3 瑕疵の可視

 

 車を降りて小雨の中を、三つ揃えスーツの男は傘も差さずに颯爽と歩く。

 東京狭隘にひしめく住宅地、いたって普通の切妻屋根の家の前で立ち止まった。

 ピンポンッと軽く押したチャイムの後、年配の女性が顔を出す。髪を後ろで一つに束ねてエプロンをつけ、身綺麗だけれどどことなく暗い面影があった。

 

「あらまぁすみません、こんなにすぐにいらしてくださるなんて」

「暇なのでね」


(おいおい)

 と学生の自分でさえ思った。この言い方で要らぬ敵をつくる感じ、やはり本人か。

 学生コンペのゲスト審査員で呼ばれた際は、倍も歳上の大御所建築家と意見が真っ向から対立して顔を引き攣らせていたのは記憶に古くない。なにかと逸話の多い人だ。

(まさか自分の事務所から追い出されたとか? スティーブ・ジョ◯ズよろしく) 

 そう考えると辻褄が合う気がして可笑しい。――なんてさすがに、自分の名を冠した事務所であり得ないが。


「君、これを使いなさい」


 と、玄関をあがる前に大きめの靴下を手渡される。引越しのアルバイトを思い出す。客の家を汚さないためか。こういうところはキッチリしてるんだな、と外さないサングラスに思わず目がいった。見上げたせいか見下されたような視線と目が合い、ビクッと身が竦む。


(まぁ、人のこと言えないか)


 茶髪はともかくラフなパーカーにジーンズ着である。家のご婦人にしたらあやしさ倍増の二人組だろう。

 しかし既に面識があるようで、特段の不快感を示すこともなくつつがなく会話は進んでいた。


「ええ、上の階だけ蛇口から水が漏れたり、戸口がガタガタいうようになって……もう年数も経ちますし、元々部屋も使っていないんです。いっそ二階を全部、なくせないでしょうか。費用はかかって構いません」


(二階ごとなくすって、そんな無茶な)と思ったが、『先生』はあっさりと頷く。

「見てみましょう」

 

 だんだん嫌な予感はしていたが、やはり改修系の仕事のようだ。

 なにが嫌って、もっと早く気が付くべきだったが――

 

「う……」


 階段の踏みづらが、赤みを帯びる。次の段は青、その次は黄に、蛍光マーカーで塗りつぶしたように? 七色の色眼鏡で見たように? 段を踏み外さないように注意深く上がった。

 ようやく二階について、ふうと一息つく。

 「色」は蠢いているものの、そこまで乱雑で濃くはない。

 この幻覚は、古い建物ほど強い傾向がある。おそらくご夫婦の結婚後に建てられた家だろう。ご婦人は『主人が亡くなった部屋』といってまだトラウマがあるらしく、一階にいる。


 二階にはトイレと洗面台、並んだ二つの部屋があった。 

(なんかこの家……)

 かすかに引っかかりを覚えるものの、ジャッと水音が流す。

 先生はテキパキと白手袋をつけた手で蛇口をひねり、止める。それから片方のドアを開き、ためらいなく中に入って行った。

 遅れまいと続いた、が


「ぅアッ」

 

(びっくりした――)

 背後からビュンっと“色”が駆け抜けていく。ような感覚で前につんのめるが、トンと肩を押し戻される。先生だった。

「現場でモノを落とすな」

 手には取り落としたコンベックス、建築用巻き尺が差し出されていた。直線寸法を測りやすいようテープがスチール製で数メートルあり、そこそこ重い。落とせば床に傷が付きかねないので、ごもっともだ。

「スミマセン……」

 虫にでも驚いたと思われただろうか、奇声には言及されず余計に恥ずかしかった。

 興味も無さそうに、もうコンコンと部屋境の壁をノックし調査に入っている。


 相変わらず蛍光色はネオンのように壁を流れ、頭痛もする。しかしこのままふらついた姿を見せて帰るわけにはいかない。

(バイト代……!)

 気合を入れて、グレースーツの方を向く。

 けばけばしい色の奔流の中、そのモノトーンだけが指標のようにスッと立っていて、焦点を合わせると自分の足もストンと地に着いた。

 そうして気づく、喫茶店とは違う「柄」、規則的な動きをする色があった。


(向かっている) 


 青と黄色、ピンクの帯が、窓の方へ収束し吸い込まれていく。

 ――だから、どうだといわれると皆目不明だが。


「そうだな、手すりが低い、、、、、、


 凝視したその先の、バルコニーに顔を向けて先生は頷いた。


「1,010か……良くない」


 そのままカラリとガラスの引き戸を開けた。

 そこには所狭しと植木鉢が置かれ、花壇をつくっていた。殆ど足の踏み場がなく、手前の床からコンベックスで実測すると確かに1,010mmを示した。


「法基準は1,1m以上、推奨は1,2m以上だ」


 目測の正確さはともかく、基準より数センチ低いのを気にするのは意外だった。

 あれだけ大胆な設計をしながら、と腑に落ちないのが顔に出ていたのか、続ける。


「要は人体寸法だ。人の重心位置より低ければ、落下の危険は高まる」

「落下……」


 命に関わることに、思わず生唾を飲み込んで手すりを見直す。

 その下部には植木鉢が敷き詰められていて、余計に低く見えてきた。枯れ刈られた先の無い茎が屍のようで、ゾッとする。


「設計ミスなんでしょうか」

「さあな。設計図の通りでないこともある」


 先生は起伏のない声でそう言って、前を向く。

 

「設計者にできるのは、設計の先に人を見ることだ」


 物干し竿の端に引っ掛けられたジョウロ、それから足元の倒れた植木鉢へと視線を移す。ドライフラワーのようにしおれた花が、物哀しげだった。 


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