第26話 名無しの悪人
【無我境界 ???内】
私。
私?
ワタシワタシワタシワタシワタシワタシワタシワタシワタシワタシワタシワタシワタシワタシワタシワタシワタシワタシワタシワタシワタシワタシタワシ?
「よぉ。壊れてんな」
ワタシ?
「俺はお前じゃない。それだけは確かだな。ただ、誰何されても困る。俺だって自分が誰かなんて知らないんだ」
ワタシ……私、ではない、誰か。
「そう。自他の差でしか自分を測れない人間という生き物の愚昧。今はそれを活かせ。じゃなきゃ、お前はお前で在れなくなる。まだ「在りたい」と願えるなら、やってみろよ。見物(エンタメ)してやる」
暗闇というよりも虚無と言うべき空間だった。いや、天も地もない以上、「空間」と呼ぶのは語弊があるかもしれない。「何もない」という状態を認識するために「黒」という認知を敷き詰めている──そんな感覚に近い。おそらく実際には黒ですらないのだ。
そんな無窮の黒の中にぽつねんと彼は浮いていた。学生のような風貌で自然体で立ち、こちらをのぞき込んでいる。身長はそう高くなさそうだが、どうも今の「私」という存在はかなり小さくなっているらしい。頭上に巨人が佇んでいるようだ。
……小さくなっている?
つまり、元々このサイズだったわけではない?
うん、いい調子だ。少しずつ思い出せている。
このまま彼と交流すれば「私」のことがもっと分かるかもしれない。
名無しの彼は黒の詰襟に黒のスラックスという所謂学ラン姿で、首元にはマフラーを巻いていた。油断なく細められた眼光は鋭く、どこか近寄りがたい雰囲気を纏っている。だが一方で服装に乱れはなく、髪も染めていない。見た目だけなら、むしろ真面目そうな印象だ。不良学生のような剣呑さと、優等生のような素朴さを併せ持った独特な佇まいの少年である。
「えっと……ここはどこですか?」
ようやく言葉が安定し、声も出せるようになっていた。言ってからそれに気づく。
「無我境界の最下層、ゼロベース。そう呼ばれてるのは知ってる。どうやって知ったかなんて聞くなよ。気づいたら知ってたんだから。……つか、俺からも聞かせろよ」
「何でしょう」
「お前こそ、どうやってここに来た? ここはウェズリーにも認知できない……いや、ウェズリーこそ『絶対に認知できない場所』だ。ウェズリーに冒された人間は逆立ちしたって来れないし、冒されてなくても普通は来られない。そもそも、ここは俺の独房だ。二人用には出来てない」
ほんの少し考えてから答える。
「わかりません」
「……まぁ、そうだよな。別にいい。実を言うと対して興味もない」
じゃあ、なんで聞いたんだと思う。しかし、考えてみれば「私」一人では「どうやって来たか」を疑問に思うことすら出来なかっただろう。今だって心はやけに平静で焦りは微塵もないのだ。自分の変化にこうも鈍感であれてしまうのは、元の素質なのだろうか、あるいは無我境界の影響なのだろうか。
「他に聞きたいことないのかよ」
痺れを切らしたように彼は訪ねてくる。ゆったりと考えてから尋ねる。
「貴方はここを『独房』と言いましたが、何か悪いことをしたんですか?」
無遠慮、無配慮、無神経の3拍子揃った質問に彼はあっけらかんと答えた。
「あぁ。何をしたのかは覚えてないけどな。俺が悪人なのは間違いない。俺がここで鮮明でいられるのは俺が自分を『悪人』だと定義できるからだ。だから『独房』。間違ってないだろ」
自分が何を成したのか覚えていないにも関わらず、自分を悪人と断定できる強烈な自認。確かにそれがあれば、この虚無でもヒトとしての形を保てるのだろう。
……「私」にはそういった強い意志はないんだろうか?
ポケットを探るように、自我をまさぐってみる。何か綿埃や塵でもつかめたらと手を伸ばすが、そもそも手には無数の穴が開いていて、もし何かあってもこれではつかめないだろう、と気づいて止めた。それを見ていた彼は大きなため息を吐く。
「あーあ。お前、元々結構マイペースだろ。その調子じゃあそのうち消えておしまいだ。ま、俺も気まぐれは辞めてこの無間地獄を楽しむとするさ。じゃあな、もう会うこともない『お前』」
「……あ」
「どうした」
「これ、は……」
穴だらけの手を引っ込めようとしたとき、ぶつかった「それ」を取り出す。
「おいおい。スマホってお前。SNS中毒か? インフルエンサーか?」
「父さん」──知らない誰かの声が脳裏で呟いた。その瞬間、胸の奥で何かがきらりと光った。流星のように明るく、太陽のように優しく、青空のように代えがたい光。確かに、「私」は光を持っている。
……「私」が消えるのは一向に構わない。でも、それじゃあ同時にこの光をも消すことになる。それは少し、寂しいな。
光は、影の輪郭を描く。影が光を知り、世界を祝福するとき──「私」は再誕する。
「マイペース極まりないな。で、誰だお前は。名乗れる名前があるなら言ってみろよ、『俺じゃない誰かさん』」
「私」がこの独房に間借り出来たのは存在があやふやで消えかけていたからだ。存在の境界が描かれ、色を取り戻した今、もはやこの独房に居場所はない。
「ありがとう、親切な悪人さん。私はバーソロミュー・デュノア。夜番です」
名無しの悪人は名前などに興味はないようだった。だが、その瞳は間違いなく、存在を定義する線を見つめて、細められていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます