第10話 我、願ひたまふ。鬼に逢ひ見んことを(後編〜悲しき蛟〜)

 東京行きの列車に揺られながら、私は気もそぞろだった。

 つい先ほど、列車の窓から、富士の広大な裾野が見えた。東京まであと僅かだ。


「よかったな。きっと先生も助かるぜ」


 各務君はそう言ってにっと笑う。

 ヘイマオ嬢は各務君の肩に頭を預けてすやすや眠っている。

 無邪気な寝顔は子供のようだった。

 もともとは猫の化生。生涯の三分の二は眠って暮らす性なのだから、仕方あるまい。


「ああ」


 私は指先で、少しずり落ちかけていた眼鏡を上げた。


「その眼鏡、少し『度』を上げてもらったんだろう? 吉岡君」

「……うん。調整してもらった」


『度』といっても視力のことではない。

 遮妖の眼鏡はもちろん普通の眼鏡と同じく視力の矯正もするが、それは本来の目的ではない。



 神域を出るとき、私は大神様に呼び止められた。


『秋斗や。お前の力は以前より強くなっているね……』

「え?」

『眼鏡をこちらへ。少し調整が必要なようだから』


 大神様が言い終わるより早く、側仕えの狐がやってきて、私に前脚を差し出す。

 私は眼鏡を外し、狐に渡した。


『お前はどうしても物の怪を引き寄せてしまう。否が応でも関わっているうちに、魔を感知する感覚はどんどん研ぎ澄まされていき、その力は知らず知らずのうちに強くなっていく……』


 大神様は狐が捧げ持つ眼鏡に手をかざす。

 眼鏡はそれに呼応してぽっと金色に輝いた。


『この眼鏡で防ぐことができるのもおそらくそう長くはあるまいね……だから秋斗や、いずれお前は選ばなきゃならない。自分の運命を自分で』


 大神様はそういい終わると、狐に小さく頷いた。

 狐は眼鏡を持って、また私の側に戻ってきた。


『良いか? 秋斗。無謀なことはしてはならないよ。無謀な振る舞いはお前の寿命を確実に縮めるよ。魔の世界にかかわればお前は欲するものを得られるだろう。しかし、その分、求められる対価も大きい。平穏な一生を終えたくばその眼鏡を決して不用意に外さぬことじゃ。正し、平穏な人生と引き換えに、お前はいくつか手放さなければならないことがあるだろう……』


 渡された眼鏡をかけた瞬間、ぼやけていた視野がはっきりとした。

 もちろん、視力が矯正されて視界がはっきりしたからだが、それ以外にも違う感覚があった。

 先ほどまで、眼鏡をかけていたときに見えていたものが、いくつか見えなくなっていた。


「あれ……?」


 妙な感覚に戸惑う私に大神様は言った。


『お前の眼鏡の『度』を強くした。それで余計なものはより一層見えなくなる。ほぼ普通の人間と同じ生活を送ることができよう。しかし、先ほども言ったように、今後どうするかはお前次第だよ』

「私次第……」

『そう。お前自身が望めば、お前の人生は思ったとおりになる』





 大神様の言葉の意味を、私は揺れる列車の中で考えつづけていた。

 望んで思い通りになる人生ならば、私の人生はもっと、希望に溢れていた筈だ。

 だけど、そうはなっていない。

 とりたてて不幸ではないけれど、この上なく幸せともいえない。

 多少の不満はあるし、望みだって叶ってはいない。


 なら、『望めば叶う望み』って何だろう……。


 考えているうちに私は眠くなってきた。




 次に目を覚ませば、東京に戻っているだろうか……?






「願いが叶う石像?」

「はい。恐らく二十年くらい昔のことだと思うんですが、何かお心あたりはありませんか?」


 私と各務君、それにヘイマオ嬢は青嵐社にいた。

 私たちは上野から、家に戻らず、直接青嵐社に来たのだ。

 先生の担当編集者である都築晋平氏に逢うためだった。


 彼なら先生との付き合いも長い。何か知っているかもしれないと思ったからだ。


「ふーむ……そういえば……」


 都築さんはしばらく唸りながら考え込んでいたが、突然はっとするような顔をした。


「ああ! そういえば、思い出しましたよ。確か小金井だ……玉川上水沿いにあったはず。一見してわからない場所だったけど、確か黒曜石で出来た立派な龍の像があって……昔本田先生と行ったことがありました」

「本当ですか?」


 私は一瞬身を乗り出す。


「ええ。そこで真剣に祈れば、なんでも願いが叶うと言われていたと思いますよ」


 間違いない。

 その石像だろう。蛟は本来龍の眷属だ。龍の像に宿っていてもおかしくはない。


「あの……都築さんも何かお願いをしたのでしょうか?」

「しましたよ」


 都築さんは少し懐かしそうに穏やかな笑みを浮かべた。


「望みは叶ったんですか?」

「いいえ」


 都築さんは笑って首を横に振った。


「大金持ちにしてくれってお願いしてみたけど、ご覧のとおりですよ」

「真剣に祈ったのですか?」

「まさか」


 都築さんはくすくす笑いながら言った。


「神仏に願って望みが叶うなら人生苦労しやしません。もともと私は他力本願は好きじゃないので、あんまり真剣に祈らなかったからかもしれませんがね。ああ、でも本田先生は望みが叶ったかもしれませんね、とても真剣に祈っておられたから」


 間違いない。

 その石像があの蛟の宿った石像だ。


「都築さん。その石像が今はどこにあるかご存知ですか?」


「さあ? あの場所には今は大きな西洋料理店が建ってしまいましたからね。私は行ったことはありませんが、あれだけ立派なものだったのだから、案外中で飾られているかもしれませんよ?」




 玉川上水のほとりの眺めのいい場所に、その西洋料理店はあった。


 浪漫亭ろうまんていと書かれた金看板が眩しい立派な西洋料理店。

 正装で行かなければ入れないような場所だ。一介の書生にはとても縁のなさそうな場所だった。


「俺に任せておきたまえ」


 各務君はにやりと笑うと、その姿を立派な紳士の姿に変えた。

 黒の三つ揃えの背広にリボンタイ、黒の帽子。


「これなら士族で充分通る格好だろう?」

「なら妾は士族の令嬢じゃな」


 ヘイマオ嬢は黒のイブニングドレス姿に変化した。


「ずるいな。君達はそれでいいけど、私は化けたりできないよ」

「君は俺たちのお供の下男としてついていけばいい。勘定は俺たちが払ってやるから心配するな」

「どうせ木の葉のお金だろう? 人間を化かすのは感心しないな」


 私はこういう不正は嫌いだった。


「先生を助けるためにあの店に入るんだろう? なら文句言わないことだ」


 背に腹は変えられない。各務君の言葉に私はしぶしぶ承諾するしかなかった。




「いらっしゃいませ。ようこそ当店においでくださいました」


 立派ななりの給仕たちが、うやうやしく私たちを迎えた。


 仏蘭西フランスの宮殿の雰囲気を再現した造りの内装。

 天井には大きなシャンデリヤ。店内には弦楽四重奏の調べ。

 大きな丸テーブルに案内される。


「お付きの方はこちらへ……」


 給仕の一人が私に声をかけ、私は各務君たちから引き離されそうになる。


「ああ、いいんだ。彼もこちらで」


 各務くんが給仕を呼び止めた。


「こちらの方もご一緒のテーブルでよろしいので?」

「彼は大事なうちの使用人だ。当家は使用人といえど分け隔てはしない主義でね」

「それはなんともご奇特なことで」


 給仕は妙な顔をしている。

 当然のことだ。主と下男が同じテーブルで食事をするなど常識では考えられない。

 私たちは当然好奇の視線に晒されることになる。


「ほらみろ。目立っちゃったじゃないか……」


 居たたまれない気持ちで私は各務君に耳打ちする。


「気にすることはない。俺たちは目的を果たせればそれでいいんだから」

「それはそうだけど……」


 そのうち、料理が次々運ばれてきた。


 見たこともないような美味しそうな品が沢山、テーブルの上に並んだ。


「ほう……これが仏蘭西料理か。美味そうじゃの」


 ヘイマオ嬢の目は、牛肉や白身魚を使った料理に釘付けになっている。


 各務君とヘイマオ嬢はマナーも何もかも無視して、ぱくぱくと料理を食べ始め、それがまた周囲の視線を集めてしまう。

 本人たちは士族を気取っているようだが、恐らく回りからは、田舎から出てきた成り上がり者と見られているに違いなかった。


 私も料理に少し口をつけたが、回りの状況に気が気ではなく、碌に味などわからなかった。


 私たちのところへ、一人の初老の男がやって来た。


「旦那様、お嬢様、ようこそおいでくださいました。私は当店の支配人でございます。当店の料理はお気に召していただけましたでしょうか?」


 支配人が挨拶をしにテーブルまでやってきたのだった。


「うん。なかなか美味しかった。贔屓にさせてもらうよ」


 各務君はいけしゃあしゃあと言った。


「光栄でございます」

「ところで君、ひとつ尋ねたいのだが」

「はい。何でございましょう? 旦那様」

「以前、私はこの店ができる前にここを訪れたことがあるのだが、この店のある場所に建っていた、黒曜石の龍の像がどこにいったか知らないかね?」

「ああ……あの像ですか」


 支配人は困ったような顔をした。


「あれは確かに立派な黒曜石の石像で、最初はこの店にそのまま飾る予定でしたが、龍の像はこの店の仏蘭西風の雰囲気にあわないということで、削って別の像に作り変えてしまいました。大きさは少し小さくなりましたが、ほら、今もあそこに……」


 支配人が指差した処には黒曜石で出来た馬の置物だった。

 寸法は大きめの壺ぐらいで、確かに石像というより置き物という感じだった。

 しかし、石の質が良いのだろう。前脚を上げ、今にも跳躍せんとする姿は躍動感があって、美しかった。


「もともとあの石像はとても大きくて綺麗な黒曜石でできていましたからね。この店を建てる時に、店主があの石像を撤去するのを惜しいと思ったそうで、なんとか店の装飾品にしようと思ったそうです」

「ほう……それで?」

「しかし、私どもの店は仏蘭西料理店。中華風の龍の像は少し違和感がございました。そこで、店主は知人の彫刻家に依頼して、あの像を作り替えてもらったのです」

「……なるほど、そういうことか」


 各務君は溜息をついた。


「削ってもまだそれなりの大きさの像になりました。いかがでしょうか? なかなか立派なものでしょう?」



 支配人は一礼して去っていった。


「時戻りの葉を使うときが来たね。ヘイマオ嬢。少し俺に協力してくれるか?」

「構わぬぞ。じゃが、妾にもう少しこの揚げた魚を食べさせてはくれぬか? これが非常に美味しくてのう……」


 ヘイマオ嬢は外見はしとやかな令嬢のままだったが、美味い食事に夢中になるあまり、中身はすっかり猫の本性に戻ってしまったらしく、魚料理を皿まで舐めんばかりにガツガツと食べていた。

 各務君は苦笑し、私は胃が少し痛んだ。




 ヘイマオ嬢は満足すると、各務君に言われた通り動き始めた。


「吉岡。毒気に当てられてはいかんから、これを口の中に入れておくがいいぞ。口の中に入れるだけじゃ。噛んだり飲み込んではだめだぞ」


 ヘイマオ嬢は胡桃に似た茶色い小さな木の実を私に渡した。

 それは胡桃よりははるかに小さく、大きさはどんぐりほどだが、見た目は胡桃そっくりだった。口に入れると、生姜のようなぴりりとした辛さが舌を刺した。


 彼女が懐から取り出した扇を一振りすると、えもいわれぬ香りが漂い、回りにいた人々が次々とばたばた倒れ始めた。


「……これは……」


 戸惑う私に向かってヘイマオ嬢は美しい顔で微笑んで見せた。


「眠りの香じゃ。この香りを嗅ぐと大きな虎でも一瞬で眠ってしまう。数時間は目が醒めぬ。体に害はないから安心するがいい」


 なるほど。先ほどの木の実を口に入れていればこの毒気に当てられないということか。




 人々が寝静まったのを確認すると、各務君は店の扉と窓を全て私に閉めるように指示し、私が扉や窓を閉めている間に、黒曜石の馬の像の側に大神様からもらった時戻りの葉を置いた。

 そして、口の中でなにやらぶつぶつと呟き始める。

 呪文か何かなのかもしれなかったが、よく聞き取れなかった。



 やがて、不思議なことが起こり始めた。

 馬の像はみるみるその形を変えて大きくなり、立派な龍の像になった。


「この像の二十年ほど前の姿だ……なるほど。これは蜃龍しんりゅうの像だね」


 各務君はふむふむとうなづきながら言った。


「蜃龍?」

「幻を見せる龍だ。蛟はこれに宿っていたんだね」

「龍はもともと蛇が年を経て進化したものじゃ。あの蛟めも長い時間をかけて蛇から蛟まで変化していったのじゃろな」


 ヘイマオ嬢が感慨深そうに言った。


「変化……?」

「そうじゃ、吉岡。蛇が年を経て付喪神になると、まずばんになる。最下位の龍じゃ。それがさらに年月を経て姿を変えてゆく。やがて、蜃龍、そして虹龍こうりゅうとなり、蛟となる。蛟は最高位である龍になるための最終段階じゃ」

「そうだったのか……」

「たぶん、人の願いをかなえることで龍になるための修行としてたのだろう。善行を積むほど神格が高い龍神になれるからな……だが、途中で宿っていた像が壊された」


 各務君は蜃龍の像を調べながらそう独り言のように言った。


「なあ各務君。善行を積んでいたはずの蛟はなぜ、人の魂をとるようになってしまったんだろう?」

「それを今から本人に聞くんじゃないか。うん。やっぱり契約の印はどこにも刻まれてない。本田先生だけじゃない。ヤツは誰とも契約してはいない……」


 各務君はそう言うと懐から小さな白い折り紙を取り出した。

 それは小さな狐の形に折られていた。


「さあ、大神様にお知らせに行くんだ」


 折り紙の狐は各務君の掌からふわりと浮くと、ふっと姿を消した。


「俺の式神だ。すぐに伏見に報せが行く。あとは大神様にお任せしよう」




 数分もたたないうちにあたりが急に暗くなった。

 室内の明かりはこうこうと点っているはずなのに、私たちの周りだけがふっと暗くなったのだ。


 シャンシャンと涼やかな鈴の音がして、浄服姿の白狐の一行がどこからともなく現れた。白狐たちは輿をかついでおり、そこには巫女装束に狐面をつけた七、八歳くらいの幼女が一人、ちんまりと座っていた。


「あれは?」


 私は各務君に尋ねた。


「大神様の拠りしろとなる巫女だ。大神様が直接人の世界にお出ましになることはありえないからな」


 輿を下ろした狐たちは各務君に一礼して後ろに下がった。


「石像に宿りし蛟よ出でませ。そなたが捕らえし魄のことで、宇迦之御魂神うかのみたまのかみ様が調停に光臨なされた。古よりの掟に従い速やかに出でませ」


 狐の一人が高らかな声で叫ぶ。


『失われし我が拠りしろの石像が、何ゆえか元の姿に戻ったかと思えば、今度は宇迦之御魂神だと……? 稲荷神が何ゆえ我に物言うのか?』


 石像から聞き覚えのある声が響いた。


 輿に座っていた幼女がすっくと立ち上がった。


『蛟。こたびのことは一方的な契約であること明白。さりとてそなたにも言い分はあろう。それゆえ我はここにおる奇果の頼みに答え、調停に来た』


 幼女のから発せられた声はあきらかに大神様のしわがれた声だった。


『お節介な稲荷神め……まあよいわ。しかし、いくら稲荷の頼みでも、捕らえた魄を返す気はない。早々に立ち去るがいい』

『蛟よ。そなた、何ゆえその魄にこだわるのか?』

『この魂魄があれば、我は悲願である龍神になれるのだ。この魂魄を失えば、数千年の修行は無になり、我はまた蟠から修行を始めねばならん』


「なぜ、そんなことになったんですか! あなたは善行を積んで蛟にまでなったのでしょう?」


 私は思わず叫んでいた。


『奇果よ。元はお前たち人間が悪いのだ。わが拠りしろである像を削り、あまつさえその形を変えてしまった。その黒曜石は我が力の源。修行の成果。拠りしろの像を失えば我の修行も消えてしまう』


 人間の身勝手。

 それが蛟を怒らせたのだ。

 私は人の身勝手さに改めて強い嫌悪感を感じた。

 今までも何度か感じたことではあったが、今回は特にそれを強く感じていた。

 それは私が以前より、魔の領域に近づいているからかもしれなかった。


 しかし、だからといってかかわりのない先生の魂魄が犠牲になるのはどうしても腑に落ちなかった。


「像の形は変わっても、あなたの宿る石であることにはかわりないのでしょう?」

『確かに我が力の源は、長きにわたり月日の精を浴びたその黒曜石だ。だが、誇り高き龍の眷属である我がそんな馬の像に宿ることはあまりの屈辱でしかない』

「あなたの受けた仕打ちは確かに気の毒に思う……だけど本田先生には何も関係がない! 先生の魄を返してください」


 私は懇願した。

 しかし、蛟の心は変わりそうになかった。


『我も最初から魂魄を取るつもりなどなかった。しかし、我が像は削られ、我は善行を積む修行ができなくなった。龍神になるには人の魂魄を奪い、その力を借りて龍神に化生するしかもう方法がない。我は今までに我が願いを聞いた人間の中からこの男の魂魄を選んだのだ』

「先生を選んだ?」

『そうだ。この魄……この魂魄の持ち主は特別清浄で気高い魂魄を持っている。この強い魂魄がひとつあれば我は龍神になれるのだ。百人の人間の魂魄を奪っても、この魂魄一つの強さにはかなわない。だから、我はこの男を選んだ』


「そ……そんな……」


 私はその場に膝をついた。



 ━━━━━━━ 魔の世界にかかわれば欲するものを得られるだろう。しかし、その分、求められる対価も大きい。



 大神様の言葉が脳裏をよぎる。

 先生は知らぬこととはいえ、魔の世界に関わってしまった。

 先生の誠実で強すぎる願いが逆に先生に災いを呼んだのだ。



『誰かに頼っている時点で、本当は志が高いとも言えないとは思う』



 あの先生の言葉は先生自身に対する戒めと後悔だったのだろう。

 本当に叶えたい想いは誰かに頼ってはならない。誰かに頼ろうという弱気を出した時点でそれは崇高な理想からただの欲望になってしまうと。


 若き日の先生の思い。強い想いは欲望になる。

 そして、蛟はそこにつけ込んだ。


 だけど私は思う。

 弱気を出したって、誰かに頼ろうとしたっていいじゃないか。

 最終的に自分で成し遂げたならそれは誰に恥じることではない。


 だけどこの状況を変えるにはどうしたらいい?


 経緯はどうあれ、先生は結果的にこの蛟の力を借りてしまった。

 今の自分ではとても先生を助けることが出来ないではないか。

 私は悔しさのあまり唇を強く噛み締めていた。


『蛟よ……そなた、龍神になりたいあまり、嘘をついておろう? 我にはわかるぞ』


 大神様がふいにそう言った。


『何を根拠に』

『本田鉄斎はそなたの力など借りておらぬ。今の彼の名声と成功は、彼自身の力で勝ち取ったものじゃ。蛟を龍に変えるほどの強い精神と魂魄の持ち主なら、蛟の力など借りずとも自分で願いを叶えられるはず。そして、そなたはそれをよく知っておった……違うか?』


 蛟は黙り込む。


『蛟。古の掟を破るつもりか? 神となる者は嘘をつけぬ。ましてや龍神といえば善き者に力を与え、悪を滅する気高き神……そなた、もう数千年修行をしたほうがよいのではないか?』


 蛟は一言も返せなかった。


『……我は龍神になれぬのか? あたら数千年の修行は……善行は無駄だったのか? 愚かなる人間の行いひとつで、我は……』

『蛟よ。そなたがその魄を大人しく返すなら、この奇果の力を借りてそなたを龍神にしてやろう。どうじゃ?』


 その言葉に私は驚いた。


「大神様。奇果って……まさか私の……?」


『秋斗。お前の持つ陰の力の部分を、少しこの蛟めに分けてやるがいい。お前の力は少し失われるが、お前の力は遮妖の眼鏡でもあと僅かしか押さえられぬほどになっている。少し力を失うくらいで丁度いいのではないか?』

「そうすれば、先生は助かりますか?」


 私の言葉に、大神様の声が少し笑みを含んだ。


『ほう……秋斗。力を失うと聞いて、我が身の心配をするのではなく、師のことを先に気にするのじゃな。やはりお前はとてもいい子じゃ……だから我らはお前が好きなのだよ。大丈夫。お前の師は元に戻るし、お前の心にも体にも、魂魄にも殆ど影響はない』

「ありがとうございます! 大神様。私の力が役立つのなら、いくらでもお使いください」







 本田先生の目が醒めたのはそれから二日後のことだった。


 医師の診察を受けた先生の体にはどこにも異常はなく、先生自身はひょうひょうとした調子でこんなことを言った。


「締め切りが混んでいてよほど疲れたのだな。なんだかぐっすり眠れた気がするよ」


 先生が床に伏せているあいだに、おたまが先生の側を片時も離れなかったと奥様から聞いた先生は、大喜びだった。


「おたまやー! 心配をかけてすまなかった! お前はいつもつれないが、やはり私のことが好きなのだね!」


 そう言って、嫌がるおたまを抱きしめ何度も頬擦りをする。

 その時のおたまは、もうヘイマオ嬢の髪の化身ではなく、本物のヘイマオ嬢に戻っていたから、ヘイマオ嬢にとってはとんだ受難だった。


『助けなければよかった! こんな男!』


 ヘイマオ嬢は悲鳴をあげつつ部屋中を逃げ回る。

 傍目には飼い主の気を引こうとして逃げ回っている猫にしか見えないのが少し気の毒だが、ヘイマオ嬢自身が先生のことを本気で嫌っているわけではないことは、今回のことでとてもよくわかった。


 私は力の一部を蛟に与えた。

 とはいえ、それはとても簡単なことで、大神様が私の頭をすっと撫でただけで、その作業はすぐに済んだ。

 私自身は少し体の力が抜けた気がした程度で取り立ててなにも変化はなかった。


 黒曜石に宿っていた蛟は立派な漆黒の龍になった。


 黒龍は私に言った。

 龍神にしてくれた礼にお前の望みを何か叶えてやろうと。

 しかし、私はその申し出を丁重に断った。


『お前は欲がないのだな?』

「自分の望みは自分の力で叶えたいんです」

『とは言えお前は我が恩人だ。ゆえに我はこれより後、お前を影から守護しよう。お前の身にもしも危機が迫ることがたなら、我はどこにいてもお前を助けに現れるだろう』


 晴れて龍神となることができた黒龍は、立派な黒い鱗を輝かせ、雲と風を従え、西の空に消えていった。



「本当に何も願わないでよかったのか?」


 各務君は私にそう言った。


「ちょっと惜しい気もするけど……でもいいんだ。魔の世界に関わると、ろくなことはない。ただより高くつくものはないからね」

「なるほどね。奇果であるお前の魂魄を欲しがる物の怪は多いからな。願いの成就と引き換えに、お前の魂を奪おうと甘い言葉で誘いをかける物の怪も現れるだろうしな。」

「その時は護ってくれるんだろう? 鏡魂の君?」

「もちろん、使命だからな。それと、吉岡くん。俺はその名前はあんまり好きじゃないんだ」


 各務君は困ったような顔をする。


「どうして?」


 しかし、各務君は理由を言わなかった。

 何かいいかけたようだが、言いかけてやめた。

 私はあえて聞かなかった。


 それでいい。

 今までどおりの各務君でいい。

 守護狐の各務君じゃなく、友人の各務君でいい。


 私はやっかいな力を持ってて、しかもどうやら完全な人間ではないようだけど、それならそれで、楽しく過ごせればいい。

 物の怪の友達も人間の友達も、さほど変わらないだろうと思う。


 見鬼の能力はこれからも私をきっと悩ませるだろう。

 だけど私は考える。この力とうまくつきあえる方法を。


 ヘイマオ嬢も、各務君も、その他諸々の物の怪も、わがままで、やっかいもので、時には恐ろしく、そして時に優しい異形の隣人たちだ。

 この、やっかいだけど得がたい隣人たちを見て、関わることのことのできる力を私は少しだけ誇りに思うことにした。


 私は願う。

 これからも鬼を、物の怪を見ることを。




 各務君は話題を変えようとして、にやにや笑いながら言った。


「それにしても、あの仏蘭西料理は美味かったな。また、俺の下男として連れてってやろうか?」

「狐の下男などごめんだよ。いつか自分の稼いだ金で堂々と美味い仏蘭西料理を食べてやるさ。その時は私が君に好きなものをごちそうしてやるよ」

「大きく出たな」

「せめて夢だけは大きくもちたいしね」

「吉岡君らしいな。では、その日を楽しみに待っていよう」


 各務君は悪戯っぽい顔で、私に笑ってみせた。

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