第30話 Seesaw(拓弥)③
美也子さん?
ぼくの呼びかけに答えてくれることはなく、そのまま電話は切れた。
ツーッ、ツーッ、ツーッ、と受話器の向こう側からは空しい電子音がするばかりだった。
まずいこと、言ったか? 何か気に障ったのか? だとしたら、何が?
最後の会話を反芻してみながら、うーん、と考え込んでしまうものの、さっぱりわからなかった。仕方なく受話器を置いて、椅子から立ち上がる。
明日、楽しみにしてます、それじゃ、失礼します。
確かに、そう言った。社交辞令を差し引いたとしても、少なくとも、会うのを嫌だとは思っていないだろう。待ち合わせには来てくれるはずだ。
よし、ひとまず食事に誘うことはできた、とさっき電話しながら心の中でガッツポーズを取っていた浮かれ気分はどこへやら。パンパンに膨らんでいた風船が一気に萎んでしまったようだ。すとん、と再び椅子に座る。
もう一度、電話するか?
心配だ、どうしたんですか、とストレートに訊いてみるか?
よければ、相談に乗りますよ、とでも言ってみるか?
いやいや、と首を振る。さすがに図々しすぎるだろう。早く親しくなりたいのはやまやまだけれど、性急に距離を詰めようとすれば警戒されかねない。そもそも、相談に乗ろうだなんて、そこまで信頼されているわけでもないのは、ぼく自身が一番わかっている。
率直な物言いをするさっぱりした女性、という第一印象とはうらはらに、実はなかなか気難しいところがありそうだ。愛嬌のある顔立ちとか表情が実に豊なところ、それに綺麗にメイクした様子から、外向的で華やかに見えはするものの、実際、オンとオフをしっかり使い分けているのが窺えた。これは、ぼく自身も心掛けているから、なんら悪いことじゃない。むしろ、ちゃんとした大人の女性の証で、結構なことだ。
気になったのは、ふとした瞬間にさっと距離をとるところだ。何がポイントなのかは、まだわからない。せっかくいい感じで親しくなれそうかな、とか、この話題だと喜んでいるみたいだ、とか、いい雰囲気になったとぼくが思い込みそうになる矢先に、突然、すうっと離れていってしまう。
この前の結婚式の時にもそれは何度も感じた。あれ? と肩透かしを食らって困りそうになる場面もあった。
そして、今の電話もまさにそうだ。ぼくと話して少しでも元気がでたならよかった、とただそう言いたかっただけだ。なぜ、あそこで距離をとられてしまったのか。
なかなか一筋縄ではいかなさそうだ。でも、諦めるつもりはさらさらなかった。あっさり引き下がるほど、軽い気持ちで彼女に興味を持ったわけではない。
こうしていても、埒が明かない。明日の出張の準備もあるし、まずは風呂にでも入るか、と今度こそ椅子から立ち上がる。机の上の書類を片付けて、簡単にハンディモップをかける。ついでに、床にもさっとモップをかけておく。
掃除はついでに、かつ、こまめに。でないと、面倒になって、あっというまに汚れるし、散らかる。学生時代からの一人暮らしで学んだ生活の知恵だ。おかげで、ぼくの部屋はいつも整然と片付いている、急な来客にも難なく対応できる、となかなかの評判なのだった。
浴室へ向かう前に、なんとなく机の引き出しを開けて、結婚式の時の写真を取り出した。
まるで童話から抜け出してきたかのような可憐なドレス姿の年若い新婦と、今にも蕩けそうな顔でうっとり視線を向ける新郎。そして、花嫁のベールを整えるのに忙しいブライズメイド――淡いオレンジ色のワンピース姿の彼女が写っている。
ああ、やっぱり、いい。
何度も見ても、いい。
顔立ちが実に好みなのはもちろん、姿かたちもとてもいい。女性らしく健康的で、華奢すぎないところもすごくいい。
これは個人的なポイントだが、棒きれみたいな細い脚は、どうも好きではない。ふくらはぎがしっかりふっくらしている方が、見ていて安心するし美しいと思う。その点、彼女の脚は本当に綺麗だ――って、いったいどこを見てるんだ、とドン引かれそうだから、口が裂けても本人には言えない。少なくとも現時点では。ついでに、触るとやわらかそうな二の腕や、わりと大きめの胸なんかも実に好みだ――これも、まあ、絶対に本人には言えないが。
とにかく、全身からにじみ出る雰囲気が、ほんとうに好きだ。
国文学科で源氏物語を専攻していた、というのにも、大いに惹かれた。なにしろ、ぼくは学生時代に源氏物語にはまりすぎて、専門外にもかかわらずゼミを聴講させてもらっていたくらいなのだ。
そして、中庭で初めて会ったときに垣間見た、あの不思議な感性。
『手に摘みて いつしかも見む 紫の 根にかよひける 野辺の若草』
今どきの若い女性が――って、歳はぼくと4つしか変わらないけど――まさかあんなふうに和歌を口ずさむだなんて。
あれには、完全にやられてしまった。
まあ、端的に言うなら、恋に落ちた、というやつだ。
7月6日は快晴だった。
暑くはなりそうだったが、せっかくの結婚式なのだから晴れるに越したことはない。式のあとで小さなガーデンパーティーも催されるらしいから、天気に恵まれて何よりだ。着慣れないフォーマルスーツに白いネクタイを結びながら、ぼくは今日の主役である16歳の花嫁――ひとみさんのことを考えていた。
この春、勤務先である
ひとみさんはなかなか気の毒な身の上だった。9歳で両親を飛行機事故で亡くし、横浜の教会に引き取られていた。聞くところによると、亡くなったご両親は周囲の反対を押し切って駆け落ち同然で結婚したらしく、親戚とは完全に絶縁していた。そういった経緯で、残されたひとみさんは、クリスチャンだったご両親と親しくしていたラクロア神父に引き取られ、横浜に移り住んだとのことだった。
航空会社から支払われた両親二人分の賠償金、そしてかつて住んでいた長野の自宅があった土地を売却した際のお金、合わせて約1億7千万円がひとみさんの名義になっていた。さらに、両親の残した定期預金および普通預金口座のお金もすべて元所長が一括して管理を任されていた。
カトリックの神父は基本的に独身を貫く。小学生の女の子を引き取って育てる、という青天の霹靂に見舞われてラクロア神父はさぞ戸惑われたはずだ。さらに余計なお世話かもしれないが、養育費や生活費もそれなりにかかるはずだっただろうに、すべて神父が個人で負担していたようだ。つまり、元所長が管理していたふたつの金融資産には、いっさい手がついていなかったというわけだ。聖職者の鏡だな、とつくづく感心させられた。
ただ、ぼくがこの案件を引き継いだ4月時点では、当のひとみさんは横浜ではなく、函館に住んでいた。しかも、とある女子修道院に、だ。
本来、修道女になれば私有財産は持てないそうだ。となると、現在うちで管理している彼女名義の資産はどうなるのか。個人所有の資産としてはなかなかの金額だ。すぐにぼくは保護者であるラクロア神父に話を聞きに行った。
少し、待ってくれませんか、とラクロア神父は静かに言った。
6月まで、待ってください、と。
6月に一体何があるのだろう、と不思議に思いつつも言われた通り待っていると、6月に入ってわりとすぐ、突然、『実は、ひとみさんがこのたび結婚することになりました』と連絡をもらって、ぼくはわけがわからずぽかんとしてしまったのだった。
結婚?
修道院にいるんじゃなかったのか?
シスターって結婚できたのか?
しかも、まだ16歳だろう?
状況がまったくわからないまま、呼ばれて教会まで出向き、あの日ぼくは初めてひとみさんと対面した。
フラ・アンジェリコの描く天使もかくありき、というような、とてつもなく可愛らしい女の子だった。思わず見とれてしまいそうなほどの美少女は、なんと、実に約7年ぶりに初恋のひとと再会して、結婚することになったのだという。
相手は12も年上の大学の先生だ、と聞いてなんという不届きな奴か、と初めは不審に思っていたものの、後日、実際に会ってみると、いかにも学者といった雰囲気の物静かで知的な男性だった。穏やかで淡々としているのに、ひとみさんを見るときだけは、それはもう蕩けたような眼差しになる。ひとみさんも、その芹沢さんと一緒にいるととても幸せそうに微笑んでいる。つまりは、実にお似合いな二人なのだった。
『ご迷惑でなければ、ぜひ小野田さんにも式に出ていただきたくて』
ひとみさんにそう言われて、二つ返事で承諾した。もちろん、おめでたい席に立ちあえるのは光栄かつ喜ばしいし、もともとぼくはこういうイベントごとが結構好きだ。さらに言えば、人が集まる場に出向くのは、仕事の一環でもある。つまり、人脈発掘は常にしておきたい。
支度を済ませ、時間に余裕を持って家を出た。式の会場は、当然ラクロア神父の教会だ。ぼくのアパートからは電車で2駅しか離れておらず、最寄り駅で降りてゆっくり歩いたものの、昼前に着いてしまった。式は1時半からだ。
まだほかの招待客の姿もない。親族は控室にいるだろうし、新郎新婦は支度をしたり写真を撮ったりで忙しいはずだ。
さすがに早く着きすぎた。けれど、遅れるよりはましか、と思い直して、ぼくは中庭へ回った。ガーデンパーティーの会場になるらしいそこには、テーブルや椅子がすでに準備されている。広々としていて、素敵な中庭だ。教会自体も、いわゆる結婚式場ではないから、きちんとした石造りの建物で、異国の雰囲気が漂っている。
草の香りを運ぶ夏の空気は、まだ心地よいと思える時間帯だ。久しぶりにのんびりした気分で、ぼくは中庭の花を眺めていた。ハーブと思しき小さな花がそこかしこにたくさん植わっている。手入れもよくされているようだが、きっちりしすぎていないところがヨーロッパの庭のようで、素敵だ――なんて思っていると、教会の建物から光沢のある上品なオレンジ色のワンピース姿の女性が出てきて、こちらへやってくる。同じ色のハイヒールが、コツ、コツ、と乾いた音を立てていた。
髪をアップにして、服と同じ色の花のバレッタで留めている。すっきり綺麗な首筋がノースリーブのワンピースへと続く。襟元には、ピンクパールのネックレスを着けている。ピアスかイヤリングだろうと思われるおそろいの耳飾りも揺れていた。
20代の初めだろう。どことなく落ち着いた雰囲気から察するに、学生ではなさそうだ。ああ、かわいいな、とすぐに思った。ひとみさんのような整った美しさとは違うけれど、とても愛嬌のある顔立ちで、一目で気に入った。なぜか不満げに口を尖らせているのも、ぼくの目には実にチャーミングに映った。ちょうど木の陰に隠れているぼくには気づいていないようで、まったく素の姿、表情なのがまたよかった。
ふと小さくため息をつくと、ぼんやり庭の花を見ながら、その唇――やはり淡いオレンジの口紅が塗られている――が小さく動いた。
『手に摘みて いつしかも見む 紫の 根にかよひける 野辺の若草』
えっ、とぼくは一瞬耳を疑った
五、七、五、七、七。
和歌だよな、これ。
しかも、百人一首や万葉集、古今、新古今といった歌集の歌じゃない。なぜそうわかるかというと、ぼくがよく知っている歌だったからだ。
『いや、どっちかというと……』
納得できない、といった風情で、うーん、と首を傾げたその女性は、しばしのちに今度は別の歌を詠みはじめた。
『いにしへも かくやは人の 惑ひけむ……』
上の句を聞きながら、ぼくは思わず木陰から抜け出していた。そして、失礼かとは思ったけれど、勝手に下の句を口にした。
『……我がまだ知らぬ しののめの道』
ぎょっとしたようにこちらを見た彼女は、しばし呆気にとられた様子でぼくを見ていた。
やばい、不審者扱いされかねない、と焦ってとっさに言い繕った。
『確か、源氏が夕顔に宛てた歌ですよね、それ?』
『そ、そうですけど。あなたは、一体……?』
それでもあからさまに不審げにされて、思わず苦笑してしまった。確かに、突然現れて連歌のように下の句を勝手に続けたりして、失礼だったよな、と反省した。
『すみません、不躾なことをして。ぼくは、小野田拓弥といいいます。三倉ひとみさんの個人資産の管理を一任されている弁護士です』
『ひとみちゃんの?』
『ええ』
『弁護士さん……なのに、なぜ源氏物語の和歌なんてご存じなんですか?』
警戒したように問われて、まあ、そうだよな、とさらに反省する。
『好きだったんですよ、学生時代。それこそ、ゼミの聴講をするくらいに』
『じゃあ……夕顔、どう思います?』
唐突に問われて、ちょっと面食らう。なんとなく、試されているような気分で緊張した。
夕顔は、源氏の数ある恋人のひとりだ。正妻の
ひとまず、正直な考察を述べておく。
『そうですねぇ、男から見れば、可憐で儚くて、素直で流されやすい、可愛い女、ってとこでしょうか。もともとは高貴な身の上だったはずなのに、落ちぶれていた、というのもポイントなのかな。庇護欲を誘うっていうんですかね。けれど、源氏からは実はけっこうひどい扱いをされているな、とぼくは思いました。それこそ、ぞっこんに惚れ込んで足しげく通いはしたものの、本当に大事にしていたかというと、そうでもないように見えるし。特に死に方が哀れじゃないですか』
気づくと、驚いたように見つめられていた。さっきまで向けられていたあからさまに疑わしそうな視線も、多少は緩んだ気がする。
合格です、とでも言わんばかりに彼女の首が二度ほど縦に動いて、ぼくはなんだかほっとした。
『おっしゃるとおりです。思う存分二人きりで過ごしたいからって、廃屋に連れて行かれて、挙句に呪い殺される羽目になるとか……しかも、逃げてるし、源氏』
はあ、と彼女は小さくため息をついた。
『下世話なたとえで恐縮ですけど、ナンパした女の子を安いラブホに連れてって、きっちりしっかり楽しんだ挙句、うっかり死なせちゃったようなもんじゃないですか』
『あはは……うまいこと言いますね』
『なーんてことを大学1年生のときにレポートで書いたら、結構受けちゃって。でも、あとで頭の固い先生にはしっかり怒られましたけど』
なるほど、と頷いてから、尋ねてみた。
『源氏、大学で専攻されてたんですか?』
『ええ。もう小学生の時から、大好きで。あなたも……小野田さんも』
言いかけて、ああ、と首を振る仕草をした。
『弁護士をされてるってことは、法学部ですよね。でも、さっきゼミを聴講って……』
『さすがに他学科だと、ゼミには入れなくて。でも、頼み込んだら聴講する分にはかまわない、って言ってもらえて、嬉しかったなぁ。いや、専門のゼミより、楽しかったかもしれない』
『……変わったひと』
『よく言われます』
ふっ、と彼女の表情がようやく緩んだ。すうっと目を細めて微笑むのがとてもかわいい。ああ、やっぱりこのひと、すごくいいな、と再び思う。
『さっき、最初に口ずさんでらしたのって……若紫を想って源氏が詠んだ歌、ですよね?』
『え。もしかして、最初からあたしのこと見てたんですか?』
『実は。すいません、別に潜んで待ち伏せてたわけじゃないんですが』
頭を掻きながら説明しておいた。
『ずいぶん早く着きすぎてしまって。暇をもてあまして、木陰で涼みながら花を眺めていたら……あなたが教会の建物から出てくるのが見えて。ああ、かわいいひとが来たな、と思ったら、まさかの和歌の詠唱がはじまって、びっくりしてしまって』
うっすらとではあるが、彼女の顔が確かに赤らんだ。あからさますぎたか、とちらりと思いながらも、言葉が勝手に口から出てしまう。
『綺麗な色のワンピースですね。あなたによくお似合いです』
『そ、それはどうも』
『若紫……ああ、今日の新婦さん――ひとみさんは、まさに若紫みたいですよね。新郎は初恋の方だそうだし。それで、あの和歌だったんですか?』
彼女はまだうっすら赤いまま、わざとらしいため息をついて見せた。どこか照れ隠しのようで、やっぱりかわいらしい。
『あたし、その新郎の妹なんです』
『ああ、芹沢さんの』
『申し遅れました。あたし、芹沢美也子っていいます』
ゆっくり頭を下げる彼女に、ぼくも倣った。美也子さんか、見た目どおり可愛い名前だ、と思いながら。
『お会いできて光栄です、美也子さん』
ほんの一瞬、ちょっと困ったように固まってから、気を取り直したように美也子さんが続ける。
『新婦のひとみちゃん、小さいころからよく知ってるんです。義理の姉になっちゃったけど、それこそ、昔は妹みたいに思ってて。小野田さん、ひとみちゃんには会ったこと、当然ありますよね? すっごくかわいいでしょう?』
『ええ』
あなたも、とてもかわいいですけど、と付け加えたいのをひとまず飲み込んでおく。
『うちの兄、もうめろめろなんです。あたし、今の今まで、ひとみちゃんの着替えとかメイクを手伝ってたんですけど、さっき控室に兄が来て、どうなったと思います? 入ってきて、ドレス姿のひとみちゃんを見るなり、入り口で瞬きすらしないで固まってました。ひょっとしたら、息すらしてなかったかも』
『あはは……普段の芹沢さんからは想像つかないな』
『もうね、別人ですよ、ひとみちゃんの前では。完全にあたし、お邪魔虫ですよ。いたたまれないから、出てきたってわけです。それで、さっき、初めはあの歌がとっさに浮かんで……』
『なるほど。お兄さん、ひとみさんをとうとうその手に摘んだ、ってわけですか』
ええ、と頷いてから美也子さんはちょっと首を傾げて見せる。
『でも、ちょっと考えなおしちゃったんですよね。手に摘むどころか、もう完全に懐に閉じ込めて誰にも渡さない、って風情だな、なんて。完全に恋の道に迷い込んでるな、と思ったら、さっきの夕顔に贈った歌の方がふさわしいかな、なんて』
『いい歌ですよね、あれ』
思わずしみじみしてしまった。
恋の道に迷い込む。これまで経験したことのないような明け方の道。
ああ、ぼく、あなたにすでに惑ってしまいそうです、なんてうっとりしかけていたら、ねえ、小野田さん、と呼ばれた。
『はい?』
『上の句聞いただけで、よくもぱっと下の句出てきましたね。百人一首や有名な歌集の歌ならまだしも、源氏の中の和歌なんて、普通、出てきませんよ?』
『ああ。好きなので』
『え? でも、だからって……』
『好きだと、いつも心にある、っていうか』
『まあ、わかりますけど』
『美也子さんだって……普通、ひとり庭先で和歌を口ずさむ、だなんて、なかなかこんな素敵な真似、できませんよ』
すうっと綺麗な目が細くなった。といっても、微笑んでいるのではなく、どこか疑わしそうに。
『……ねえ、実は、馬鹿にしてません?』
『まさか!』
ぶんぶんぶん、と大げさに首を振ってしまった。
『すごく素敵だなぁ、って思いました。なかなかない感性だ。ぼくは好きですよ、すごく』
『え』
『それに、今日ほど源氏物語を好きでいてよかったぁ、ってしみじみ思ったことはないです』
ぼくはにっこり微笑んでおく。
『こうやって、美也子さんとお話できましたから』
気づくと、風呂に浸かってかれこれ30分以上も経っている。頭がなんだかぼうっとしてきた。やばい、そろそろ出ないと本気でのぼせる。いや、もうすっかり思い出に浸ってのぼせあがってるだろ、と自らツッコミながら、浴槽から出た。
バスタオルで身体を拭きながら、脳裏にはあのときの彼女の表情がはっきり蘇っていた。絶句して、はっきり顔を赤くして、すうっとぼくから目を逸らしながら何か言いたげに唇が開きかけ――でも、結局、言葉は出てこなくて、再び目が合うと、ちょっと怒ったような顔になっていたっけ。
口がうまいですね、さすがは弁護士さん。
それだけ言うとくるりと背を向け、そのまま教会の方へと戻って行ってしまった。
不思議と妙に可愛げがあるというか、いや、端的に言えばものすごくかわいいと思えてしまった。一見、拒絶のシャッターを下ろしたようでいて、実はそうではないのは明らかだった。怒ったような顔も、精一杯の虚勢のようで愛おしく思えるほどだった。
やばいな、と後ろ姿をぼんやり見送りながらあのときぼくは思った。
すっかり、しっかり落ちそうだ。というか、もう落ちてるか。
恋だな、これは。
なんだか苦しいのに、幸せだ――なんて、あの日はそう思っていた。
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