第4話 『たまごかけごはん』

 言葉が尽きた部屋で、潔良はただ、口をつぐんでいた。

 風呂でぶっ倒れていた――という数刻前の状況説明には、なにかしらの含みがあるような気配が、感じられたからだ。

 なにか、粗相そそうをしてしまっていたのだろうか。

 初めて酒を飲んだとき、前後不覚になってしまった苦い記憶を想起し、顔が熱くなる。

 ……そもそも。オレはなぜ、「風呂でぶっ倒れて」いたんだったか。

 何か。

 なにか――。

「まだぼーっとしてますね。大丈夫ですか?」

 気だるさのまつわりつくような思考を遮るように、楚唄が横から、そおっと覗き込んできた。

 彼の、ななめに傾げられたかんばせにかかる、前髪。

 その隙間から、真黒な目がゆっくりとまばたきするのが、見えた。  

 明滅めいめつしている踏切の赤色灯せきしょくとうを、じっと眺めていたときのような、感覚。

 頭痛のきりがじくりと刺さり、潔良は顔をしかめた。

「ああ、悪ぃ。ごめん。アレだわ。まだ、なんか頭が……うまく、働かねぇわ」

 楚唄はそれを聞き、気づかわしげな表情を浮かべた。

「もう少し、ゆっくりしてたほうがいいですよ。考えすぎると、知恵熱が出てしまいます」

 しゃっちょこばった顔でそんなことを言うので、潔良は思わず吹き出した。

「ぷっ。……なんだよそれ」

 たまにヘンなこと言うよな、楚唄って。

 くっくっ、と、小さく笑うのを眺める彼の瞳は、すでに分厚いすだれの奥へと隠れてしまっていた。

 やさしくゆるんだ、彼の口元。

 潔良はどこか、溜息でも漏れ出るような気持ちで、それに目を留めていた。

 視線に気がついたらしい。

 楚唄がわずかに首をかしげて、なんですかあ、と言った。

「あ。えっと、……えー?」

「……」

 楚唄は言葉を発することもなく、微動だにせずに潔良に視線を向けている。

 とめピンで固定された蝶々の標本みたく、部屋の空気が、少しずつ、

 いや、より正確な表現に徹するならば、彼のまえの、まるで表情のうかがいしれない男のまとう雰囲気が、少しずつ、

 じわりじわりと、ミルクにとけるコーヒーのように質の変わっていくのを、目前にしながらも、動けないでいた。

 ――ゆっくりと。

 なめらかなスローモーションで伸ばされた、彼のしろい右手が、潔良の頬を、するり、と撫でた。

 潔良の目が、知らずうるむ。

 ふるりと頭を振り、じゃまだ、とでも言いたげに楚唄が、顔を覆うすだれをわきにやった。

 真黒な目はどことなく、熱に浮かされたような扇情を帯びていた。

 楚唄がゆっくりと、潔良の正面に移動する。

 向かい合う。

 半びらきになった唇を、添えた手の親指で引きずるように、感触の余韻を彫りつけるように、ていねいに、なぞる。

 愛撫あいぶを受けた彼の両の眼が、恍惚こうこつとろける。

 ばら色の彼の頬と、血の気のなくほそい楚唄の指が、どの角度から見ても対照的なコントラストを作り出していた。

 ぐうぅうぅっ、と。

 不意に、間の抜けた音が室内で反響した。

 数秒遅れて、煩悶はんもんの表情で、楚唄から顔をそむける。

 彼の両手は、寝乱れたパジャマからのぞく、おなかの部分へと走った。

 楚唄がそちらへと顔を向け、口を開く。

「氷寄さん。もしかして――おなかが空いてるんですか?」

 問いかけに、潔良は目を伏せ、ちいさく頷く。

「……今日、昼飯食い損ねた」

「ほんとですか? なんてことでしょう」

「なんてことでしょう、って……」

 へんてこな言葉づかいに困惑する潔良をよそに、楚唄はむくれた顔で言った。

「ちゃんと食べなきゃダメですよ! 死んじゃいますよ?」

「大げさだよ、一食くらいで。課題レポートが間に合いそうになかったからさぁ」

「課題はまあ、大事ですけど。……それはそれとして、ごはんはちゃんと、毎食しっかり食べてください。じゃないと、肝心のレポートも零点れいてんになっちゃいますよ?」

 鼻息荒くさとす楚唄。

 潔良はめんどくさそうに、わかったわかった、と返す。

「もう。台所貸してください! 何か、作りますから」

「おお、いいのか。ありがとう」

 でも、冷蔵庫にたぶんいま、何もないと思うぞ。

 潔良は数秒天井を見つめ、後ろめたそうに打ち明けた。

「夕方、帰りがけにスーパーに寄る予定だったけど、華麗に忘れてたんだよな。ちなみにこれ、わりとよくある」

「はぁ?」

 楚唄が目を三角にした。

「あきれた……。日ごろからそうなんですか。もうほんと、ちゃんと食べてくださいよ……」

 嘆かわしいと言わんばかりにゆるゆるとかぶりを振って、楚唄がベッドサイドにかがみこんだ。

「でも、安心してください。栄養のつくものを、ちょうど持ってきてたところだったんですよね」

 がさごそと音がしている。

 真黒いもさもさした後ろ頭が、潔良の足元のほうでうごいていた。

 伸び上がってそちらを窺う。

 彼はどうやら、カバンの中から何かの食材を、取り出そうとしているようだった。

 よし、と小さく呟き、楚唄が手を出して、こちらに差し出した。

「これ……卵?」

 潔良が尋ねる。

「そう。たまごです」

 にこにことして、楚唄が言う。

「栄養満点ですよぉ」

「へー。つやつやしてて、美味おいしそうな卵だなぁ。っきいし、なんか高級そうだ」

 ほんとうにいいのか? こんなすごそうなの?

 目をキラキラとさせる潔良に、楚唄は力いっぱい頷いた。

「もちろん、もちろん! むしろ、氷寄さんに食べてほしいんですよ! なんてったって、こんなにも質のよい――のたまごは、中々手に入りませんからね」

「え? なんて?」

「だから、――のたまご、ですよぉ。知らないんですか?」

「え……?」

 眉根を寄せる潔良を見て、楚唄はぱちぱちと目をしばたたいた。

「あー」

 きょろ、と彼の目が動く。

 右斜め上の方角を数秒、見つめる。

「えーっと。にわににわいたにわとりのたまご、って、言いたかったんです。カミカミだったからかな、聞き取れなかったみたいですね」

 照れたように苦笑する楚唄。

 潔良が、カリカリと頬を掻いた。

「なんだよ……滑舌悪すぎんだろ。何事かと思ったわ」

「いやぁ、すみません! 早口言葉は苦手で」

 両手を合わせて頭を下げ、続ける。

「それに……」

「それに?」

「……氷寄さんのお部屋に、こんなふうにしているのって、なんだかちょっと――緊張しちゃって」

「お前なぁ、そういう冗談言うなよ。良くないぞ」

 口をとんがらせてとがめる潔良。

「ふふ。ごめんなさぁい」

 おどけてみせ、楚唄はたまごを軽く振った。

「じゃあおわびに、僕がこれで、そうだな……たまごかけごはんでも作りますよ」

「おっ、ありがとう。醤油と白飯しろめしくらいなら、さすがにあったはずだぜ」

 台所借りますねー、と言葉を残して、楚唄がキッチンに消える。

 炊飯器のフタを開ける音がして、しゃもじがかまをこそげる音がそれに続く。

 けっこうギリですけど、一膳いちぜんぶんはありますね……こうも材料がなかったら、ふつうにたまごかけご飯くらいしか無理じゃないですか、全くもう――。

 そんな楚唄の独り言が聞こえてきて、潔良の目元が少し、ゆるんだ。

「あっ。……すみませーん、氷寄さーん。醤油、入れすぎちゃいましたぁ」

「あらら。もうそんままでいいよ、ごはんもう、なくなっちゃったんだろー?」

 間延びした声をやまびこのように返すと、いた感じのする足音がとんとんとんっ、と近づいてきた。

 ドアの隙間から、楚唄の顔がひょっこりとのぞく。

「まさか……聞こえてたんですかぁ?」

「顔真っ赤だぞ、楚唄」

「うわぁ、恥ずかしい……」

 けっこう独り言言っちゃうタイプなんですよね、僕って。

 ぼそぼそとした呟きとともに、湯気を立てる茶わんが、潔良の前にそろりと置かれた。

「スプーンを持ってきてますよ。はしだと、さすがに食べれないですよね」

「おー、こまやかな気遣きづかい。ありがとうな。……うわ確かに、めっちゃ黒いな」

 卵の黄色が二割、醤油の黒色が八割、くらいの色合いだった。

 手渡されたちいさめのスプーンですくってみると、とろりとした光沢に食欲が刺激される。

「うまそー! いっただきまーす、……ん! この色合いのわりには、そんなにびちゃびちゃもしてないし、塩辛くもないな。ちょうどいい。めっちゃおいしいぞ、これ!」

 よほど空腹だったのか、すごい速さで手を動かして、あっという間に、出されたたまごかけごはんを平らげてしまう。

 その様子を楚唄は、うれしそうに微笑みながら眺めている。

「ごちそうさまでした!」

 ベッド横の小机こづくえの上に、食べ終わった茶わんがおかれる。

 触れ合った食器と、さじとが、わずかに涼しい音を立てた。

 はつらつとした笑顔で、潔良が楚唄に笑いかけた。

「ふう……。いや、おいしかったぁ! また食べたいわ」

「気に入ってもらえたみたいで、なによりです。……あっ!」

 そんなに喜んでもらえたなら、次もまた作りましょうか?

 楚唄からの提案に、目覚めたときはまるで生気のなかった目が、きらきらッ、と輝く。

「いいのか⁉ ありがと! 楽しみにしてるな!」

「ええ。食べたくなったら、いつでも――呼んでくださいね?」

 楚唄が、軽くなった茶碗を手に取り、にっこりと微笑む。

 その手の中で、わんの底に残った黒いしずくが、ほんのかすかに、――揺らいだ。

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