第3話 飛び込んできたスキャンダル

 戎橋えびすばし筋商店街から横道に入り、少し行ったところに目的の日本酒バーはあった。表から見るとこぢんまりとしている様に見える。ブラウンの木製の片開き戸をゆずちゃんが開け、ためらいも無く入って行く。千歳ちとせも続いた。


「いらっしゃいませ」


 店員さんと思しき品の良い男性の声が響く。店内はバーらしく照明がやんわりと落とされ、壁やテーブルなどはドアと同じブラウンの木製に統一されている。


 広さは思った以上にあって、ドアから向かって左側にはカウンタ席が数席に、左側の壁際にはいくつかテーブル席があった。席の埋まり具合は半分ほど。やはりバーにはまだ早い時間帯なのだろう。


「カウンタとテーブル、どちらになさいますか?」


 ギャルソン姿の男性の店員さんが聞いてくれ、ゆずちゃんはテーブルを選んだ。千歳たちは案内されたテーブルに向かい、スツールに腰を降ろす。


「落ち着くお店やね」


 千歳がきょろりと店内を見渡しながら言うと、ゆずちゃんが「せやろ?」と得意げになった。


 バーという特性からか、他のお客さんのしゃべり声も控えめである。千歳たちも自然と声を落とした。ふたりの距離が近いのだから、会話をするには充分だ。


 店員さんがおしながきと温かいおしぼり、お冷が入ったタンブラーを持ってきてくれた。チェイサーの意味合いだろう。


「ここ、チェイサーに仕込み水使ってくれんねん」


「え、完璧やん」


 仕込み水は日本酒を醸造するときに使われるお水で、普通のお水よりも酔いづらいという特徴がある。こうした心遣いも日本酒バーならではだろう。


 千歳たちは店員さんが一礼して去ると、さっそく冊子状になったおしながきを開く。B5サイズで、シックなダークグリーンの表紙だ。最初に日本酒以外のお酒とソフトドリンクの一覧があり、次をめくると北海道を皮切りに、地域別にずらりと日本酒の銘柄が並んでいた。


「わ、めっちゃある」


 千歳が目を丸くしてわくわく声を上げると、またゆずちゃんは「せやろ?」と軽く胸を貼る。


「どんな味わいかも書いてくれてるから、前来たときもそれ読んで頼んだりしてん」


「へぇ」


 大阪はどうだろうか、と千歳はぱらぱらとページをめくる。すると秋鹿あきしか呉春ごしゅん片野桜かたのさくら緑川みどりかわ千利休せんのりきゅうなど、たくさんの酒蔵の銘柄があった。


「すごい、大阪のお酒、めっちゃあるやん。これ全部なんかな」


「吟醸とか純米とかいろいろあるから、その辺の網羅はさすがに難しいやろうけど、何や嬉しいよねぇ、大阪人の血っちゅうんかな」


「ほんまやね」


 たくさんありすぎて迷ってしまう。悩みに悩んで、千歳は秋田県の地酒「角右衛門かくえもん 純米吟醸 一穂積いちほづみ」、ゆずちゃんは岐阜県の「百十郎ひゃくじゅうろう 純米大吟醸 黒面くろづら」を頼んだ。


 角右衛門は木村きむら酒造さんが醸す日本酒だ。一穂積は穏やかなフルーツの様な香りと、すっきりとした味わいが特徴なのだそうだ。少し酸味もあるらしい。


 百十郎ははやし本店さんが醸造する。ほのかな甘みと上品な酸味、爽やかさを擁する日本酒であるそうだ。


 肴にクリームチーズの酒粕漬けと、燻製ミックスナッツを頼んだ。


 全てが揃い、千歳たちはあらためて乾杯をする。卵の様な丸みのある透明なグラスを軽く重ね合わせた。千歳は舐める様にグラスに口をつける。


「ん、飲みやすい。ほんまにすっきりしてる」


「こっちはちょっと甘め。ひと口飲んでみる?」


「ありがとう。ほな、こっちも」


 グラスを交換して、こくりと小さくグラスを傾けた。自分が頼んだものとは違う味わいに、千歳は目をかすかに目を丸くする。


「ほんまや、ほのかに甘いね」


「こっちは確かにすっきりしてる。するする注意案件やな」


「しっかりチェイサー挟んでかなね」


「ちぃはちょっとやそっとじゃ酔わんやろ」


「長くいろんな銘柄楽しみたいやん。大阪のやつも飲みたいし」


「そやなぁ」


「私、この大門だいもん酒造さんて知らんかった。利休梅りきゅうばい、あとで飲んでみよ」


「大阪って予想外に酒蔵多いよね。私もここで見てびっくりしたもん」


 そんな、大阪の地酒話で花を咲かせていると、左隣のテーブルがにわかに騒がしくなった。


「……だから、んなこと言うてへんやん!」


 女性の声である。絞り出す様な、しかし金切り声に近いそれは、左側に座っていた千歳の耳を貫いた。


「……何ごと?」


 ゆずちゃんにももちろん聞こえただろう。さらに声を潜めて眉をしかめる。


「何やろ」


 千歳の声も自然に潜められる。千歳の位置からしたら背中越しなので、振り返ってまで見るのは失礼だ。だがゆずちゃんからは見ることができる。ゆずちゃんは注意深くこっそりと、目線をやった。


「あ、葛木聖かつらぎひじりや」


 ゆずちゃんが驚いて目を丸くする。つい先日、千歳が画像処理をしたモデルさんだ。大阪の事務所に所属しているので、多分大阪に住んでいるのだろうから、なんばで遭遇してもおかしくは無いのだろうが。


「何か穏やかや無いなぁ。一緒にいてる人、男性ぽいけど」


 何だか呑気に話をするのが憚られて、千歳たちはつい口をつぐんでしまう。そうすると聖ちゃんたちの会話が漏れ聞こえてしまう。と言っても聖ちゃんの声は大きめなので、他の席にも通ってしまっていそうだが。


「でも、そういうことやろ。何で俺がそこまでしたらなあかんねん」


「彼氏やったら当たり前やん!」


 おお、スキャンダルでは無いか。ここは大阪で、東京の人気芸能人よりはスクープされたりする確率は低いのかも知れないが、そんなことをこの様な場で口走ってしまって良いものか。千歳は少しはらはらしてしまう。


「そんなん無理や」


「無理なわけ無いやん、だってあたしが相手やねんで。あんたがクズで甲斐性無しなだけや!」


 男性の声は苛立っている様にも聞こえるが、冷静を保っている。聖ちゃんはすっかりと興奮してしまっているのか、外聞も無い様子だった。


 そのとき。


 ばしゃっ!、と水音が響いた。これにはさすがに千歳も振り返る。すると。


 メディアでしか見たことが無かった美貌の聖ちゃんが、上半身びしょ濡れになって呆然となっていた。

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