第8話 ひとみ

 夕飯のあと、すぐにピアノの蓋を開いた。お風呂に入ったら、とお母さんに言われたけれど、すぐ練習したかった。窓を少し開けて塀の向こうを見ると、二階の左側の部屋に明かりが点いている。なんだかほっとして、ピアノに向かう。

 少し前から練習しているメヌエットは、それほど難しくないけれどとてもきれいな曲だ。できたらここのトリルを入れてごらん、と先生に言われたところを楽譜で確認した。最初、難しくて省いていたのだった。

 何度か指を動かしていると、慣れてきた。トリルが入ると、ちょっとかっこいい感じになる。

 うん、できそうだ、と思って楽譜の先頭に目を移した。そして、はじめから通して弾き始める前にちらりと窓を外を見ると、二階の左側の部屋の窓も少し開いていた。

 聡史くん、聞いてくれるかな。でも、勉強の邪魔にならないといいんだけど。

『ピアノを聴きながら勉強するよ。今ひとみちゃんが練習してる曲、好きだから』

 公園で聞いた言葉を思い出した。そして、聡史くんのことを――バッハが好きだ、と言った聡史くんのことを考えながら、メヌエットを弾き始めた。

 膝を折ってわたしの前に屈んでくれたとき、聡史くんの顔が茜色に染まっていた。

 眼鏡の奥で、すうっと目が細くなった。

『好きだよ』

 バッハが、じゃなくて、ただその言葉をもう一度言ってほしかった。

 なぜなら、わたしはあのとき、恋に落ちたから。


「ん……」

 ピアノを弾いていたはずなのに、なぜわたしは横になっているんだろう。こんな格好でピアノを弾けるはずがないのに。それに、肩が少し痛い。身体の下が、なぜか硬い。

 せせらぎが耳に心地いい。ということは、ここは外なんだ、と今更ながらに思い出す。そうだ、川辺だ。ここは、川辺のベンチだ。

 ゆっくり目を開くと、とても懐かしい気分になった。ひとりではないことに驚いて、でも、すぐにひどく安心した。こんなふうに目が覚めて、傍に誰かがいるのはずいぶん久しぶりだった。しかも、そのひとの膝の上には本がある。分厚くて、難しそうな本が。

 気づくと、まるで当たり前みたいに、何の疑問も持たずにわたしは呼びかけていた。

「聡史くん?」

「おはよう、ひとみちゃん」

 同じように、まるで当たり前みたいに懐かしい声が降ってきた。

 膝の上の本を閉じて微笑んだそのひとは、間違いなく聡史くんだった。少し髪型が変わっているし、顔もずいぶん大人っぽくなっているけれど、でも、聡史くんだった。

 なんて幸せな目覚めなんだろう。いや、もしかしたら、まだ夢なのかもしれない。だとしたら、すごく幸せな夢だ。このままずっと覚めないでほしいくらいに。

 草の香をのせて、心地いい風が吹いている。辺りが暗いのを除けば、あの頃と何も変わらない気がする。

 ピクニックに来てもずっと本を読んでいた聡史くんと、その隣でうたたねをするわたし。 

 隣でわたしを見下ろす聡史くんに、訊いてみる。

「風が気持ちいいから、読書、はかどるんだよね?」

「いや、今日は無理かもしれない」

 聡史くんは静かに言った。

「どうして?」

 不思議に思って問いかけると、そっと手が伸びてきてわたしの髪に触れた。

「……ひとみちゃんが、あまりに綺麗だから」

 とても遠慮がちに、おずおずと聡史くんの手が髪を梳いてくれる。すごく素敵なしぐさで、なんだかうっとりした。

「夢なのかと思った。でも、夢じゃないみたいだ。こうして触れても消えない」

 安心した、と聡史くんは何度も何度もわたしの髪をなでてくれる。

 聡史くんの声なのに、聡史くんじゃないみたいなことを言う。しかも、その顔はずいぶん真剣だ。

 ふわり、ふわりと漂う小さな明かり。蛍の優しい光が照らす夕闇の中、眼鏡の奥の聡史くんの眼差しが、まっすぐわたしに注がれていた。

 昔から、聡史くんはいつだって真面目だった。頭がよくて、いつも難しそうな本を読んでいて、たくさん勉強をしていた。

 横顔を見ているのが好きだった。言葉を選びながら丁寧に話してくれるのを見ているのが、聞いているのが好きだった。

 でも、こんなに傍でじっと見つめられたのは初めてだ。わたしを見てくれている。わたしだけを。そして、こうやって優しく髪をなでてくれている。それが嬉しい。そして、なんだかドキドキする。

「わたしも夢かと思った。でも、夢じゃないんだね」

「うん」

「夢じゃなくてよかった。目が覚めて、聡史くんがいてくれてすごく嬉しかった」

「目が覚めてひとりだと、寂しいよね。誰かが傍にいると……」

 わたしは起き上がった。髪を梳いてくれている聡史くんの手に、そっと自分の手を重ねた。

「誰か、じゃなくて、聡史くんがいいの」

「ひとみちゃん……」

「聡史くんがいてくれるから、安心するんだよ」

 昔から、ずっとそうだった。ずっと、ずっと。

 今ようやく言葉にできた。

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