第31話 Seesaw(拓弥)④

 その後、ほどなく結婚式が始まってしまい、しばらく話をするチャンスなどまったくなかった。心底残念に思いながらも、ブライズメイドとして新婦に付き添う彼女を、それこそ穴があくんじゃないか、というほど、じいっと見つめていた。

 庭先で向かい合っている時に思ったけれど、175センチのぼくが軽く見下ろす格好だった。ヒールの高さを差し引いて、160センチ弱というところだろうか。でも、細すぎないせいか、さほど小柄には見えない。

 逆に、新婦のひとみさんは、華奢なせいでとても小柄に見える。まあ、16歳という年齢もあるだろう。純白のドレスが似合すぎるほどに似合っていた。童話に出てくるお姫様のような可憐さで、会場内のあちこちからため息が漏れる。もちろん、文句のつけようのない可愛らしさではあるが、ぼくはそのすぐ傍にいるオレンジ色のワンピース姿の美也子さんから目が離せなかった。

 讃美歌、神父の言葉、誓いの言葉、指輪の交換、そして、誓いのキス。

 式は滞りなく進み、最後に入り口のドアへと向かう通路の両側に列席者全員で並び、退場する二人に祝福の花びらを降らせて見送った。

 その後、中庭へと場所を移して、和やかな祝福の時間は続いた。ラクロア神父と新郎のご両親に挨拶を済ませてから、ひとまず傍にいた招待客の方々と話した。ひとみさんがこの教会で過ごしていた頃に親しくしていた信徒が大半らしい。みな一様に「本当に可愛い花嫁さんで、目の保養だ」と口をそろえて言うのだった。

 あちこちに挨拶して回るのに忙しそうな美也子さんを、ぼくはずっと目で追っていた。親族なのだから、当然忙しい。入れ代わり立ち代わりやってくる人たちに頭を下げたり笑顔で歓談したり、という場面が続く。ただ、人との交流にはずいぶん慣れているのは一目瞭然だった。職業柄そうなのかも、とちらりと類推しながら、さりげなくタイミングを見計らって、ぼくは新郎と新婦に近づいた。 

 式の前に何度か顔を合わせているから、堅苦しい挨拶は抜きで、今日はおめでとうございます、と祝いの言葉を述べて、ちょっとした世間話をした。大学でどんな授業を担当されているんですか、とか、どんな研究をされているんですか、とか、そういったことだ。

 そこはやはり学者だ。研究のことを訊かれると嬉しいらしく、いつもの淡々とした静かな口調で詳しく教えてくれた。

『ドイツ神秘思想以前と以後の時代、つまり、4世紀のアウグスティヌスなどの教父から、16世紀の宗教改革前後、中世から近世のキリスト教を研究していまして……といっても、いわゆる当時の神学者や哲学者だけでなく、民衆や一般信徒、そして女性たちがどのように信仰というものを理解していったのだろうか、ということにとても興味があるんです。そして、教会や修道院が担ってきた役割にも。今書いている論文は、エックハルトと弟子のタウラーに関するものなんですが……』

 教会史が専門、とは聞いていたが、ずいぶん専門的な話で、正直、ピンとはこない。ドイツ神秘思想とか、初めて聞いた語彙だ。エックハルト、っていったい誰だ? 弟子のタウラー? なんの弟子だ?

 隣にいるひとみさんは、可愛い顔でにこにこしながら楽しそうに聞いている。ほんとにわかってるのかな、この子、とこっそり思ってみるものの、新郎は、といえば、まったく頓着した様子はなく、そんなひとみさんを例の今にも蕩けそうな顔でときおりうっとり見つめながら、しばらく淡々と話し続けていた。

 さすがに、ぼくが困惑しているのに気付いたらしい。新郎は、すみません、と小さな声で謝って、頭を掻いた。

『妹がいるとこうはいかないもので、つい喋りすぎてしまいました。あいつは、すぐに遮ってくるもので』

 お、妹、ということは、つまりは美也子さんのことか、と小躍りしたい気分だった。やや強引かとは思ったが、思い切って尋ねてみる。

『妹さん……美也子さんは、お仕事は何をされてるんですか?』

『え……長野で新聞社に勤めていますが』

 新郎ははっきり面食らった様子だ。

『あの、小野田さん、美也子のことご存じだったんですか?』

『ああ。式の前に、中庭でお会いして。とてもかわいい方だなぁと』

『は?』

 まるで漫画のようだ。目が点、と言った風情で新郎は固まっていた。

『かわいい、って……失礼ですが、人違いじゃないですか?』

『もう、聡史くん。ひどいよ、それ』

 新婦のひとみさんが割って入ってくる。

『美也子ちゃん、かわいいよ? いっつもちゃんとおしゃれしてるし。とっても素敵だよ?』

『ええ、ええ。今日のオレンジ色のワンピースもとても素敵ですよね』

 すかさず本音が出るぼくに、ひとみさんはにっこり微笑んだ。

『わたしも一緒に選びに行ったんです。綺麗な色で、美也子ちゃんによく似合うと思って……よかった、そう言ってもらえて』

『いやぁ、美也子さんの雰囲気にとても合っていますよね。ほんとに、すごくかわいいなぁ』

 かわいい、という形容詞によほど違和感があるらしい。先ほどからずっと奇妙なものでも見るような視線を感じる――もちろん、新郎からだ。

『見た目については、兄の僕からはなんとも……それはともかく、あの性格。遠慮はないし、ずけずけものを言うし、ついでに品もない。かわいいとは真逆かと……』

 新郎は、深々とため息をついた。

『小野田さん、ああいうのが好みですか?』

『ど真ん中ですね。けっこうストライクゾーン、狭いほうなんですが』

『……狭いのに、あれがど真ん中?』

『ええ。まさに』

 ちらり、と後ろを振り返ると、美也子さんは少し離れたところで、ご両親と他数人の招待客と何やら笑顔で話し込んでいる。こちらにやって来る様子はない。

 チャンスだ。今しかない。思い切って訊いてみることにした。

『あの、とても不躾な質問で恐縮なんですが……いま、美也子さん、お付き合いされてる方、いたりします?』

『……たぶん、今はいないかと』

『そうですか! よかったぁ』

 隠す間もなく、またしても本音が出る。ひとみさんは、相変わらずなぜかとても楽しそうだ。

 新郎はしばし目を泳がせてから、困ったようにぼくを見た。

『両親が仕事の都合で長野を離れていまして、美也子とはしばらく二人暮らしだったんですが……まあ、そういう類の話は、さすがにあからさまには』

『まあ、そうでしょうね』

 さらに詳しく何か続くのか、と思いきや、新郎はそれきり口を噤んだ。

 あ、これ、何か絶対知ってるな、と直感で思う。でも、さすがにこれ以上追及するのは不躾を通り越して迷惑だしずうずうしいだろう、と諦めた。むしろ、きちんと妹に礼儀を尽くす新郎に、好感を覚えすらした。

 今は、と新郎は言った。つまり、以前は恋人がいた、ということだ。

 まあ、それはそうだろうな、と思う。魅力的な女性だし、恋に興味があるからこそ、源氏物語に惹かれて専攻したのだろう。現実の恋に身を焦がしていたって、なんら不思議はない。

 ぼくだって、学生時代にはそれなりにいろいろあった。まあ、仕事が忙しくてここしばらくは恋人がいないけれど、無理して作るものでもないし、特に焦りや不満はなかった――さっき、中庭で彼女に会うまでは。

 ちらりと再び美也子さんの方を窺うと、ちょうどご両親が他の招待客に話しかけられて離れていった。ようやく彼女は手が空いたようだ。

 よし、話しに行くチャンスだ。

 では、またのちほど、と会釈してその場を離れようとすると、あのう、と新郎に呼び止められた。

『小野田さん、横浜にお住まいですよね?』

『ええ。勤務先がこちらなもので』

『……ですよね』

 心なしかさっきよりも困り顔になった新郎に、ひとみさんが首を傾げていた。

『どうかしたの、聡史くん?』

『いや……』

 なんだろう、と若干気にはなったものの、ちょうど綺麗な色のカクテル数種類がテーブルへ運ばれてくるのが見えて、「では、いったん失礼しますね」とぼくは二人の傍から離れた。


『美也子さん』

 呼びかけると、オレンジ色のワンピース姿が振り返る。ぼんやりしていたのか、ほんの一瞬、表情を作れていない感じの素の顔が見られてなんだか得をした気分だった。すぐに、すうっとよそ行きの表情に戻ってしまったものの、この落差がまたいい、なんて思ってしまう。

 甘い方がたぶん好みだろうと思って、ドレスと同じ色のカクテル――おそらくバレンシアだろう――が入ったグラスを傍のテーブルから手に取って、差し出した。

『お疲れでしょう? 飲み物、いかがですか?』

『ああ、ありがとうございます』

 素直に受け取ってすぐに一口飲む様子に、ほっとした。あ、これ好きなやつだ、とつぶやくのが聞こえて、さらにほっとする。

『バレンシアでしょう? たぶん』

『みたいです。シンデレラかな、って最初思ったんですけど……』

『ノンアルコールのは、ちゃんとわかるようにしてるみたいですね。ほら、ひとみさんが持ってるグラス』

 純白のドレス姿の16歳の花嫁は、同じくオレンジ色の飲み物が入ったグラスを両手で持っている。ただし、美也子さんのとは違って、脚のないグラスだ。色味から察するに、オレンジ、パイナップル、レモンの果汁のみで作る、ノンアルコールカクテルが入っているようだ。

『あれはシンデレラかな、たぶん』

 ぼくは、すぐ傍のテーブルからジントニックと思われるグラスを手に取った。

『あ。お酒、平気かどうか訊かずに勝手に渡してすいません』

『全然。むしろありがとうございます。これ、好きなんです。甘くて口当たりいいわりに回るの早いから、気を付けて飲まないといけない、ってわかってるんですけど』

 バレンシアは、アプリコットリキュールとオレンジビターズ、オレンジジュースで作るショートカクテルだ。彼女の言う通り、甘い口当たりなのにすぐ回る。つまり、ある目的を持ってに女性を酔っぱらわせるのには、実にうってつけのカクテルだ。

『確かに。けっこう強いですよね、それ』

『今日はちゃんと一杯でやめます。あとでケーキも出てくるし』

 楽しみなんです、とにっこり笑顔を向けられる。ああ、やっぱりかわいい。さっき新郎はひどい言いようだったけれど、これはストライクど真ん中だ、と再び思う。

『新聞社にお勤めなんですね。お兄さんに伺いました』

『ええ。文化部なんです』

 あ、名刺、といったんグラスを置いて、バッグから名刺入れをとりだし、一枚差し出してきた。

 受け取って、ぼくも同じように自分の名刺を渡した。よし、名刺交換できた。ひとまず、職場の電話番号はゲットだ。

『地方紙ですけど、けっこう発行部数多いんですよ。地元ではわりと多くの方に愛読されてます』

『そうですか。主に、美也子さんはどんな記事を?』

 地元密着型なんですよ。新しいお店とか、デパートの催し物なんかの取材もよくします。あとは、大きな書店があるので、そこの月間売上ランキングと新刊のレビューとか――アルコールが入ったせいか、饒舌だった。そして、やはり兄妹だ。声の調子や口調はまるで違うが、話し出すと結構夢中になるのは、新郎とよく似ている。また、顔立ちそのものはそれほど似ていないけれど、目がすうっと細くなって優し気に微笑む仕草は、やはり同じだ。

 仕事が好きなんだな、とよく伝わってくる。ああ、いいな、すごく、と再び思う。こういう女性は、話していて面白いから、大好きだ。趣味の面――さっきの源氏物語の話題で盛り上がれるだけでも十分すぎるほどだけれど、自分の仕事に誇りを持っていて、こうやって熱心に語れるというのは素敵なことだ。

『ああ、ごめんなさい。つい……』

 黙って聞いていたぼくに、はっ、と我に返ったように謝ってくるその顔は、少し赤くなっていた。

『いえいえ。お仕事、楽しんでらっしゃるようで、なによりです』

『ええと、小野田さんは、どういった方面が専門なんですか? 弁護士さんて、やはり得意分野があるのでしょう?』

『ああ。まだ駆け出しなもので、これが専門、というのは決めかねています。一応、今いる事務所は民事……特に金融関係が得意な先生が所長をしているんです。実は、ぼくの祖父も父も弁護士で、事務所は持っているんです。兄も、父の事務所で働いていましてね』

『え。どうして小野田さんはお父さんの事務所に入らなかったんですか?』

『ああ、外の世界を見たいっていうか……』

『なるほど』

『いろいろ見て勉強した上で、何でやっていくか、おいおい決めたいと思ってて。ただ、離婚調停だけはメインにしたくないな、と』

 ああ、と美也子さんがため息をつく。

『友達が法律事務所で秘書をしているんですけど。そこの先生、今、小野田さんがおっしゃった、離婚調停や親族間のトラブル解決を主に請け負ってるようで……もう、結婚に夢を見られなくなった、って会うたびボヤいてます』

『わかりますよ。人間の一番嫌な面を延々と見せられるかもしれない。主に、どちらかの浮気が原因で離婚する夫婦の案件だと、なおさらでしょうね。たとえば……』

 さっ、と美也子さんの表情が硬くなる。ぼくはとっさに口を噤んだ。

 やばい、何か、地雷を踏んだか?

 あ、もしかして、浮気?

 確かに、聞いて面白い話ではなかったか、と反省しながら、話題をさり気なく変える。

『すいません、つまらない話して。そうだ、美也子さん、お兄さんと二人暮らしだったんですって?』

『ええ……』

 ほっとしたように表情が緩む。

『父が田舎の診療所勤務で、母はついていったきりで。仲良く夫婦水入らずで、ちっとも実家には帰って来やしません』

『仲がいいお父さんとお母さんで結構なことですよ』

『おかげで、学問馬鹿の兄のお世話をする羽目になって、まあ、大変でした』

 はあ、と面倒くさそうにため息なんかついている。

『去年の夏前まで、博士論文の執筆にそれこそ寝食忘れて没頭してて、声かけないと部屋から一歩も出てこないわ、お風呂にも入らないわ、食事どころか水分補給すら怠る始末で。さすがに、最低限のカロリーを摂取しないと気絶する、って学んだらしくて、ブロックになってるぶどう糖を、ぽちゃん、ぽちゃん、と山ほど紅茶に放り込んで、がぶ飲みしてました。もう、頭は死ぬほどいいかもしれないけど、実はただの馬鹿なんじゃないか、と』

『あはは……それはすごい』

 さっきまでの調子に戻って、ぼくは心底ほっとしていた。

『寝ぐせついててもそのまま出かけようとするし、流行遅れのダッサダサの眼鏡を何年もずっとかけて、服にも靴にもまったくかまわないし……放っておいたら、ただの怪しい学問オタクです。あの姿のままだったら、ひとみちゃんと再会したって、絶対結婚なんてできなかったと思います。これだけは断言できます。あたしが口うるさく言って、ようやくちょっとはましに見えるかな、ってところまでになって……』

 文句を言いながらも、ずいぶん熱がこもっているな、と感心しながら眺めてしまう。なんだかんだ言いつつ、兄思いのいい妹なんだろう。そして、兄である新郎も、さっきの手厳しい言いようの根底には、仲がいいからこその気安さや軽口も含まれているのだろう、と想像する。微笑ましい兄妹愛じゃないか、と思いながら、ふと、彼女の手に視線を落とす。

 右手の小指に、小さな水色の石がついたピンキーリングをしていた。薬指ではないし、誰かからのプレゼントというわけではなさそうだ。また、爪はドレスと同じ淡いオレンジ色に塗られている。派手過ぎず、上品な色合いだ。

 気づくと、例のダサすぎる眼鏡を、博論が終わってから無理やり買い替えさせた、という話が始まっていた。

『今、お兄さんがかけていらっしゃる眼鏡ですか? なかなかおしゃれじゃないですか』

 でしょう? ひとみちゃんも、あれ、素敵だって言ってて――美也子さんは、楽しそうにしゃべり続けた。時おり相槌を打ちながら、ぼくは再び彼女を眺めた。

 ああ、やっぱりかわいい。それに、きちんと凹凸のある女性らしいシルエットも、とても好みだ。生き生きとした表情も、率直な話しぶりも、声も、なにもかもがいい。

 それに、この様子だと、少なくとも嫌われてはいないと思う。

 話が落ち着いたころを見計らって、ぼくは言ってみた。

『ねえ、美也子さん?』

『はい?』

『あなたとどこかでもう少しゆっくり話がしたい、って思うの、迷惑でしょうか?』

『え』

 見開いた目に、わずかに動揺が漂っている。ほおがうっすら赤いのはアルコールのせいだけではないだろう、と思いたい。

 少しでも、ぼくを意識してくれている、と思いたい。

『……どうして、そんなことを』

『あなたのことを、もっと知りたくて』

 さり気なく距離を詰めて、じっと目を覗き込む。すると、すっと彼女の表情が変わった――先ほど見え隠れしていた動揺が、はっきり困惑に変わった瞬間だった。

 ぼくから視線をそらさないままだった。けれど、二つの綺麗な瞳は抑えた怒りすら湛えているように見える。

 さっきまでとは打って変わって、静かな声で問うてくる。

『小野田さん、横浜に住んでるんですよね?』

『ええ。こっちの法律事務所に勤めているので』

 ですよね、とつぶやいて、ぼくから視線をそらし、ふっと小さく笑う。

『なのに、どうしてあたしにそんなこと言うんですか?』

『え?』

 彼女は、再び視線を戻してきた。どこか傷ついたような目で、焦った。

『……あたしのこと、からかってます?』

『いや、そんなつもりはこれっぽっちも』

 ぼくは首を振った。

 ちょっと待て、どうしたんだ、これは。

 なぜ、さっきの台詞がからかったことになるんだ?

『美也子さん。率直に言います。あなたがすごく気になるんです。だから、あなたのことをもっと知りたい。いや、できたらぼくと……』

 続きを遮るように、彼女はくるりと踵を返した。テーブルの隅に置かれたトレイの上に、飲み終わったカクテルのグラスを置く。

 美也子さん。

 呼びかけようとしたぼくをちらりと振り返り、彼女はきっぱりこう言った。

『遠距離恋愛なんて、ぜったい嫌』


 ほどなく、色とりどりの美しいデザートが運ばれてきた。

 様々なケーキやゼリー、プリンなどの冷たいデザート類、フルーツの盛り合わせなどが所せましとテーブルに並ぶ。午後のガーデンパーティーということで、アルコール類も含めた飲み物とデザート類中心のメニュー構成だ。といっても、種類が多くかなり豪華だ。女性の招待客を中心に嬉しそうな声があがり、さっそくテーブルに人だかりができた。

 ぼくから離れていった美也子さんは、ひとみさんの隣でケーキを食べていた。それはもう、幸せそうな顔で。楽しみだ、という言葉どおり、早々にひとつ食べ終わって、おかわりしようとしている。

 その様子を見て、ほっとする。そして食欲旺盛な姿にますます惹かれた。ダイエットを気にしてばかりいるより、食べっぷりがいい方がずっと魅力的だ。

 ああ、やっぱり、すごく好きだ。もう10回目くらいにまたそう思う。

 遠距離恋愛なんて、ぜったい嫌――言われた直後は、確かにショックだったけれど、今はむしろ少し嬉しくすらある。

 恋愛、と言った。ちらりとでも、ぼくをそういう対象として見てくれているということだ。

 諦めるつもりは、さらさらない。というか、もう、諦めるのは無理だな、とはっきり思いながら、ぼくは残っていたジントニックを飲み干した。

 テーブルからひとつケーキの乗ったプレートを手に取る。甘い物、苦手でなくてよかった、と思いながら。


 それから少しして、パーティーはお開きになった。見送ってくれる新郎新婦に挨拶して中庭から出て行く人の波に混ざりながら、美也子さんを探した。席を外していたらしく、しばらくしてようやく教会の建物から出てきた彼女を呼びとめた。

 さっきの気まずい空気などなかったかのように、努めて朗らかに話しかけた。仕事柄、こういう演技には慣れている。まあ、できれば、好きになった相手にこんな真似はしたくはないが、今はやむを得ない。

『今日は、あなたとお話しできてよかった。ありがとうございます。源氏物語の話、とても楽しかった』

『い、いえ……』

 ほっとしたのと、困惑したのが混在したような表情が浮かんでいた。

『ねえ、美也子さん。夕顔どう思います、ってさっきぼくに尋ねましたよね?』  

『ええ』

『お返しみたいで恐縮ですが……ひとつ、訊いてもいいですか?』

 面食らったような視線を受け止めながら、ぼくは用意しておいた質問をしてみる。

『朝顔の齋院さいいん、美也子さんはどう思いますか?』

 朝顔の齋院とは、光源氏の父方のいとこにあたるつれない年上の女性だ。源氏が憧れて、たびたび歌を贈るが、恋人になることはついぞなかった。賀茂神社に仕える齋院――かつて齋王いつきのみこと呼ばれていた、神事を執り行う未婚の皇女――という立場だけが理由ではない。

 言いよどむこともなく、美也子さんはさらりと言い放った。

『あたし、物語の中で一番賢かった女性だって思ってます、朝顔の齋院は』

『源氏になびかなかったから?』

『そう』

 あなただって、わかってるでしょう、とでも言わんばかりの、どこか挑むような視線を向けられていた。

『傷つかずに済んでる。愛した末に苦しんで、醜く嫉妬することもなかった。しかも、高嶺の花のまま、源氏の憧れでい続けられた。もう、最高じゃないですか』

 彼女の答えは、予想通りだった。

 恋とプライドの狭間で生霊と化すほど苦しんだ、六条御息所。正式な妻でありながら愛されなかった、葵上。自分は、ああはなるまい。心惹かれても、決して恋はするまい、あのひとにだけは――そんな決意を胸に、源氏とは清らかな友人の関係を続けた、朝顔の齋院。

 たぶん、美也子さんならそう答えるだろう、とぼくはわかっていた。わかった上で、あえて尋ねたのだ。

『齋院が源氏になびかなかったのは、数ある恋人のうちのひとり、というのが嫌だったから、でもあるのかな……この解釈、あってます?』

『まあ、そうですね』

『ねえ、美也子さん』

 ぼくは、さりげなく近づいた。一瞬、警戒したようにあとずさろうとする彼女の顔をじっと見る。

『ぼくは、源氏みたいに恋人を複数持ったりしませんよ。そもそも、そんなにモテるタイプでもない』

『……だから?』

『なびいても、傷つきっこないってことです』

 一瞬、びっくりしたように見開いた目が、すぐに、ふっ、と細くなる。何を言ってるの、このひと、とでも言わんばかりだ。

『そもそも、あたし、朝顔の齋院じゃないし。潔さからは程遠い、もっと欲にまみれて、どろどろした女です』

『そう聞いたら、もっと知りたくなりますね』

『……残念ながら、もうそんな時間はないです』

 お開きですから、とどこか勝ち誇ったように彼女が指さした先――出口で見送る新郎新婦の前を、最後の招待客数人が通り過ぎようとしている。

 ああ、またシャッターを下ろしたつもりか。あいにく、その手には乗らない。

 というか、そんな顔で――必死に何か隠そうとしているのがまるわかりなのに、精一杯強がったって、逆にこちらとしては、興味が湧くばかりなのに。

『時間なら、たっぷりあります。別に今日中にどうにかしよう、なんて焦っていませんから』

『え』

『ぼく、本当ににあなたが気に入ったんです。簡単に諦めるつもりは、さらさらありません』

 ほんの一瞬、瞳に感情の揺らぎが見えた。ただの困惑でも、わざと演出した怒りでもない、まったく素のとまどいだ。少し遅れて、うっすらほおが赤らんだのを、ぼくは見逃さなかった。

 すぐに目を伏せ、押し殺したように淡々と彼女は言い捨てた。

『……さようなら』

『ええ、今日のところは』

 では、また、とぼくはにっこり微笑んでおく。

 彼女の視線が戻ってきた。何か言いかけて、すぐに思い直したように閉じられた唇。綺麗なオレンジ色のそれを、わざと不躾にぼくはじっと見る。

 感じがよい、と誰からも言われるとびきりの営業スマイル浮かべたまま、最後に思いっきり感情をさらけ出した。

 絶対に、あなたを諦めない。

 やわらかそうな唇から二つの瞳へと視線を移す。そうやってしばしのあいだ美也子さんを見つめてから、ぼくは教会をあとにした。


 出張の準備を済ませてから、長野のガイドブック数冊をチェックした。観光客向けのものだけでなく、いわゆる地元の人に人気の店も掲載してある本もある。あの結婚式とガーデンパーティーのあと、家に帰る前に大き目の書店に寄って、すぐに買ったものだ。ラッキーなことに、長野在住のクライアントはひとみさんの他にも何人かいて、出張で出向く機会は月に何度かある。

 結婚式から、実に3週間ほど経とうとしている。すぐにでも連絡を取りたかったが、あいにく仕事が立て込んでいた。ようやく明日、出張に行く用事ができて、チャンス到来、というわけだ。

 カレーの専門店はいくつもあるが、彼女が今日食べそこなったという牛すじカレーに近いタイプ、となると候補は絞られる。待ち合わせ場所から近いところを3つほどリストアップして、地図を頭に入れておく。

 あとは、二軒目。もしも誘えそうな雰囲気だったら、少しお酒を飲めるところでも、とパラパラ本をめくる。ガーデンパーティーでの様子だと、それほどアルコールに弱くはなさそうだが、明日は平日だ。ぼくはそのまま長野に泊まる予定で、明後日の午前中に横浜に戻る。11時からのクライアントとの面会に間に合えばいいから、多少飲んでも平気だけれど、彼女が普段どういうライフスタイルなのかは、いまひとつわからない。

 ひとまず、二軒目も3つほど候補を絞った。こちらも、場所を頭に叩き込む。記憶力には自信があるが、念のためガイドブックも荷物に入れた。

 仕事そっちのけだな、と少しだけ反省して、一応、明日の午前と午後の面会の予定と場所を再度チェックし、資料に目を通す。ひとみさんの家に寄る時間があれば、渡しておきたいものがあったことを思い出した。約束はしていないが、最悪、ポストに入れておけばいい。住所を確認すると、午後に会う予定のクライアントとの待ち合わせ場所からは、そう遠くはなさそうだ。すべて準備を整えて、早めに床に就く。

 ベッドに横になって、美也子さんのことを考えた。電話のあと、大丈夫だっただろうか、と。もしかして、何か落ち込んでいたりはしないだろうか、と。

 たとえ傍にいられなくても、せめてああして電話で話すだけでも。

 今はまだそう言ってあげることしかできない自分が歯がゆい。けれど、少しずつでも、彼女の心の裡に触れることができればいい。

 少しばかり離れていても、そんなものなんの問題にもならない。

 ぼくがそう信じるように、彼女にも信じてもらう。

 遠距離恋愛なんて、ぜったい嫌――あの台詞が冗談にしかならない、そんな幸せな未来を彼女に。

 柄にもなく清らかなことばかり考えたところで、あの日のオレンジ色のワンピース姿を思い出す。すごく綺麗な脚だったなぁ、それに、全体的に程よくふっくらした身体つきも最高だった。

 潔さからは程遠い、もっと欲にまみれて、どろどろした女です―― あの言葉と相まって、つい、余計なことまで考えてしまいそうになる。そういう彼女を見てみたい。つまり、触れたいのは心の裡だけでない、ということだ。もちろん、今の段階では口が裂けても言えないが。

 健康な26歳の男としては、当然だ。そう開き直って明かりを消し、ぼくは目を閉じた。

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