番外:其の二 猫ノ王

 火の国阿蘇に根子岳ねこだけと呼ばれし山あり。

 根子岳は日本中の猫の帰りつく先であり、猫王が治める猫たちの聖地。


 人に慣れし飼い猫も、いつか年を経たならば、そっと主の元を去り、長き修行のため、根子岳に旅立つという。

 修行を終えし猫、その尾は二つに割れ物の怪となる。

 人それを猫又と呼ぶ。


 猫の王。

 その身の丈は六尺、重さ三十貫。虎のごとき大きさを誇る大猫なり。


 その居城は根子岳に在り。

 幾千万の猫にかしずかれる。

 その姿は変幻自在。

 あるときは、修行の猫たちに三日三晩ものあいだ、激しい稽古をつける漆黒の猫であり、またあるときは大いなる神通力を持ち、猫たちの願いを叶える白き猫。

 時には人の姿をとり、根子岳を訪れし人々を惑わせる。


 ただ、ひとつ由々しきことは、猫の王位は現在空位ということなり。




「ふむ……猫王の物語か……いい題材だね。吉岡君」


 先生は少しずり落ちかけた眼鏡を指先でちょっと持ち上げると、また原稿用紙に目を落とす。


「……どうでしょう?先生」

「うん。そうだねえ、悪くはないんだが……」


 先生はちょっと困ったような顔を私に向けた。

 たぶん、あまり面白くなかったんだ。

 先生が言葉を発する前に、私はもうどんよりした気分になっていた。


「冒頭が資料の丸写しのような文章というのはどうかと思うよ……吉岡君。これはいけない」

「丸写しではありません。一応自分の言葉で書いたつもりなんですが」

「では、文体がいけないのかな。どうも資料をそのまま読んでいるような印象を受けるねえ」


 私はうなだれる。

 長い時間をかけてようやく書きあげた習作は、自信作だった。先生に批評してもらうことが楽しみだった。


「どれ、吉岡君。資料に使った本を見せてご覧」

「はい、先生」


 私は自分の部屋に戻ると、本棚から一冊の本を取り出し、先生の所に持って行った。


「ああ、この本を使ったのか……これはいい資料本だよ」


 先生は本を受け取ると指をちょっと舐めて、本をぺらぺらとめくりはじめた。


「どの項を君が参考にしたか当ててみようか?」


 先生はいたずらっぽい表情でそう言いながら何度も項をめくる。

 その間にも私の気分はどんどん深く沈んで行った。


「ここだね」


 先生はとあるページを開いて、私の前に差し出した。


「確かに……これです」


 それは確かに九州地方の伝承について書かれた項だった。


「読んでみて、何がいけなかったかわかるかね?」

「……いえ……」


 私は自分の声がどんどん小さくなって行くのを感じた。もう、このまま消えてしまいたいぐらいだった。


「君の書いた猫の王に関しての記述は、この本の内容そのままだ。言葉は確かに君の言葉だが、それは単に言い換えたに過ぎない。これはよくないね」

「……はい。でも、私は嘘を書きたくなかったので……」

「ふむ……」


 せっかく資料を調べても、でたらめでは意味が無い。

 だがしかし、資料に忠実であることは、その文章を写し書くことと変わりがない。せめてできることは自分の言葉にするぐらいだ。


「むずかしい問題だね、吉岡君」


 先生はにこにこ笑って私に諭すように言った。


「確かに嘘はいけない。だけどね、吉岡君。我々が書いているのは学術資料でもなければ、体験記でもない。怪奇小説はつくりものだ。必ずしも正確である必要は無い……でも、まったくの法螺話も興ざめだ」

「はい」

「そこで大事なことは何かというと、嘘や法螺のような話も、本当のことのように面白く書かなきゃいけないということだ」

「はい。では、どうしたらいいんでしょう?」

「まずは資料をよく読んで、ちゃんと理解する。そして、自分なりの解釈で文章を再構築するのだ。わかるかね?」

「……なんとなく」


 私は眉根を寄せ、腕を組む。

 正直、あまりよくわからないのだ。


「根子岳の猫の王がどんな物の怪であったのかということに思いを馳せ、自分が修行の猫にでもなったつもりで読むと、ただの資料も違った読み方が出来る。そうすれば、自分の言葉がすらすらでてくるから、資料も「丸写し」ではなくなる」

「なるほど」

「わかったら、もう一度書き直してきなさい」


 先生は原稿用紙を私に手渡した。

 先生は私の原稿を半分も読んでいない。


「えっ? 続きは読んでくださらないのですか? 先生」


 すると先生は、それまでの笑顔を消し、少し険しい表情になった。


「冒頭からして面白くない小説を読み進めることがどれだけ苦痛かは君も知っているだろう?」


 私ははっとした。

 冒頭からこの調子では読む価値なしと判断されたのだ。

 悔しいがこれが現実だった。


「わかりました先生。お忙しい中、どうもありがとうございました」


 私は泣きたい気持ちをこらえながら、なんとか頭を下げた。


「君の感性は決して悪くはない。君は怪奇作家には向いていると思う……ただ、技法がまだついていかないだけだ。焦らなくてもいい。多くの本を読み、いろいろなことに興味を持って見聞を広め、より一層精進しなさい」

「はい」


 私は、先生にあらためて深く頭を下げた。





 その夜は遅くまで私は原稿用紙と格闘していた。


『吉岡。今日は遅くまでがんばっておるんじゃな?』


 背後からヘイマオ嬢の声が聞こえたので振り返ると、いつの間にかヘイマオ嬢が私の背中に前脚をかけ、原稿を興味深そうに覗いていた。

 深夜の彼女の金の瞳は、瞳孔が開ききってまんまるだった。


『習作を書いておるのか?』

「うん」

『ほう……根子岳の猫王か』


 ヘイマオ嬢は目を細め、


『……あれはいい雄だった……』


 と、ため息のようにほんの小さい声でそうつぶやいた。


「ヘイマオ嬢。もしかして、猫王を知ってるの?」

『知っておるとも。妾の何番目かの夫だった男じゃからな』

「えええええっ!」


 私は思わず大声を上げた。


『何を素っ頓狂な声を上げておるのじゃ。真夜中じゃぞ』


 ヘイマオ嬢は表情一つ変えない。


「で……でででででで……でもっ……」

『妾も長く生きておる故、夫の何人かはおったさ。子も何度か生んでおる』

「そ……そうなんだ……」


 確かにヘイマオ嬢はわかっているだけでも千年以上は生きている筈だ。

 それだけ生きていればいろいろあるだろう。ましてやこんなにも魅力的な女怪だ。


「ヘイマオ嬢……猫王の話、よかったら聞かせてくれないかな?」

『聞きたいのか?』

「是非!」

『いいじゃろ。ではどこから話そうかのう……』


 中空の満月の光が窓から差し込み、窓際にゆったりと体を横たえたヘイマオ嬢の黒い艶やかな体をほんのりと照らした。






 妾の香箱が大陸から日本に売られてきて、まだ間がなかった頃のことじゃ。

 妾はその頃、長崎のとある港町の骨董屋の倉庫におった。


 妾は長き眠りから目覚めてからはしばしのあいだ、大陸のいろいろな都を巡った。


 妾の香箱は皇帝陛下の気に入りだったからのう。

 漆と螺鈿の細工も麗しく、何百年ものあいだ、箱が傷つかないようにと妾が大事に守った甲斐あって、妾の香箱は裕福な資産家や、大商人が買って手元に置いた。


 妾は香箱を買った者を主と定め、それとなく守ってやっておった。


 だが、妾は女怪。

 人間の家に長くいると、妾の周りにまとわりつく千年の妖気が人間どもを弱らせてしまったり、争いを呼んだりしてしまうのじゃろうな。

 妾はどこの家にも長居ができんかった。


 そしてとうとう海を渡って大陸から日本にまで流れてきてしもうたわけじゃ。


 日本は珍しいものの多い国じゃった。

 男も女も妙な髪型をしておったし、一部の男は腰に細身の刀をさげておった。

 人間どもの話す言葉を覚えるのには骨が折れた。


 食事は自分で狩る、山野の獣以外は殆どありつけなかった。その代わり魚が豊富だった。

 妾はこの国へ来てから魚が好きになった。


 妾は毎夜、現し身の猫の姿となり、街の中を闊歩した。

 妾の力は若い頃の方が強かったから、動ける範囲も今よりは広かったんじゃ。


 猫の姿なら街のどこにいても怪しまれなんだし、いろいろと便利だった。

 だが、香箱に憑いたこの身の悲しさ。妾は香箱のある街から外に出ることは出来なんだ。

 道具に憑いた物の怪の掟。

 妾の契約は、亡き陛下とかわされた。


 飢えかけて弱り、香箱の中でぐったり眠っていた妾を愛してくれた陛下と。


 ———————————————『この香箱をよう守っておくれ』


 妾の忠誠は今も亡き陛下に捧げられておる。

 陛下の命令は妾にとって絶対じゃ……だから、妾はこの香箱が消滅するまでこれを守る。

 何千年でも守る。


 そういうわけで、妾はただ、いたずらに何ヶ月かをこの港町で暮らした。


 港町の猫どもは、恋の季節になるとしつこく妾に言い寄ってきた。

 いまさら生身の若造どもには興味等無い。

 寄ってくる若造どもを軽くあしらいつつ、妾はひどく退屈しておった。



 そんな、ある春の宵のことじゃった。


 満月の綺麗な夜じゃった。

 妾は気に入りの桜の木の下でまどろんでおった。

 桃色の花弁が散りゆく様は、それはそれは見事で、それが月霞の中に舞うのを見ていると、遠い昔、陛下の宮殿で行われた花見の宴を思い出す。


 ひらひら舞う桃の花弁。

 沢山の御馳走。

 艶やかに舞う女ども。

 酒精の馥郁たる香り。

 そして、陛下の膝の暖かさと、大きな優しい手の感触。


 少し冷たい風が吹き、妾は目を覚ました。

 中空の月があまりに綺麗だった。

 妾は月を見上げながら、ふたたび遠い昔に想いを馳せておった。


「隣に座ってもよろしいか」


 低い声が妾の近くで聞こえた。


 それがあの男——————————————— 黒夜くろやとの出会いじゃった。


 黒夜は惚れ惚れするほどのいい男じゃった。


 この男が生身の猫でないのは一目で分かった。

 妾と同じ、年経た古き生き物じゃ。

 それも、相当長い間生きておる。


 闇の中に溶け込むような漆黒の毛皮。

 身の丈は六尺ほどもあろうか。

 琥珀の中に黄金の光を散らしたような瞳は美しく、力強い体躯は彼をより一層堂々とした猫に見せておった。


「異国よりの客人と見受けるが」

「いかにも。妾は大陸から来た。そなた、このあたりの領主か?」


 すると彼は少し間を置いて言った。


「……そのようなものだ」

「そなたの名は?」

「黒夜」


 黒夜は低い声でつぶやくようにそう名乗った。


「そうか。妾はヘイマオじゃ」

「大陸の言葉で「黒猫」という名だな」


 黒夜の言葉で妾は驚いた。


「そなた、大陸の言葉がわかるのか?」

「昔少しかじった程度だ。しかしヘイマオ。なぜ、そんな華の無い名を名乗っている?」

「主につけられた名があまり気に入らなかっただけじゃ」

「ほう……主より授かった名は何と?」

美月メイユエ

「美しい名ではないか」

「でも、あまり好きではないのじゃ」

「……そうか」


 黒夜はそう言うと美しい琥珀の目で妾をじっと見たのじゃ。

 妾は少し恥ずかしくなった。こんな気分になるのは久しぶりじゃった。


「でも、ヘイマオというのもいい名だ」


 黒夜はそう言ってくれた。


「ところでヘイマオ。お前、これからどうするつもりだ?」

「妾はそなたの縄張りを侵すつもりはない。妾の香箱が他所にゆけば、妾もここを出てゆく。それまで少しのあいだ、ここに居させてもらいたいのじゃが」

「お前はこの骨董屋の香箱に宿っておるのか?」


 妾は無言でうなづいた。


「そうか……」


 黒夜は一言そう言うと、月を見上げて言ったのじゃ。


「……よい月だ……」


 妾と黒夜はしばらく一緒に月を眺めておった。



 黒夜はその後もちょくちょく妾の元に訪ねてきた。

 妾を口説くわけでもなく、世間話をしたり、時には大陸の話を聞きたがったり、少しの時間だけ話をして帰って行った。

 妾もいつしか、黒夜が訪ねてくるのを楽しみにしておった。


 しかし、ある日を境に黒夜は全く姿を見せなくなった。

 妾はとても寂しかったが、所詮男の気まぐれと自分を納得させ、黒夜のことは忘れることにした。



 そんなあるときのことじゃ。

 妾は蔵の中で居眠りをしておったら、蔵の外で噂話をしておる、猫の娘どもの話が耳に入ってきた。


「根子岳の猫王様が、いよいよ嫁御を娶られるらしいよ」

「まあ。猫王様が? では、そろそろご寿命が……?」

「そのようね。今の猫王様の在位はとても長かったものね」

「嫁御はどこの娘が選ばれるのかしら? 私がえらばれないかしら?」

「ばかねえ。私たち普通の猫が猫王様のお妃になれるわけないじゃないの……強いご子息をつくらねばならないもの。きっと人間の娘の血が入るに違いないわ」

「まあ、悔しい。人間なんて私大嫌い。いつも私たちを邪魔者扱いするんだから」

「でも、人間の血が入れば強い妖力を持った子供が生まれるのよ」

「では、肥後では嫁取りの祭りが行われるのね?」

「肥後の人間の娘どもが怖がって泣き叫ぶのが目にうかぶわ。私、肥後まで観に行こうかしら?」

「あなたも趣味がわるいわねえ」


 妙に気になる話じゃった。

 妾はその夜、妾をしつこく口説きにくる居酒屋の猫、寅吉を捕まえて猫王の話を聞いた。


 肥後の国の阿蘇というところには根子岳という山があり、そこには日本の西半分の猫を束ねる猫王がいるらしい。


 ちなみに日本の東半分は会津の猫魔ヶ岳にいる猫王が治めているそうだ。

 つまりこの国には二匹の猫王がいると言うのだ。


 猫王は多くの年を経た猫の怪。

 その姿は大きくて威厳に満ちあふれた雄猫で、各地から修行に訪れる年経た猫たちが、立派な猫又になるための稽古をつけるという。


 また、神通力を自在に操り、心根善き者の願いを叶える。

 時には人の姿で人間を欺くこともあれば、人間の頼みを聞くこともある。


 あるときは、大鼠の害に困り果てていた殿様の願いを聞き入れ、多くの猫たちを率いて、大鼠を屠ったこともあったとか。


 そんな猫王も不死身ではなく、その寿命が近づくと嫁御を娶り、次代の猫王を生ませる。

 妖力の強い猫王を生ませるために、時折人間の娘を選ぶこともあるという。


 妾にとってもなかなか興味深い話だった。



 それからほどなくして、妾の香箱に買い手がついた。

 まだ、骨董屋の店先にも並んでいなかった我が香箱を、どこから聞いてきたのか「大陸から珍しい香箱が入ったと聞いてきた」と言って、大層な高額で妾の香箱を買った男が居たのだ。


 恰幅のいい侍姿の男じゃった。

 香箱が移動すれば妾もそれについてゆくのが定め。

 次はどの土地に行くのやら。


 最後にもう一度だけ黒夜に逢って別れが言いたかったが、それは叶わぬようじゃった。

 妾は香箱に体を隠すと、またしばしの眠りについた。



 それからどれくらい眠ったか。

 妾はふと目を覚ました。

 香箱の外に出てみると、そこはどこかの神社の境内のようで、目の前には鳥居と社が見えていた。

 香箱は風呂敷に丁寧に包まれて地面に置かれておった。

 大事な品物を野に捨て置くとは何事じゃと思っていると、少し離れたところから話し声が聞こえた。

 よく見ると、鳥居の下には大きな箱が置かれ、そこには一人の若い人間の男がおった。

 男は箱に向かって話しかけておった。


「いけないわ。私は猫王様に捧げられた身。ここから逃げては村に災厄が訪れる」


 声は箱の中から聞こえた。

 あの中に娘が入っているのだろう。


「なにを言うんだ。猫王なんて迷信だ。おいらと一緒に逃げよう。お紺ちゃん」

「あたしだってそうしたいわ。幸吉さん。だけど、猫王の御社に黒い猫の旗が掲げられたのよ。そして、あたしの家の軒に黒羽の矢が刺さっていた……あたしは猫王様の嫁御に選ばれたのよ」

「みんな騙されてるんだよ。猫王なんているわけないんだ! こんなのおおよそ人買いか盗賊の仕組んだ罠だ」

「でも幸吉さん。このままあたしが逃げたのがばれたら、村に……うちの家族に何が起こるか……だからやっぱり逃げられないわ」

「お紺ちゃんはそれでいいのかよ? もし、ここに来るのが盗賊や人買いならお紺ちゃんはどこか遠くに売り飛ばされてしまうんだぞ。それに、本当に来るのが猫王なら食べられてしまう。おいらはどちらも我慢ならねえ!」


 おやおや。

 日本にも人身御供の習慣があるのかと妾はため息をついた。


 妾の国でも、田舎の村の一部には妖怪やら古い神に人身御供を差し出して、災厄から守ってもらうというのがあるが、こればかりはどこでもかわらんらしい。

 生け贄になるのはたいていが若い娘か子供だ。人を食らう物の怪は確かに女子供を好むが、嗜好はさまざま。中には屈強な男や、老人を好むものもおるのに。


 とはいえ、会話の様子ではあれは猫王に差し出す人身御供のようだ。

 そういえば、小娘たちが「人の血を混ぜれば妖力の強い子が生まれる」と言うておった。

 あれが、猫王に捧げられる人間の嫁御だとすれば、妾は肥後に来たことになる。


 娘は嫌々人身御供にされたのじゃろう。

 娘を連れ出そうとしておる男は恋人だろうか?

 気の毒な気もしなくもないが、妾の知ったことではない。


 せっかく肥後にきたからには、この祭りを見物するのもよかろう。


「あの娘、助けてやろうと思わんか? ヘイマオ」

「え?」


 ふいに背後から声がした。


 振り返るとそこには黒夜がいた。

 もう一度逢いたかった男が目の前に居た。


「黒夜……なぜここに?」

「猫王の嫁取りの見物に来た」

「そうじゃったのか……最近姿を見せんと思うたら肥後に行ったからなのか」


 黒夜はそれには答えず、妾をあの琥珀の瞳で見つめてきた。


「ヘイマオ。お前、あの娘と代わってやらんか?」

「どういうことじゃ?」

「あの娘の代わりに箱に入ってやるのじゃ。そうすればあの娘は助かるし、好きな男とどこへなり逃げるだろう」

「妾に猫王の嫁御の身代わりになれと?」

「嫌か?」


 黒夜はちょっと気まずそうに妾に言った。


「嫌じゃ。第一、あの娘は猫王が自ら選んだ嫁御じゃろ? それを邪魔したとあっては、妾が日本中の猫から恨まれる」

「猫王は自分では選んでおらんよ」


 意外な答えに妾は驚いた。


「しかし、あの娘は自分は選ばれたと言うておったぞ」


 すると黒夜は困ったような顔をして言った。


「猫王の嫁御はな、猫王が「嫁御を取る」と言った時に、配下の猫どもが手配するのだ。昨今は人間の娘との混血が妖力を増すと信じられていて、配下の猫どもは根子岳近隣の村から手頃な娘を適当に選んでくるのだ」

「適当に、なのか?」

「そうだ。根子岳周辺の村にはどこも猫王を祀った御社がある。猫たちは選んだ村の御社に黒い猫の旗を掲げる。それは猫王の嫁御をその村から選ぶという印だ」

「ふむ。それで?」

「さらに、適当に選んだ娘の家の軒に黒羽の矢を射る。あとは村人が娘を箱に入れてここに連れてくる」

「そうだったのか……選ばれた娘は災難じゃのう」


 妾は娘が少し気の毒になった。


「だから、お前が人間の娘に化けてあの娘と代わってやれ。娘を助けてやれるのはお前だけだ」


 しかし、妾は納得いかなかった。

 娘と代わるということは、自分が猫王の妻になることではないか。

 会ったことも無い猫王といきなり契れと言われても無理な話だ。しかも、人間の娘の身代わりで。


「すまぬが黒夜。お前の願いは聞いてやれん。妾は嫌じゃ……妾にも夫を選ぶ権利がある」

「そうなのか」


 黒夜は少し残念そうな顔をしたので、妾は気になった。

 もしや黒夜はあの人間の娘が好きなのだろうか?


「黒夜。どうしてもあの娘を助けたいのか?」

「いや、そういうわけではない」


 黒夜は首を横に振った。


「最初で最後の妻を自分で選べないのは、猫王もつらいだろうと思ってな」

「妾が代わったところでそれはおなじではないか」

「いや。今上の猫王は妻は自分で選ぶ。生け贄は欲しない」


 黒夜はそう言うと妾をじっと見つめた。

 美しい琥珀の瞳で。


 妾にはわかってしまった。



 なんだ……そういうことだったのか。





 妾は人間の娘に化け、生け贄の娘と若者を逃がしてやった。

 二人は泣きながら妾に礼を言い、手に手をとって逃げて行った。


 妾は香箱と一緒に箱に入り、待っていた。



 次に箱が開かれた時、そこは宴の席だった。

 黒い紋付や、鮮やかな振り袖を着た猫たちがそこに待ち構えていた。

 彼らは最初、妾が人間の娘でないことに気づき、大層驚いておったが、現れた猫王がすぐに場を治めた。


「その者は私が選んだ妻たる者。彼女は異国の皇帝をも魅了した美しく、尊い雌だ」


 猫王。

 その姿は漆黒で、美しい琥珀の瞳。

 六尺あまりの大きな体の逞しく堂々たる雄々しき男。


「お前を手に入れるのは大変だった。なんども長崎に出向き、金をあつめて人間からお前の香箱を買い取るのは骨を折った……しかし、また逢えて嬉しい」


 猫王は白い花で作られた花冠を妾の頭にそっと載せてくれた。


「我が妃になり、我が子を生んではくれんか? ヘイマオ」

「よろこんでお受けしましょう……猫王黒夜」


 華燭の典は三日三晩続き、妾は愛しい男と結ばれた。





 ひと月後、妾は一匹の雄の子猫を生んだ。


 この子は次の代の猫王。

 黒夜と同じ琥珀の瞳、妾の自慢の黒い毛並みを受け継いだ愛しい我が子。


 まだ、妾が陛下のもとにいた普通の猫だった頃、何度か子を産んだことがあるが、香箱に憑いてからは子を産んでいない。

 久しぶりに子供を育てるのは楽しく、そして愛おしかった。


 黒夜は穏やかに目を細めて、妾と子供を眺めていることが増えた。

 妾は予感していた。


 ——————————————— もうすぐ黒夜は……。


 ある夜、黒夜は妾と、眠っている子の頭を丁寧に舐め、何も言わずに出かけた。

 妾も何も言わず、黒夜を見送った。


 それが、妾と黒夜の今生の別れだった。



 年経た猫又たちの王で、全ての猫たちの守護者である猫王は長い時を生きる。

 しかしいつかはその妖力も衰え、寿命も尽きる。


 妻を娶り、子をなすことは猫王の寿命が近づいた証。

 猫王が家族を得て幸せに過ごす期間は夢うつつのごとく短い。


 幼い子猫はまだ猫王の座につくことはできない。

 子猫は次代の猫王となるべく、しばしの間旅に出される掟だった。


 人里に捨て置かれた子猫は、野良猫となるか、人の家にて飼われるかはわからない。

 百年あまりの修行の後に、猫又と化してから本当の猫王の資格を得る。

 妾は夫を失い、今度は子供とも別れる定め。


 根子岳の長老猫に妾は言った。


「妾の香箱をどこか遠くに売っておくれ。できるだけ、遠くに」


 まだ、名もついていない我が子を修行の旅へと送り出し、妾もまた、人に変じた長老猫の手によって、香箱ともども肥後を後にしたのじゃ……。





「なるほど。それで、巡り巡って東京に来たというわけか」

「そうじゃ」


 ヘイマオ嬢は自分の身の上をあまりに淡々と語ったので、私にはまるで他人の話をきいているかのような気さえしていた。


「で、ヘイマオ嬢の子供は今、何をしてるんだい?」

『さあのう……まだ、修行中かもしれんのう』

「そうだなあ。この資料本は数十年前に書かれたものだけど、西の猫の王位は空位だと書かれているしね」


 私は本をぺらぺらとめくった。


『それより吉岡。今日の月は本当に見事な望月じゃ』


 ヘイマオ嬢はまた空を見上げた。


「そうだね」

『黒夜に出会った夜を思い出すのう……』


 ヘイマオ嬢はしばらく、何かを思い出すかのように目を細めていたが、不意に、耳をぴくりとさせ、身構えた。


『む……何かが近づいてきておる……それも集団じゃ……』


 ヘイマオ嬢の声に緊張の色が浮かんだ。


『吉岡……どうやら客人のようじゃ。それも物の怪の……お前そこに隠れておれ。人間がいるとやっかいじゃからな』

「えっ……?」

『いいから、早くその押し入れにでも隠れて息を殺しておれ』


 ヘイマオ嬢は体を弓なりにそらし、毛を逆立たせる。

 私が慌てて押し入れに隠れてほどなく、シャンシャンと涼やかな鈴の音が聞こえてきた。


 私は押し入れの襖を音を立てないように細く開き、そこから外の様子を覗いてみた。



 紋付袴を着て、提灯を持った猫の一団が開け放たれた窓の向こうにいた。


『今上の我ら西の猫王の母君、ヘイマオ様とお見受けいたしますが』


 茶色の虎縞猫が進みでて、ヘイマオに向かってうやうやしく頭を下げた。


『いかにも。妾がヘイマオじゃ』

『我らが西の猫王が先日、めでたく修行を終えられ、即位致しました。猫王におかれましては、母君にお目通り奉り、即位の報告をしたいと仰られ、我ら猫又の総力をあげてヘイマオ様の消息をお探しし、猫王をこちらにお連れ致しました。何とぞお目通り願えますよう、伏してお願い奉ります』

『許す』


 ヘイマオは威厳たっぷりに返事をした。


 ほどなく、身の丈六尺はあろうかと思われる大きな若い猫が静かに入ってきた。


『母上。お久しぶりです』

『……おお……おおきゅうなって……修行は滞り無く終えたのかえ?』

『はい。おかげさまですべての修行をつつがなく終え、このたび猫王として即位致しました』

『それはよかったのう。して、今日は妾に何の用じゃ』

『母君を根子岳にお迎え致したく、参上致しました』


 若い猫王は父親そっくりの琥珀の瞳で母の顔を見た。


『妾をか?』

『はい。母上。どうか、根子岳で私たちと共に暮らしてください』


 しかし、ヘイマオ嬢はゆっくりと首を横に振った。


『妾は行かぬ』

『なぜですか。母上』

『妾はここが気に入っておるからじゃ。それに、猫王たるもの、いつまでも母を恋しがるようでは情けない』

『母上……』

『妾も今の主が気に入らぬならそなたたちと共に根子岳へ行くじゃろう……しかし、妾は今の香箱の持ち主を気に入っておる。だから根子岳へは行かぬ』

『人間との生活が楽しいのですか? 母上』

『まあのう……ここは退屈しない場所じゃ。稲荷の狐や、なかなか面白い奇果もおるしの』


 すると、猫王は少し笑いを含んだ声を出した。


『奇果……ああ、本当ですね母上。そこで心配そうに話を聞いている……』


 お見通しだったらしい。


『吉岡。出てくるがいい。我が子を紹介しよう』


 ふいに呼ばれて、私はどきりとしたが、大人しく押し入れの外に出た。


『吉岡。先ほど話した妾の息子じゃ……名は……』


 そこまで言ってヘイマオ嬢は目を大きく開け、耳と尻尾を立てた。


『おお! しまった。妾は息子にまだ名をやっておらんかった』

『はい母上。母上から名を授かりたく思います』


 そう言われてヘイマオ嬢は暫く猫王を見ていたがやがて満足そうに言った。


『お前は今日から「琥珀」と名乗るがよい。お前の父、黒夜そっくりのその美しい瞳の色じゃ』

『ありがとうございます。母上、では、私は今宵より琥珀と名乗りましょう』

『うむ』


 ヘイマオ嬢は琥珀の側へ行くと、その頭を優しく舐めてやった。

 生まれたばかりの琥珀によくしてやったように。


『達者で暮らせ。琥珀』

『母上もお元気で。でも、いつか根子岳においで下さいますか?』

『もちろんじゃ。今の主との縁が終われば、妾は根子岳へ戻ろう』


 琥珀の表情が明るくなった。


『お待ちしています母上。では私はこれにて』


 猫の一団は月光の中、ゆっくりと去って行った。


『うむ……老後の楽しみができたわい』


 まだ、どうみても若々しく見えるヘイマオ嬢は、その姿に見合わぬ年寄りめいた言葉を吐いた。






「どうだね? 吉岡君。いい話が書けたかね」

「はい。先生。よろしくお願いします」


 私は先生に原稿を手渡した。

 先生は長い時間をかけて、私の原稿を最後まで読んでくれた。


「おお。だいぶよくなったね吉岡君。この猫王の話、とても面白かったよ。君なりの解釈が随所に見受けられる」

「ありがとうございます。先生」

「まだ、荒削りだが、かなり良いものを持っている。より一層精進したまえ」

「はい。先生」

「それにしても……」


 先生はにやにやしながらこう言った。


「ここに出てくる猫たちは、どれもうちのおたまのように見えるねえ……さては吉岡君。おたまの行動を参考にしたんだね?」


 そういわれて私は思わず苦笑する。


「はあ……まあ」

「そうかそうか。おたまはほんにかわいいからな……うんうん」


 自分の溺愛する飼い猫が先代の猫王の妻にして、今上の猫王の母と知ったら先生はどんな顔をするだろう?


 私はそう考えると、ついにやにやしてしまいそうになった。

 そんな私の背後から鋭い視線が刺さる。


 ヘイマオ嬢だった。


 ——————————————— 余計な事は言うな。


 彼女の目は無言で私に圧力をかけていた。


 はいはい。

 誰にも言いませんよ。


 私はちょっとだけ肩をすくめてみせた。

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