第2話 耽美主義
「矢冨公園」
を設計し、約2年くらいで出来上がったのだが、その場所は、元々、あるゼネコンが、「自社ビルを建設する」
ということで計画していた場所であった。
しかし、その計画が、建設のためと考えて前もって手配していた下請け会社が、
「不当たりを出した」
ということで、
「工事を請け負うことができない」
ということになり、結局、
「ビル建設」
という計画自体が、暗礁に乗り上げてしまった。
そうこうしているうちに、下請け会社が破綻してしまったということで、他の会社から吸収合併されたのであった。
しかし、これは間が悪いことに、その吸収合併した会社というのが、工事を計画していた会社と、ライバル会社だったのだ。
そのために、その会社を下請けにしようとしていた計画すら、まったく白紙になってしまったのだ。
「今から、他の下請けを探すわけにもいかない」
ということで、ビル建設を諦めざるをえなくなり。結果、
「土地を売却する」
ということになった。
ちょうど、
「公園建設をもくろんでいた」
という市とすれば、
「その土地が売りに出されている」
ということで、買い上げに成功したというわけであった。
ちょうど、まわりの公園となっているところを、
「中心街改造計画」
という中にあることで、
「元からあった公園を潰して。ビルにする」
ということが決定したことで、ちょうど、公園になるようないい土地というものを求めて、物色しているところだったのだ。
しかも、その場所は、元々公園があったところよりも、駅に近く、ビルを四方に囲まれていることで、
「ビルの中庭」
といってもいいところで、ただ一つは、
「日当たりが若干悪くなる」
というのが欠点だということであったが、それも、すぐ近くに、
「地下街の入り口がある」
という利点があることで、補えると市は考えたのだった。
その計画を請け負ったのが、佐久間教授の大学で、
「佐久間教授のデビューとしてはふさわしい」
ということになったのだ。
それを聴いて、佐久間教授も、
「相手にとって不足なし」
と考えたのか。彼なりの工夫というものが、公園設計に、かなり生かされたようだった。
彼は最初に、
「ここでは日当たりが悪い」
ということは見抜いていた。
他の設計には、それほど苦労はないということで。まず最初に、
「日当たり問題から取り掛かる」
ということで、
「少しでも、日当たりがいいように」
という計画を立てたのだった。
さすがに、佐久間教授が、今まで自分の頭の中で温めていた、いろいろな草案というものがあり、今回の、
「日当たり問題」
というのも、
「彼の草案の中にあった」
ということで、それ以降の計画もうまく出来上がり、市の方からも、
「これは素晴らしい」
ということで工事に入ったのだ。
「見えないところに工夫が施されている」
ということであったが、見えるところにも、その効果てきめんなところがあった。
それが、
「芝生を使ったもの」
ということであり、前述のように、
「芝生を張り巡らせ、森を作らない」
ということを基本に作るようにしたのだ・
それが、この街の、
「モデルコース」
ということになった。
それから、この街で、
「老朽化による、大規模整備」
を行っている時、
「なるべく、木や林を植えない」
という設計になっていた。
場所によっては、芝生ではなく、
「花時計」
というものを作ることで、
「花壇の様相を呈している」
ということで、光が当たるきれいな公園が出来上がった。
その時、そばには小さな噴水を作ることで、
「夏の暑さをしのぐ」
ということも計算されていた。
花には新鮮な水が絶えず当たるということになり、公園の中心部に大きな噴水と作るよりも、
「花との共存」
という形での、
「明るく広々とした公園」
というものを作り出していたのであった。
それが、結局、
「まわりをビルに囲まれた場所であったとしても、光が当たるがごとく、ビルから見下ろしても、ビルを見上げても、生命の源といってもいい明るさに満たされた公園」
ということになるのであった。
そんな公園が、全国でも話題となり、
「K市の公園は、他の自治体でもモデルコース」
ということで、手始めに、
「県下では、K市をモデルに」
という県からのお達しがあり、
「人口20万人以上の市には、少なくとも一つは、これに似合った公園を作る」
ということになったのだ。
「県下で、人口20万以上の市というと、5つである」
ということで、佐久間教授が、その設計を担うことになったのだ。
もちろん、K市においても、
「この矢富公園をモデルとした公園をあと2つは作る」
ということになった。
K市というのは、県庁所在地ではないが、県下では、
「県庁所在地に次ぐ第二の都市」
ということである。
そもそも、大都市が隣接しているところで、
「K市へのベッドタウンとすれば、少し遠い」
というところであったので、
「市町村合併ということが叶えば、かなり潤うのに」
ということで、
「人口が多い街の4つが合併するだけで、政令指定都市になりえる」
ということであったが、そのうちの一つの市が、かたくなに拒否していたのだ。
しかし、
「バブル崩壊」
の折りに、それまで、
「工場の誘致」
によって、潤っていた市の財政が、
「工場の撤廃」
というのが、複数起こったことで、市の財政が立ち行かなくなった。
「しょうがない」
ということで、他の市が勧告したように、
「市町村合併するしかない」
ということで、今のK市が出来上がったのだ。
K市の面積の半分を持っていた、元々反対していた市とすれば、
「何とか、一つの行政区を持つことができる」
という妥協で、何とか、K市が出来上がったということだ。
とはいえ、財政逼迫ということでの合併だったので、それほど大きなことが言えるわけもなく、公園建設についても、しょうがないことになったのであった。
それが、K市の、?区というところであったが、この?区では最近、
「芸術的な街」
ということで、生まれ変わっていたのだった。
元々、住宅地というには、
「人が住める範囲が少ない」
というところであった。
というのも、山間部が多く、
「山を切り開くには、予算がない」
ということで、交通の便のいいところは、住宅街に生まれ変わることができたが、どうしても、山間部に行くと、そこは、森や林というのが、乱立していて、
「開拓するには、難しい」
ということであった。
「それならば」
ということで、大きな池があるところを切り開いて、
「湖畔のペンション群にしよう」
という計画があった。
バブル崩壊」
というものから、すでに、20年以上が経っているので、さすがに、
「工場誘致」
というものは、交通の便から考えても、難しかった。
かといって、
「郊外型のスーパー」
などを誘致するというのは、無理があった。
というのも、
「駅から遠すぎるので、公共交通機関からくる人の集客が難しい」
ということで、こちらも、
「一度計画はしたが、うまくできるものではない」
ということになったのだ。
ちょうどいいことに、
「この湖畔を買いたい」
という、
「開発会社」
が現れて、しかも、
「開拓するのに、幾分かの費用を持つ」
ということだったので、市とすれば、
「願ったり叶ったり」
ということで、二つ返事で了承したのだった。
設計はもちろん、佐久間教授が担うことになった。
「今までは、都心部ばかりだったので、郊外は大丈夫か?」
という話もあったが、元々、公園の設計で、准教授時代からその力を発揮したというのは、
「郊外型の公園だった」
ということであった。
だから、佐久間教授にとっては、
「飛んで火にいる夏の虫」
という状態だといってもいいだろう。
「今回の計画は、チームで行おう」
と佐久間教授の考えだった。
「これからの公園は、郊外の方が需要があるかも知れない」
と、佐久間教授は思っていた。
何といっても、会社にしても、住宅にしても、ドーナツ化というものが巻き起こっていた時代から考えていたことだった。
要するに、
「郊外が、一つの大きな街になる」
という考えだったのだ。
「郊外を娯楽だけのために使うのはもったいない」
という考えで、
「かねてから、郊外に人が流出しているということもあって、いまさら都心部を開発する時代でもない」
といっていた。
にも関わらず、
「矢富公園のようなところを開発するのは、理屈に合っていない」
といえるのだろうが、佐久間教授としては、別の考えがあるようだった。
「公園というものが、都心部でいらなくなる時代は、まだまだ先だ」
と考えていた。
それよりも、
「都心部は今はまだ見えていないが、別の形で生まれ変わることになるだろうが、その中心に公園というものができていないといけない」
と考えていた。
「都心部を、かつての閑散地帯のようにすることで、ただでさえ、家賃の高さから、郊外に企業が事務所を移すことを考えると、それに見合うだけのものを売り物として考えなければいけない。つまり、家賃が取れるだけの土地ということにする必要がある」
ということであった。
それには、
「インフラが整っている」
ということを武器に、考えることができるのが強みだと思っていたのである。
?区の計画を佐久間教授が考え始めた頃、矢富公園で奇怪な殺人事件が起こった。
季節は飽きが深まっていた頃で、文字通り、
「秋のない年」
という言葉が似合っているような、
「冬の到来を感じさせるような木枯らしが吹き荒れる頃」
のことだった。
「この間まで、南方の海では、台風が発生したなどといっていたのにな」
と噂する人がいるくらいで、この年は、気象庁の記録といってもいいくらいに、台風の発生数は多かった。
それでも、日本に上陸する台風は、それほどなかった。
それだけ日本が暑かったということで、台風を近づけないほどの猛暑が、夏の時期には日本列島を覆っていたといってもいいだろう。
「太平洋高気圧の猛威はすごいものだ」
と思っていたが、台風除けになるということは、ある意味よかった。
夏が到来する前の、梅雨の末期には、最近は毎年のように、水害に襲われる。この年も例外に漏れず、全国各地で、水害に見舞われた。
「線状降水帯」
なるものが発生し、被害をもたらすのだが、この発生を予知することは、今の気象庁の力では、ほぼ無理だということで、なかなか被害を食い止めるのも難しかった。
ここ数年の間に起こってきたことなので、気象庁も、そろそろ予知日必要なデータがそろっているのではないかと考えられるが、今のところ、
「予知することは難しい」
ということだった。
そういう意味でも、夏の台風の被害が少ないことは、幸いだったとしかいえないのであろう。
矢富公園では、普段は夜になると薄暗くなり、公園としての機能は、
「昼間だけ」
といってもよかった。
何といっても、
「オフィスビル街の中庭」
といってもいいくらいなだけに、普段は夜は静寂に包まれていた。
しかし、年末のイルミネーションは、この矢富公園にもあるようで、普段は日暮れとともに、その役目を終えるといってもよかったが、年末は、11月からイルミネーションが鮮やかなので、まるで、夏祭りの様相を呈しているかのようだった。
だが、イルミネーションがいくらついているからといって、夜、いきなり賑わうというわけではない。何といっても、寒さが募っているので、いくら明るいといっても、その場所に長居をするのは無駄なことだと思っていることだろう。
せめて、公園内を通って、駅に向かうという程度で、立ち止まったり、ベンチに座る人というのも、少ないのではないだろうか・
それでも、11月の頭くらいは、
「そろそろ年末だな。これから繁忙期で忙しくなる」
ということを考えながら、ベンチで一休みする人もいる。
そんな人は、誰かと一緒にいるということもなく、一人で、物思いにふけるという人ばかりではないだろうか?
「仕事に疲れて一休みする」
ということか、それとも、
「電車の時間調整に使う」
という人かのどちらかであろう。
もちろん、電車の時間に合わせて会社を出ればいいのだろうが、
「仕事が終わったのに、会社の中にいたくない」
と思っている人は、時間を気にせずに、会社を後にすることだろう。
結局、駅に行かなければいけないわけだが、駅にいっても、サラリーマンがうろうろしているのを見るだけのことで、
「会社にいるよりはまし」
というだけで、駅にいても、何も楽しくないと思うのではないだろうか>
「見えるのはサラリーマンばかり」
もちろん、学生もたくさんいるのだが、自分がサラリーマンであれば、サラリーマンにしか目が行かない。学生であれば、目が行くのは学生ばかりということで。同じ場所にいても、立場が違えば、その光景はまったく違ったイメージで映ることであろう。
夕方の時間帯など、学生であれば、
「この時間でもまだ学生が多いというのは、これから遊びにいく人と、遊びから帰る人とが、行きかう時間になっているのではないか?」
と考えるからで、サラリーマンであれば、
「ちょうど、帰宅ラッシュの時間帯だ」
と思う。
中には飲みにいく人も多いのだろうが、どの人がこれから飲みに行くというのか、なかなか判断がつかないと思う人も多いだろう。
ただ、11月になって、イルミネーションが明々と照らされるのを見ると、
「皆、これから飲みにいくように見えて、不思議な感じがする」
というものであった。
駅前ともなると、いろいろなイベントをやっている。午後5時くらいから、西洋屋台のようなものが出ていて、駅前広場の奥にはステージができていて、西洋の音楽が奏でられていたりする。
この街は、北欧あたりの文化が多いのか、ロシア料理や北欧の民芸品などが、多く売られているのであった。
ただそれも、駅前のステージ付近だけのことで、駅周辺の公園に施されたるみネーションの近くで、イベントが行われることは、少なかった。せめて、
「歓楽街近くの公園で行われる程度」
ということだったのだ。
だから、矢冨公園だったり、駅周辺のオフィス街に隣接した公園では、明るいだけで、賑やかさはなかった。それでも、残業しているビルのテナント会社から見下ろせば、イルミネーションがきれいに見えるということで、それなりの憩いの気分になるのであった。
矢冨公園を見下ろすビルに勤務している、須藤純一郎は、その日、少し体調が悪く、早退したのだった。
「インフルエンザも流行しているので、風邪をこじらさないようにしてくれよ」
と、部長からくぎを刺されたが、部長とすれば、
「まあ、しょうがない」
ということで、早退を認めてくれた。
この時期、これから忙しくなるということで、今の時期であれば、まだそれほど体制に影響はしないと思ったのだろう。
須藤としても、部長が考えていることは分かっていた。分かっているからこそ、
「反対されることはない」
とタカをくくって、言ったのだった。
もし、これで渋るくらいであれば、それこそ、パワハラだといってもいい。
まさか今の時代に、
「根性論」
というものをひけらかす、
「昭和時代の考えを持った」
という人はいないだろうから、もし、渋ったとしても、それは、
「上司としての、形式的な態度だ」
といってもいいのではないだろうか?
「本当は、ちょっと熱っぽいだけで、残業をやってやれないこともない」
と思っていたのだが、気分が悪くなった原因としては、
「そろそろ日が暮れそうな時間。仕事は終わってはいなかったが、一段落したことで、気分転換に、矢冨公園を見下ろしてみよう」
と思ったのだ。
その時は、まだ頭痛も熱っぽさもあったわけではなく、ただ、けだるさだけがあったのだ。
そのけだるさというのも、
「仕事の疲れと、ある程度までできたという満足感」
といえるような心地よさを含んだものというのが今までの感覚だったが、この日は、寒気を最初から感じたのだ。
「何かおかしい」
とは思っていた。
しかし、そのおかしさというものが、普段と違うと感じたのは、矢冨公園を見下ろした時に感じた、ゾッとするような寒気だったのだ。
そもそも、須藤は、高所恐怖症なところがあった。体調が悪くない時でも、気分転換といって、矢冨公園を見下ろした時、高所恐怖症独特のゾッとする感覚があった。
しかし、それは、別に嫌な感覚ということではなく、充実感というものを、さらに感じさせるという意味で、むしろ、
「刺激的で、気分転換という意味ではちょうどいい」
というものであった。
ただ、友達の中には、
「怖がりなのに、お化け屋敷とか、入りたいと思うんだよな」
といっている人がいた。
須藤としては、
「何がそんな気持ちにさせるんだ?」
と疑問に感じていたが、結構まわりの人に多いようだった。
「怖いもの見たさ」
というのは、よく聞いた言葉であったが、その心境は、須藤には分かるわけもなく、ただ、そんな話を聞いた時、
「そんなものなんだな」
と、他人事であるということをわざと表に出して、同調して見せるのだった。
だが、矢冨公園が整備され、公園が、
「中庭」
という様相を呈しているということに気づくと、それまで忘れていた高所恐怖症という感覚がよみがえってきたのだった。
「高所恐怖症の感覚は、なるべく感じたくはない」
と思っていたところで、矢冨公園ができるまでは、最初から元々更地だったところを意識するなどということはなかったのだ。
だが、そこが、
「中庭」
の様相を呈した公園というものに生まれ変わると、好奇心から一度見てみると、最初には、
「見るんじゃなかった」
という後悔の念が現れた。
しかし、その後悔の念がすぐに消えてなくなり、本来であれば、
「二度と見たくない」
と思ったのが、その、
「後悔の念」
というものを、忘れたとはいえ、一度は味わったということで、もう感じたくないという思いだったのを思えば、無意識であったが、またしても見てしまうというのは、その時の感覚が、
「好奇心だ」
というわけではないと思うのだった。
「じゃあ、好奇心でないとすれば、何なんだ?」
と自問自答を繰り返す。
その光景を、
「高所恐怖症によるもの」
と認識していないのだろうか?
それとも、
「高所恐怖症を克服できるかも知れない」
という期待に満ちた感覚が、怖さに勝つ形で、見せようというのか?」
あるいは、
「まったく今までと違った、感じたことのない感覚を覚えたことで、その正体を確かめたい」
と感じたからなのだろうか?
それぞれに、感覚的な一長一短があり、その感覚の正体が、なかなか分からないでいた。
それを確かめたいという思いがあるのは正直なところで、別に嫌だという感覚ではなかったのだ。
だが、その日の頭痛は、
「確かに、風邪の引き始め」
という感覚に違いないが、それ以外に、もう一つなつかしさというものを誘発する感覚があったのだ。
その感覚は、
「味わいたい」
と思う感覚ではなく、風邪でゾッとしている身体を、
「視界からも誘発させるもの」
というものだったのだ。
そこまで感じると、
「高所恐怖症の感覚」
と思わせた。
「風邪の気持ち悪さが、同じゾッと来る寒気を思い出させたのに違いない」
と感じたのであった。
そして、その時同時に感じたのは、
「この頭痛と吐き気が学生時代に感じたものだ」
と思うと、
「学生時代の感覚が思い出される気がする」
というものであった。
あれは、友達が個人で計画していた、
「自主製作映画」
というものに誘われた時だった。
「裏方でいいなら参加する」
とは言っておいた。
その友達は、監督と脚本を担っていたので、須藤は、
「じゃあ、カメラマンでもしようか?」
ということになった。
ドラマを見る時、カメラワークを気にして見ることがあったので、ちょうどよかったと感じたのであった。
友達は、大学から予算をもらったわけではなく、完全なオリジナル作品だった。
バイトもそのために行っていたのであり、道具だけは、大学から借りられるということで、
「何とか、予算内でこなせる作品を作るんだ」
ということであった。
彼の作品は、ミステリーとホラーの融合のような作品であった。
「俺の作品は、昔の探偵小説と、オカルトを組み合わせたようなものが多くてね」
ということで、彼はそもそも、小説家を目指していたのだ。
この時の、
「自主製作映画」
というのは、彼の執筆した小説を、自らでシナリオ化し、
「映像作品に仕上げよう」
というものであった。
彼が書いた、
「探偵小説」
というものは、彼がいうには、
「昔、ちょうど、戦前戦後くらいに流行ったものになるんだよ」
ということであった。
確かにその頃は、
「探偵小説の黎明期」
と呼ばれている時期で、そもそも、探偵小説というのは、欧州でできて、日本に入ってきたものだ。
ということであった。
ただ、その時代には、あらかたのトリックのようなものは出尽くしていて、
「後はバリエーションの問題」
と言われるくらいまで、
「完成度の高い作品も結構あった」
と言われている。
実際に、探偵小説というものを分類する、
「作家兼文学研究家」
と呼ばれる作家先生がいて、その人が提唱したものに、
「本格派探偵小説」
と
「変格派探偵小説」
と呼ばれるものがあったのだ。
「本格派探偵小説」
というのは、
「利発な探偵や捜査官が、犯人が考えたトリックを鮮やかに解き明かし、切れ味鋭い推理力で、事件を解決する」
というストーリーであった。
「変格探偵小説」
というのは、
「それ以外」
という、曖昧な言われ方であったが、当時としては、
「異常性癖」
であったり、
「猟奇殺人」
などと言われるものが多かった。
そして、明治後半くらいから言われるようになった作品の中に、
「耽美主義的な作品」
というものが現れてきて、それも一つの、
「変格派探偵小説」
と言われるようになったのであった。
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