第9話 聡史

 真っすぐな眼差しを向けられて、鼓動が速度を増すのがわかった。昔と変わらず、くりっと大きな目、そして長いまつげ。とても可愛らしいのに、今はなぜか真剣に僕を見つめている。

 落ち着け、と自分に言い聞かせる。

 やっぱり夢だろう、ともう10回目くらいにまた思う。自分の都合のいいように作り上げている、身勝手な夢なのでは、と。

 むかし可愛がっていたお隣の小さな子が、この世のものとは思えないほど綺麗になって目の前に現れて、しかも自分に告白めいた言葉をかけてくる、だなんて。

 まあ、お互い様か、とさっきの自分の台詞を思い出して今さらながらに気恥ずかしくなった。

 取り繕う言葉など思いつけないまま、僕は正直に答えた。

「嬉しいよ、そんなふうに言ってくれて」

「わたしも嬉しい」

「え? なにが?」

「さっき言ってくれたこと」

 ひとみちゃんの髪に触れていた僕の手が、そのままゆっくり胸の前でひとみちゃんの両手に包み込まれた。

「もう一回言ってくれたら、もっと嬉しいな。言ってくれる?」

 こんなに可愛い女の子に真剣にお願いされて、断れる男がいるわけがない。

「ひとみちゃんがあまりに綺麗だから……今日は、読書は無理だよ」

 さすがに、こうやってせがまれて繰り返すのは恥ずかしいものだ。なんだか気まずくて笑ってごまかすと、ふふふ、とひとみちゃんも笑う。

 でも、次の瞬間、その笑顔が曇った。目を伏せ、ぽつりと言う。

「でもね、わたし、花嫁になるの」

「え?」

「神様の。だから……」

「ちょっ……ちょっと待って」

 僕は思わず遮った。

「神様の花嫁って……もしかして、シスターに?」

「うん。函館に戻ったら、有期誓願に入るの。だから……」

 有期誓願。教会史を専門にしている僕にとっては、なんの問題もなく理解できる言葉だ。

 結婚せず、私有財産を持たず、院長の命令には従順に従う。3つの誓いを立て、3年から9年にわたって守り通す。そののち、終生誓願をして一生修道院で暮らすこととなる。

 これから有期誓願、ということは、見習いの修練女としてすでに一定の期間を修道院で過ごしたということか。

 函館といえば、有名な女子修道院がある。『祈り、働け』をモットーとする厳律シトー会系列の修道院だ。日本にある修道院の中でも戒律は厳しい。相当な覚悟がなければ入れない。そして、俗世との絆を断ち切りたいと願うよほどの理由がなければ、修練女の期間を全うすることは難しかったはずだ。

 両親の死が彼女に与えた影響は、やはり想像を絶するほど大きかった。そして、信仰に安らぎを求めようとする流れは、やはり止めようがなかった。救いを求めて重い扉の向こう側で暮らす選択に至るまでの苦しみを思うと、胸が痛む。

 もしもそれが心からの願いなら、僕に止める権利はない。けれど、本当にこのまま完全にこの世界に別れを告げるつもりなのだろうか。僕には、とてもそうは思えなかった。

「ひとみちゃん。本当に、それでいいの?」

 僕の手に触れていたひとみちゃんの手を、両手でぎゅっと握った。

「君のご両親はクリスチャンだった。それは僕も知ってる。亡くなったご両親の遺志を継いでシスターになりたいというのなら……」

「違う、違うの。そんなんじゃないの」

 さっきまでとは打って変わって大きな声で、僕は驚いた。激しく首を振ったひとみちゃんは、そのまま俯いてしまった。

 ふわふわのくせ毛から見え隠れする耳元に、淡い光がぼんやり灯る。まるで耳飾りのような蛍の光に、ふっくらした耳朶が白く照らされていた。

 ややあって、小さな声が続いた。

「……やすらかで真っ白になりたかった」

「ひとみちゃん……」

「そうするしか、なかったから」

 やすらかで真っ白になりたかった。

 言葉の裏に隠された静かな狂気を思って、僕はいたたまれなくなった。たったひとりで狂気に囚われていたひとみちゃんが哀れでならない。傍にいられなかった自分が呪わしい。

 蛍はふわりふわりと相変わらず辺りを漂っていた。ワンピースの襟元へと続く華奢な首筋が、夜目にもはっきり浮かび上がる。鎖骨の辺りに小さなほくろがあるのが見えて、あわてて目をそらす。

 小さくて柔らかなひとみちゃんの手を、今度はいたわるようにそっとなでる。指先が少し冷たかった。

 ひとみちゃんは顔を上げ、再び僕を真っすぐに見た。黒目がちの大きな瞳が、僕を見つめていた。

「好きなひとに二度と会えないなら、そうするしかないと思ったの」

 好きなひと。はっきりそう口にしたひとみちゃんは、視線をそらさずじっと僕を見ていた。

 身勝手な夢ではない。もう、それははっきりしている。

 落ち着け、とさっきのように言い聞かせるまでもなく、静かな声が出た。

「でも、こうして僕たち会えたね」

「……うん」

「また、会えたんだよ。だからもう、いいんだ。やすらかで真っ白にならなくても、いいんだよ」

「うん、うん」

「ねえ、ひとみちゃんは、どうしたい?」

 僕が見つめる先で、大きな瞳にうっすら涙が浮かびかけていた。唇が引き結ばれ、かすかに震えていた。

「……にいたい」

「え?」

「傍にいたい。聡史くんの傍に」

 とうとうあふれた涙がほおを伝う。僕はそっとひとみちゃんを抱き寄せた。

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