1-1:夢か現か、ギャルゲの世界
「ええと……先生?」
数秒の間を置いて絞りだすように声を出した。これが精一杯だった。
理解が追い付いていない。現実が意味不明的局面を迎えている。
「どうした?」
俺はその言葉を無視して周囲を左右へ見渡した。
目の前には教卓があった。そしてその前にはずらりと横8列縦5列で並ばれた机とそこに座る生徒たち。俺が今通っている大学のキャンパスではないのは明らかだ。だって完全に中学や高校の教室の雰囲気だ。更に言えばただの公立の学校にしては空間が洗練とされている。教室の背後には高そうな壺が置かれ、調度品は全て漆で塗られたように立派で華がある。てか生徒の制服、特に女子生徒の制服とか見覚えあるな。藍色のスカートに、特徴的な白線が入った黒いYシャツ。そして白いブレザー。
……これってブルメモの制服じゃね。
「自己紹介だぞ?」
「いえ……すみません」
怪訝な目で見られてしまってつい俺は謝りつつも、恐らくここがゲームの中だと認識した。こんな制服現実に無いし、コスプレとしても状況が歪だ。それに教室の内装だって完全に蓬莱院の高貴な感じが滲み出てるし、よく見てなかったがゲーム内でも確かにこんな教室だったような気がする。
……まあ多分夢か何かだろう。流石にゲームの中に閉じ込められちゃうSF展開に酔いしれるほど俺だって子供じゃない。夢ならばいつか醒める。なら、それまでは完走後のエンディング気分で最後のブルメモを楽しもうじゃないか。
で、なんだっけ。
自己紹介か……自己紹介ねえ。俺転校生なんだ。
黒板を見ると白いチョークで既に名前が書かれていた。
『
どうもこの夢では俺はブルメモの主人公という設定のようだった。
ならまあ、俺の本名を言うのは得策ではないな。
「……榊田恭吾です。色々と不慣れですがよろしくお願いします」
「不慣れじゃないだろ君は」
どういう意味だ?
ぽかんと口を開ける俺に対し、そんなにも担任の突っ込みが可笑しかったのか生徒たちが一斉にクスクスと笑った。
「まあそういうわけで榊田は2年に家庭の事情で転校したんだが今年になって蓬莱院に戻ることになった。榊田のことを知っている人間もいるだろう。校舎の設備案内は不要だと思うが、勉強面は難しいかもしれないから手助けしてやってくれ」
そう言うと担任は空いていた教室窓際最後方の席を指差した。ラノベ主人公の特等席だがギャルゲ主人公もまたその位置なんだな。
いやそんなことはどうでもいい。
それ以上に本当にどういう状況なんだこの主人公は?
ブルメモではステータス不足で担任から言われて高校2年で転校する選択肢を選んだ場合、その瞬間ゲームオーバーで周回プレイに入る。つまり3年生になってまた戻ってくるなんてシナリオは存在しない。意味が分からない。夢だから一々考えても仕方がない気もするが、数多の周回を繰り返したせいかなんか引っかかる。
とりあえず指示された席に座ろうとして、横の席に座る少女に気付いた。
この子、
でもよく考えてみれば万里は主人公とは違うクラスだったはずだ。3年間同じクラスであるメインヒロインがこの教室にはいないことがその証左である。
つまり転校生となったことで俺の所属クラスが変化してしまった……?
良く分からないが、そういうことらしいと納得しておく。
「榊田……?」
心中で自分を納得させるように頷いていれば万里に話しかけられた。
「俺に何か?」
「───いやプレイヤー?」
「……!」
何故その単語を……!?
表情筋が強張るのを感じる。万里は眠そうな瞳のまま、値踏みするように俺の全身を下から上まで眺めた。
プレイヤーという言葉を使ったという事実、それはそのまま万里がこの世界がゲームの中であると認識していることを意味する。言うまでもなく、このブルメモというゲームはメタ要素の無い純粋なギャルゲーだ。ヒロインが現実世界のプレイヤーを認識しているような昨今のヤンデレホラーゲームではない。
万里は言葉を紡げずにいる俺にため息を落とす。
「まあどうでもいいか。でもここでクラスメイトになったから、二つ忠告してあげる」
「忠告……?」
「この学校では夜道には気を付けること。それから絶対に本当の名前は名乗っちゃダメ」
「は、はあ……なんだそれ」
夜道……? 名前……?
俺は何の忠告を受けているんだ?
ブルメモに関してはトロコンの過程でかなりやりこんでいるはずなのに、さっぱり意味が分からない。
「確かに忠告はしたから」
そう言って俺から関心を喪ったように万里は視線を外して再び前を向いた。
何かを聞こうにも思考が纏まらない。今の頭じゃ何も整理できず、話を混乱させるだけだ。俺は万里に倣って未だ朝のホームルームを続けている担任の話を聞く姿勢を作った。だが思考で巡るのは現状の不可解さだ。
さっきまでゲームをしていたはずの俺が、どうして今ブルメモの世界にいるのか。
なぜ俺が榊田恭吾なのか。
万里の忠告の意図はどこにあるのか。
全く理解が出来ない。何が起きているんだ本当に。
これは夢……なんだよな?
結局、その後恙無く授業が始まったものの全く集中出来る訳もなく気づいたら昼休みになっていた。
見知らぬクラスメイトから囲まれることを恐れて俺は授業が終わって早々にトイレに籠った。
この3時間の微睡の間で俺はこの現状に対する結論を出していた。
そう、これは夢に違いない。
極めて理性的な見解だ。
ブルメモの世界に入って、ブルメモのキャラと机を並べて授業を受ける?
そんな現実があるのであれば今頃現実はファンタジーだ。
ファンタジーというのは現実に存在しないからファンタジーなのである。例えば魔法が令和の日本社会で発生する期待値はどう高く見積もっても0%から動かないだろう。何故なら歴史上魔法とされてきた現象はここ200年の産業文明の発展に伴って科学的根拠を伴った立証がされていて、科学によって未知が解き明かされ尽くしかけている現実世界では魔法の介入する余地が余りにも少ない。
だからこそファンタジーに夢を見るのが俺を初めとした一般市民の見解だ。つまるところファンタジーとは御伽噺であり、娯楽コンテンツと同義であって、決して現実世界に顔を覗かせていい類のものではない。
だがそれを全面的に肯定するにはこの
教室に居たクラスメイトたちは確かな輪郭と質量を持っていて、さながら実在しているようだった。教室内や廊下、このトイレだってゲームにありがちな美麗ながらも人々が見たい場所だけ切り取ったような単調なテクスチャではなく、汚れもあれば規則性のバラツキもある。トイレの便器に視線を落とせば水洗浄で取り除ききれなかった汚れが残っていて、眼前のトイレのドアを触れば多少遊びがあるようにガタリと動く。夢と認めようとする理性に対してこの現実感が俺に警告を与えているような錯覚すら感じた。ここは夢じゃない、現実だと。
云々と悩みながらもスマホを確認して授業が始まる直前まで俺はトイレに立て籠もった。因みにスマホで情報収集してみたが大した情報が無かったどころか、さながら昔のインターネットのような簡素な検索エンジンで碌なページが引っかからなかったことを明記しておく。
恐る恐る教室まで戻り、5限と6限を受ける。
万里は相変わらず淡々と授業を受けており、俺へは一切関心を持っていないような雰囲気を抱いていた。
思えば俺───ではなく榊田恭吾は誰を攻略していたのだろうか?
担任の口ぶりから榊田が転校したのは高校2年の初めだ。最初の1年間で誰かヒロインを攻略していても可笑しくないはずなのだが……いや転校したということはステータスが著しく低かったということ。仮にヒロインを攻略する意思があったとしても、関係値は大したことはないのか?
「ここ、榊田答えてみろ」
そんなことを考えていれば教師から当てられてしまった。今は数学Ⅱの授業だった。
二次関数の微分だか積分だかの単元から出題された問題らしい。黒板に意味不明な数式が呪文のように書かれている。
マズいな。数学なんて高校二年生以来だから覚えてないぞ。受験でも私立文系コース選択だったから使ってないし。
そんな俺の不安と謎の焦燥感を蹴とばすように脳が360度回転して俺の口は勝手に開いた。
「4-√2です」
「……正解だ。だがちゃんと授業を聞くように」
意地悪が失敗したように不満気に授業へ戻る数学教師に、おおっ、と周囲から驚く声が聞こえてくる。
それよりもなんだ今のは……!
さっぱり理解できなかったはずなのに、自然と分かった。しかも暗算でだ。
自分の数学力は十全に把握している。数字を見ただけで考えるのが億劫になってくる数字アレルギー持ちだから高校時代は赤点連続だったのに、こんなことは有り得ない。
知らない内に頭を打って天才になってしまった……訳はないな。
夢……だからだろうか。
それ以外に理由なんて思い当たる節が無い。夢というのは普段は意識していない願いや憧れといった深層心理を具現化させるとか聞いたことがある。俺だって数学出来る人間に憧れは抱いていた時期はあるし、そうなれれば人生もっと違う未知があったんじゃないかと考えることだって何回もあった。でもそうじゃなかったから俺は文系を選んだのだ。
なるほど、夢なら納得だ。
夢特有の全能感ってやつだなきっと。
何度かその考えを咀嚼して、そうに違いないと自分を騙すように納得させた。
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