ここって、チューリップもあるんでしょう?」

「うん。薔薇よりもう少し早いかな。3月下旬から4月にかけてだね」

「あー、やっぱり春にも来たい」

「いつでも大歓迎。ちなみに、桜も綺麗だよ」

 お花いっぱいで、素敵なところだね、と幸せそうに微笑む彼女を見ながら、こっそり思ってしまう。

 もう、いっそのこと、こっちに住んじゃえばいいよ、と。

 いつもの調子でさらっと言ってしまおうか、とも一瞬思ったけれど、いやいや、だめだ、と思いとどまった。こういうのは、軽々しく冗談にしてはいけない。というか、冗談に受け取られては、絶対にいけない。

 まだ学生でこれから就職、というなら、話は別だが、すでに仕事を持っている美也子さんを困惑させるようなことはできない。普段話していても、きちんと仕事に誇りを持って楽しんで働いているのがよくわかるから、無理やり手放させるような真似はとてもできない。

 離れた場所で生活しているのをわかった上でこうして付き合うことを決めたのだから、あらゆる面で彼女をきちんと尊重しなくてはいけない。傍にいてほしいから、というぼくのわがままを押し付けるわけにはいかない。

 ましてや、過去の遠距離恋愛で深く傷ついた美也子さんに、物理的な距離を障害だと再び感じさせるのは、絶対に避けたい。

 彼女の兄の前で啖呵たんかを切った手前、ぼく自身が揺らいではいけないのだ。

 たとえ住む場所が遠くとも、心はいつも傍に。

 そして、好きだと思ったら、いつも心にある。

 ぼくは心からそう信じているし、彼女にも信じてもらいたい。

「嬉しいな」

 唐突な言葉に、一瞬、理解が追い付かなかった。

「え? なにが?」

「約束が」

 美也子さんは今はまだ空っぽの『未来の薔薇園』を振り返った。

「秋に、薔薇を見に来る。それから、春には桜とチューリップ。またここに来られる。とっても嬉しいし、安心するの」

 なんてかわいいことを言うのだろう、と不覚にも言葉に詰まった。外でなければ、すぐさま抱きしめてしまいたいくらいだ。

「約束なら、いくらでもするよ。美也子さんが安心してくれるなら」

「ほんとに?」

「もちろん。そして、ぼくはちゃんと守るよ」

「……うん、知ってる」

 美也子さんが、空っぽの薔薇園からぼくに視線を移す。小さな顔が、ふわりと綻んだ。

「拓弥さんは、そういうひとだものね。だから、大好き」

 ああ、こんな殺し文句を言われては、ここが外だとか、周りに人がいるとか、そういうのはもうどうでもよくなってしまう。

「それ、やばいよ、美也子さん」

 つないだ手をそっと引っ張って、肩を抱き寄せた。ほんの一瞬だけ、髪に口づける。

「もう、今すぐ部屋に戻ってめちゃくちゃにしたいくらいかわいい」

「だーめ。あとでのお楽しみだよ。夜、たっぷり可愛がって」

「もちろん。仰せのままに」


 もし疲れた様子なら、途中で休憩しようと思っていたけれど、意外とタフなようだ。わりと長いこと歩いてもまったく平気らしく、あれこれ楽しそうに話しながら、結局はお昼近くまでずっと歩き回った。

 そのまま中華街まで歩いて、昼食にした。辛い物も平気、とのことだったので、四川料理と飲茶のビュッフェ両方が楽しめるお店を選んだ。昼だとわりとリーズナブルでしかも本格的なので、司法修習時代から結構通っていた。今の職場でも食事会で何度か使った。看板メニューであるしっかり山椒の効いた痺れる辛さの麻婆豆腐が、ぼくは大好物だ。美也子さんも気に入ったようで、「辛いけどくせになる」とたくさん食べていた。他には、エビマヨが絶品だ、と半ば感動した様子だったのが、なんだかおかしかった。

「大体どこで食べてもそこそこ美味しい類のメニューだけど、ここのは神がかかってる」だなんて、ずいぶん熱心に絶賛して、こちらもしっかりおかわりしていた。マヨネーズのカロリーが、とか気にしないところが実にいい。

 飲茶メニューである小籠包や春巻き、海老の水餃子、そしてデザートの胡麻団子も含めて、それはそれは気持ちのいい食べっぷりで、一緒に食事をしていて本当に楽しい。

「太るよ、とか絶対言わないよね、拓弥さんって」

 食後のジャスミンティーを飲みながら、美也子さんは上機嫌だった。

「言わないよ。おいしそうに食べてるの、素敵だし」

「……でもさ、止めないと、あたしデブるかもよ?」

「大丈夫でしょ? だって、美也子さん、いつもおしゃれだし。たぶん、無意識のうちに自制するタイプじゃない?」

「あー……確かにそうかも。服、似合わなくなるの嫌、とか思っちゃうね」

「美味しく食べて、無理せずそこそこ、でいいよ。というか、別にダイエットしなくていいし。というか、禁止ってさっき言ったっけ」

 美也子さんは、あはは、と笑った。

「今までしたことないし、たぶん、しないから、安心して?」


 午後は、昨夜ベッドで話していた古書店に行くことにした。さすがに暑くなってきたから電車で伊勢佐木町まで移動する。

 ここのちょっと古めかしい商店街には古書を扱う店が軒を連ねており、歩くだけでなかなか楽しい。それも、いわゆる大型チェーンの古本屋ではなく、昔ながらの小さな古書店である。すっかり背表紙が黄色くなった本がぎっしりワゴンに詰め込まれて店先に並んでいるのは、学生時代から見慣れた光景で、ぼくとしてはほっとする。

「すごい。ここ一帯、全部古書のお店?」

「うん。これでも少し減ったんだけどね。学生のときから結構通ってて、お世話になったなぁ」

 法律関係の古書専門店があって、大学の授業で必要な参考文献や司法試験の教材なんかも、ここで安く手に入れられることもあってラッキーだった。しかも、不要になったものはきちんと査定して適正価格で買い取ってもらえるというのも、またよかった。

「懐かしいな。ずいぶん久しぶりだ、ここも」

「雰囲気が素敵。あたし、こういうの大好き」

「ほんとに? よかった」

 興味の対象は、源氏物語だけにとどまらないようだ。国文学科出身だけあって、基本的に本は好きらしい。やはり特に好きなのは古典らしく、日本文学関連の古書を専門に扱っている店では、棚の本を手に取っては熱心にページをめくっていた。

 ほかにお客さんがいないせいか、店の人も出てきてあれこれと説明してくれた。80近いと思われる老店主も、なんだか嬉しそうだ。美也子さんのような若い女性があまり来る場所ではないらしく、珍しいのだろう。

 この店は、ぼくが源氏物語にはまった学生時代に何度も訪れた。注釈付きの原文が納められたかなり古い本を幸運にも安く買えて、ホクホクしながら家に帰ったのを、まるで昨日のことのように覚えている。

 やはり、古典の専門書の中では、源氏物語関連のものが多い。店主が奥へ下がっていったあとも、美也子さんはしばらく本をあれこれと見ていた。

「あ、これ大学の時に読んだやつだ。懐かしい。和歌の解説がすごく詳しいんだけど、話が脱線しすぎてなかなか本題に戻ってこないんだよね」

「楽しみの読書だとそれでもいいけど、試験勉強のためだと困るやつだ」

「そうなの。もう、勉強そっちのけになっちゃう。まあ、長い目で見たらちゃんと勉強にはなってるんだけど……試験が目前だと、やばくって」

 美也子さんがずいぶん楽しそうで、ぼくも嬉しくなる。

「あー、ねえ、拓弥さん。ちょっとだけお店のひとに話を聞いてきてもいいかな? 一応、仕事で」

「お。取材ってこと?」

 予想外でちょっとびっくりしたものの、こういう美也子さんもすごく素敵だ。今も、すでに何か考え始めているらしく、さっきまでとは明らかに目つきが違う。かわいい、というよりは大人びて綺麗な感じだ。

「いきなりだから、ほんのちょっとだけ。幸い、お客さんいないみたいだし」

「確かに。さっきの感じだと、快く話してくれそうだね」

「だといいな。古書店について特集、なんてのもいいかなって、思いついたから。企画出してみたら面白そうだな、って」

 彼女は肩にかけたバッグから手帳とペンを取り出した。

「お。ちゃんと道具も持参?」

「これでも記者の端くれだから。何に出くわすかわからないでしょ、外出中も。だからさ、こんなものも、一応ね」

 再びバッグに手を入れ、今度は、黒い筒状の何やらかなり太めの万年筆のようなものを取り出して見せてくれた。

「これ、なーんだ?」

「ん? なんだろう。筆記用具……にしては太いな。化粧道具っぽくも見えるね。香水でも携帯するケースとか?」

「ぶっぶー。これ、音声レコーダーなの。性能はあまりよくないけど、一応、人の声はちゃんと拾えるよ。せいぜい30分程度しか記録できないけどね。正式な取材のときはね、もっとちゃんとしたボイスレコーダーを持参するんだけど、いかんせんかさばるの。不測の事態に備えて普段持ち歩くには、こっちが便利」

「なるほど」

 ぼくは半ば本気で感心してしまった。 

「美也子さん、なんだか、ものすごくかっこいい」

「ふっふーん。惚れ直した?」

「というか、もとから極限まで惚れてるから、針はとっくに振り切れてる」

「もう。相変わらず、口が上手いなぁ」

 うっすら赤い顔でぶつぶつつぶやいてから、「じゃあ、行ってくるわ」とぼくに手を振った。

 このお盆休みが、ぼくは本当に楽しみで仕方なかった。付き合い始めて初めてのデートであると同時に、初めてぼくの部屋に泊まりに来てくれて、初めて朝から晩までずっと二人で過ごせる機会なのだ。まだ始まったばかりの連休だというのに、すでにいろんな姿の彼女を見られた。

 部屋で二人きりのときのうっとりするほどかわいい(というかエロい)姿もたまらないけれど、さっき公園で「約束が嬉しい」と素直に微笑む姿にも、かなりやられた。いい食べっぷりには惚れ惚れするし、本を夢中になって読み耽る姿も、ずっと見ていても飽きないくらい素敵だ。

 それに、今のように真剣に仕事に向き合っている姿勢は、眩しいくらいだ。実に颯爽としていて、「かっこいい」という形容詞がぴったりだ。

 初めて二人きりで食事をして、お酒を飲んだあの晩。美也子さんの気持ちがぼくに向いてくれたまさにあのとき、ピアノが奏でていたあの曲の歌詞が鮮やかに蘇る。

 Time after time

 I'm tell myself that I'm

So lucky to be loving you

 いつも、いつも、

 自分に言い聞かせてる。

 あなたを大好きで、ぼくは本当にラッキーだって。


 まさに幸せの頂点にあったぼくは、知る由もなかった。

 まさかこのあと、とんでもないことが起こるとは。


 美也子さんが店主のところへ行っている間、ぼくは本を物色していた。せっかく来たし、掘り出し物があれば買って帰りたい。たまには源氏物語以外のものでもいいかもしれない。なんといっても、国文学科出身の美也子さんがいるのだから、あれこれ教えてもらえるいい機会だ。

 店内の棚から2冊ほど気になる本を選んだ。『夜の寝覚め』に関する本だ。

『夜の寝覚め(夜半の寝覚め)』は源氏物語の流れをむ平安後期の王朝文学で、『更級日記』で有名な菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめが作者だと言われている。知名度は源氏物語に遠く及ばないが、心理描写が実に素晴らしく、近年は専門家の間での評価も高まりつつあるらしい。

 主人公である中の君という女性――たいそうな琵琶の名手である――がたどる数奇な運命が、とにかくすごい。

 ある晩、偶然に方違かたたがえで某所を訪れていた左大臣の息子・中納言は、中の君の姿を垣間見て、あまりの美しさに虜となってしまう。

 実はこの中納言、中の君の姉である大君の婚約者で、近いうちに結婚が決まっていたわけだが、まあ、この時代、正妻以外に側室や妾を複数持っても何ら問題はない。

 そして中納言は、中の君をとある評判の美女(ただし受領の娘)と勘違いして、そのまま契ってしまう。平たく言えば、「俺って左大臣の息子だし、何しても許される身分だよな。相手はたかが受領の娘だし、いきなりやっちゃってもオッケーだろ。というか、美人だから、やっとかないともったいないし」と一夜を共にしたわけだ。

 そして、結婚後、実はあれは妻・大君の妹だったと知った中納言は大慌て。さらに恐ろしいことに、たった一度の逢瀬で中の君は妊娠してしまう――という、昼ドラもびっくりな展開なのが、この『夜の寝覚め』である。

 たぶん美也子さんも、これは結構好きなんじゃないか。あとでいろいろ話をしたいな、と思いながら、選んだ2冊を棚の端によけておく。店の奥からは、美也子さんと店主が話す声が聞こえてくる。なんだか盛り上がっているようで、ぼくも嬉しい。もう少しかかりそうだから、店先のワゴンも覗いてみようか、と外へ出たその時だった。

「あ……」

 ちょうど店の前を通りかかった中学生くらいの男子と目が合った。

 派手なロゴの入ったTシャツに、ダメージジーンズ。相も変わらず、ずいぶんと高そうなスニーカーを履いているし、つけている腕時計も、明らかに分不相応な高級ブランドのものだ。茶髪というより金髪に近い色の髪で、ひどく目立つ。

 しかし、いかんせん、小柄で線も細い。どこからどう見ても中学生にしか見えない。

 すぐに誰だかわかったぼくは、とっさに仕事モードに切り替えた。ポーカーフェイスを貼り付けてそ知らぬふりをするつもりだったのだが、相手はそれを許してはくれなかった。

「……あんたか。なんでこんなとこにいるんだよ」

「こんにちは」

 まずは、挨拶が基本だ。少なくとも、危害を加えるつもりはありませんよ、という意思表示。営業する必要は皆無だから、スマイルはなしで、努めてニュートラルな表情のまま接する。

「休日に買い物をしているだけだよ。ここは商店街だし、当たり前の行動だ」

「……相変わらず、うさんくせぇ。ムカつく、その喋り方」

 そう思うなら、なぜ絡んでくるのか。ぼくなら、気づいた瞬間に回れ右をしてその場を去るよ、嫌な相手と話すのなんてまっぴらだから。

 もちろん、口には出さない。まあ、中学生だ。しかも、いじめをするようなろくでもないガキだ。何が賢い行動か、なんて考えもせず、その時その時の気分や衝動で行き当たりばったりにふるまうことしかできないのだろう。

「もう、さっさと行かないでよ」

 少し遅れて後をついて来た同じく中学生と思しき女子が、隣に並ぶ。

 大きく胸の開いたデザインの丈の短いワンピース姿で、明らかに染めているとわかる、眉毛とちぐはぐなほどの明るい茶髪のロングヘア。しかも、傷んでぱさぱさしているのがここからでもよくわかるし、お世辞にも品がいいとは言えない。意外にもつぶらな瞳と髪の色が完全にミスマッチで、だからこそ、余計に幼く見えてどこか痛々しくさえあった。

「ねえ、たすく、誰、このおじさん?」

「……林の弁護士」

 おじさん、って。まだ26歳なんだけどな、と内心苦笑しつつも、ぼくはポーカーフェイスを崩さない。

 亮、と呼び捨てているから、おそらくこの増山亮ますやまたすくの彼女なのだろう。とたんに敵意をむき出しにして、ぼくを睨んできた。

「あんたのせいで、亮、学校でどんな目に遭ってると思う?」

岳琉たける君が転校したのは、誰のせいだと思っていますか?」

 ぼくの問いかけに、増山は苛立たしげにそっぽを向いた。

「……勝手に逃げやがって」

「なぜ勝手に逃げてはいけないのでしょうか? 君の許可が必要なのですか?」

「うるせえよ」

「いなくなってくれて、さぞせいせいしたのではないですか? 大嫌いだったのでしょう? あれだけさんざん嫌がらせをしていたのだから。追い出したくて、やっていたのでしょう?」

「うっせえって言ってんだろうが!」

 苛立たし気に凄んだところで、怖くもなんともない。そもそも、身長だってぼくより10センチは低い。

「物を隠す、教科書やノートを破く、根も葉もない噂を流す、無視をする。大嫌いだから、追い出したいから、ああした行為を毎日繰り返したのでしょう?」

「ちげぇよ」

「ではなぜですか? 追い出したいわけでもないのに、相手が嫌がることをし続けたのは、なぜですか?」

「あんた、調子に乗るんじゃないわよ」

 増山の彼女が、一歩前へ出てきた。

「たかだか中学生同士のふざけ合いに、なんで弁護士がでてくんのよ?」

「ふざけ合いならば、双方向なんらかのやり取りがあり、かつ親密なコミュニケーションであるはずだ。しかし岳琉君は一方的にいやがらせをされていたにすぎず、よって、あれはふざけ合いと呼べるものではない。そして、ぼくは正式に依頼を受けてこの件に関わっている。つまり、仕事として弁護士のぼくが介入している。これでいいかな?」

 彼女ではなく、後ろにいる増山にぼくは視線を移した。

「ふざけていただけ、は通用しないよ。君と君の仲間が岳琉君にしたことは、立派に犯罪だ。これは、岳琉君が転校する前にも言ったはずだ。君だけじゃない。担任の先生も、君のお母さんもあの場にはいたから、忘れたとは言わせない」

「弁護士のくせに、恐喝かよ?」

「刑法第249条に規定されている恐喝とは、暴行や脅迫によって相手を怖がらせ、財物や財産上の利益を交付させる行為だ。刑罰は、10年以下の懲役」

「は? 知らねぇよ」

「ぼくは、以前の話し合いの場でのことを確認しているだけであって、君に金品など一切要求してなどいない。よって、恐喝罪は成立しない」

 うざ、と彼女が心底うんざりしたように吐き捨てる。

 うざい、というかさぞ面倒くさいだろう。

 ぼくはね、どちらかというと怖くはないけど、面倒くさいタイプだよ、怒らせると――ポーカーフェイスのまま、ぼくは増山をじっと見つめた。

 明らかに不貞腐れたような顔で睨み返してくる増山から、ぼくは一瞬たりとも視線をそらさなかった。

「やったことは、全て自分に跳ね返ってくる。君がいま学校で置かれている状況は、君と君の仲間が岳琉君にやったことの結果だ。君も、それは理解している。わかっているから、腹が立っている。違いますか?」

 ろくにものも知らない中学生相手にさすがに大人げないか、とそこで口を噤んだ。

 この生徒を反省させ、改心させるのは教師の仕事であって、弁護士のぼくがすることではない。このままではろくな大人にならないのは火を見るより明らかだが、これ以上ここでする話はもうない。

 じゃ、ぼくはこれで――と言いかけたその時だった。

「……あの、拓弥さん?」

 珍しく遠慮がちな声で背後から呼びかけられて、とても驚いた。振り返ると、美也子さんがどこか困った顔で立っていた。

「ごめんね。待たせちゃって」

「いや。ぼくこそ……」

 おそらく、少し前からそこにいたのだろう。その表情から、さっきまでのやり取りをある程度聞いていたのは、明らかだった。

 ひとまずこの場から退散するのが上策だ、と判断してぼくは努めてなんでもなさそうに美也子さんに尋ねた。

「どう? 話、聞けた?」

「あ、うん。すごくいい人で。また今度ゆっくり取材を……」

「なに、この女? あんたの彼女?」

 増山がふっ、と鼻で笑いながら言った。しかも、なぜか挑発するような表情だ。

 頭のてっぺんから足の先まで、ねっとり舐めるような視線を美也子さんに向け、にやにやと下卑げびた笑みを浮かべている。

「弁護士さんさぁ、偉そうにぺらぺら難しい話してインテリぶってるわりにさ、こういう女が好みなんだ?」

 こういう女、というフレーズで一気に頭に血が上りかけた。けれど、次の瞬間、仕事中にいつもするように、さっくり感情を切り離すことにどうにか成功した。

 ぼくは静かに問うた。

「……それはどういう意味?」

「胸がでかいだけの、馬鹿女ってこと。明らかに身体目当てで、ヤリたいだけじゃん。わっかりやすー」

 落ち着け、と自分に言い聞かせた。

 相手は、子供だ。

 しかも、ろくでもないいじめの加害者だ。

 クライアントである林岳琉にさんざん危害を加えた、いわば敵だ。

 これは、あくまで仕事だ。それ以上でもそれ以下でもない。

 そう割り切って――ひとまず今は、彼女を守らなくてはいけない。

「ぼくを悪く言うのはかまわない。ただし、彼女は関係ない。侮辱するのは許さないよ」

「今度は、侮辱罪、とかって脅す気? 自分がエロいの棚に上げて」

「ちょっ……やめなよ。言い過ぎだって。言葉が悪すぎ」

 意外なことに、増山の彼女が割って入ってきて、ぼくは内心驚いた。しかも、はっきりとその顔は青ざめていた。

 増山は一瞬、わけがわからない、といった表情になったが、すぐに開き直ったように彼女に抗議し始めた。

「は? ホントのことじゃん。こういうエロい身体した女なんてさ、頭空っぽって相場は決まって……」

「身体は関係ないじゃん。そこまで言う必要ないし」

「ってか、なんでお前そんな怒ってんの? 意味わかんねーし」

 ふと、美也子さんが前へ出てきてぼくの隣に並んだ。静かな声で増山に問いかける。

「……ねえ、君。本当にわからないの?」

「は?」

 美也子さんは、おもむろにバッグから太めの万年筆――のように見える、例の音声レコーダーを取り出した。

 上面についているボタンを押すと、カチッと音がして、ほどなく、ややくぐもった声が流れ出した。

『……それはどういう意味?』

『胸がでかいだけの、馬鹿女ってこと。明らかに身体目当てで、ヤリたいだけじゃん。わっかりやすー』

『ぼくを悪く言うのはかまわない。ただし、彼女は関係ない。侮辱するのは許さないよ』

『また、侮辱罪、とかって脅す気? 自分がエロいの棚に上げて』

『ちょっ……やめなよ。言い過ぎだって。言葉が悪すぎ』

『は? ホントのことじゃん。こういうエロい身体した女なんてさ、頭空っぽって相場は決まって……』

『身体は関係ないじゃん。そこまで言う必要ないし』

『ってか、なんでお前そんな怒ってんの? 意味わかんねーし』

 再び、カチッと音がして音声が途切れた。

 増山は呆然としていた。そして、増山の彼女の顔はさらに青くなっていた。

「あたしは、もういい歳だけどね。そっちの彼女の気持ちはわかる。同じ女だから」

 美也子さんが静かに話し始めた。

「彼氏が他人にどう接してるか、すごく気になるよ、女の子は。もし、横柄な態度をとってたり、汚い言葉を吐いたりしてれば、怖くなる。だって、もしかしたら、いつか自分もそんなふうに扱われるんじゃないか、って」

 増山の彼女は一瞬目を見開いてから、唇を噛みしめる仕草をした。

「そりゃね、上手くいっててラブラブな時は、うんと大事にしてくれるかもしれないよ。でも、しっくりこなくなったとき、冷めかけてしまったとき、他人にするのと同じように雑に扱われて、悲しい思いをするのかもしれない、って考えたら……あたしだったら、耐えられない」

 さすがの増山も、これにはこたえたようだ。ふんっ、とふてぶてしく鼻を鳴らしたものの、それ以上は言葉を失って俯いていた。

「あたしね、これでも新聞記者なの。確かにそれほど頭はよくないかもしれないけど、見ず知らずの子どもに馬鹿女呼ばわりされるいわれはないよ」

 美也子さんは、ふうっ、と小さくため息をついた。

「それに、エロい身体で悪かったね。っていうか、君だってそういう目で見てるってことでしょ。まあ、中学生男子だもの、仕方ないか。でも、立派にセクハラだよ? 胸がでかいとか、こんな人通りの多いところで言うもんじゃないでしょ」

「侮辱罪は、立派に成立する。胸がでかいだけの馬鹿女、エロい身体した女なんて頭空っぽ。どちらも、完全にアウトだ」

 ぼくは美也子さんの言葉を引き継いだ。

「刑法第231条には、こう規定されている。事実を摘示てきししなくても、公然と人を侮辱した者は、一年以下の懲役、もしくは禁錮、もしくは三十万円以下の罰金又は拘留、もしくは科料かりょうに処する」

「か、勝手に録音するとか、それはアウトじゃないのかよ!」

 半ばパニックになりかけたように怒鳴りだした増山に、美也子さんは表情を変えずにうなずいた。

「そうだね。確かに、許可なく録音するのはよくなかった。だから、今この場でちゃんと消すよ」

 カチッ、と今度は下についているらしいボタンが押される。

「はい、確かに消した。安心していいよ、証拠は残ってない。もちろん、あたしの記憶にはしっかり残ってるけどね」

「……うざ」

 捨て台詞を吐いて、増山が踵を返した。

 そのまま振り返らずに駅の方へと歩いて行く後ろ姿を追いかける前に、増山の彼女はぺこりと頭を下げた。ぼくと美也子さんに。

 ごめんなさい、と消え入りそうな声でつぶやいて、そのまま彼女は走っていってしまった。

 二人がいなくなると、美也子さんは、はぁぁ、とものすごく深いため息を吐いた。

「あー、緊張した! もう、脚、がくがく震えそうだったし」

「え。そうなの?」

「だよ! 声だっていつ震えるかびくびくしてた。ね、大丈夫だった? ちゃんとあたし、あの子に説教できてた?」

 心配そうに尋ねてくる美也子さんを、ぼくはぼんやり見つめてしまう。

 あれだけ堂々と、しかも落ち着いて少しも感情的にならずに話す様は、見事なものだった。弁護士であるぼくでさえ、感心してしまうほどだった。

「大したものだっだよ、というかものすごくカッコよかった、美也子さん」

「ホント?」

「うん。新たな一面を見て、今、めちゃくちゃテンション上がってる。というか、再び恋に落ちた気分だね。ああ、もう大好き、美也子さん」

「やったぁ!」

 あはは、と嬉しそうに微笑む美也子さんの肩を、ぼくはそっと抱いた。

「……ねえ、無理してない?」

「え?」

「あんなこと言われて、腹立ったでしょ、当然」

 あのクソガキ。というか、エロガキ。

 勝手に美也子さんを見るな。いっちょまえに男の目で。

 目の玉、油性マジックで塗りつぶしてやりたい気分だ。

 というか、万が一でもおかずにしたりしたら、ぶっ殺す。

 美也子さんは、まあねぇ、と困ったように言う。

「あそこまであからさまなのは珍しいけれど、似たようなこと、今までなかったわけじゃないし。慣れてる、とまでは言わないけど、またか、という感じかな」

「かわいそうに……今後もしセクハラまがいのことをされたら、ちゃんと教えてね。徹底的にぶちのめすから。全身全霊をかけて言葉の限りを尽くして、再起不能にしてやる」

「あはは。ありがとう」

 美也子さんはぼくの肩にそっと鼻先をくっつけた。

「……拓弥さんだって、さっき嫌だったでしょ、あんな言われ方して」

「いや、もう瞬時にさっくり感情切り離したから、平気。それより、美也子さんに嫌な思いさせて申し訳ない、って気持ちでいっぱいだった。ごめんね」

「……ん-ん。拓弥さんのせいじゃないし」

 ひとまず、店の中へ戻った。相変わらず、他にはお客さんがいない。店主も奥へ引っ込んでいってしまっている。

 シンと静まり返った店内で、本の匂いに包まれてぼくはそっと美也子さんにキスをした。当然、短く、軽く、だ。

 唇を離し、鼻先が触れ合うほどの距離のままで、じっと彼女の瞳を覗き込む。

「ぼくさ、感情を切り離した、ってのもあるけど、あまりにも幼稚でくだらない言い草だったから、さほど腹が立たなかったんだ。身体目当て、ただヤリたいだけ。そんなわけないだろ、このガキが、って思いはしたけどね」

「でも、拓弥さん、あたしによく言うよね、どこもかしこも最高って」

 ちょっと意地悪気に言ってきた美也子さんのほおに、ちゅっ、と小さく口づける。

「うん。最高。身体だけじゃなくて、全部、最高。さっきのカッコよかった姿とか、美味しそうに食べるところとか、仕事熱心なところとか。全部が最高だよ。そして、全部、かわいい」

「……ありがとう。嬉しい」

 薄暗い店の中で、美也子さんの笑顔はとてもまぶしかった。

「拓弥さんもね、さっき、カッコよかった」

 ああ、やっぱりけっこう前から見ていたのか、と今さらながらに思い至った。

「めっちゃ弁護士の顔だったね。とっても素敵だった」

「ありがとう。美也子さんに言われると、嬉しい」

 なんとなく微笑み合って、どちらからともなくぼくらは再び小さな口づけをしたのだった。


 さっきの騒動の前によけておいた『夜の寝覚め』関連の本を二冊を買うことにした。美也子さんも、源氏物語に関する掘り出し物を見つけたらしく、何冊か買って、店主にもう一度お礼を言って店を出た。

 その足で、あらかじめ見つけておいた美味しいケーキが食べられる店へと向かい、おやつにした。フルーツタルトとナポレオンパイを美味しそうに食べながら、美也子さんは『夜の寝覚め』について熱く語ってくれた。予想通り、やはりかなり好きらしい。

 こういう姿も含めて、ぼくはやっぱり彼女の全部が好きだ。内も外も、美也子さんは最高だ。

 そろそろ外食も飽きたよね、という美也子さんの言に従い、夜は家で一緒に何か作ろうか、ということになった。

 二人で一緒に料理する。これも、今回ぼくがどうしてもやりたかったことだ。

 近い将来、これが当たり前になる日がくればいい。スーパーで買い物をしながら、ぼくはこっそりそんなことを考えていたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る