第2話『彼女の正体』

 波の音が、静かに耳に届く。


 空は赤く燃え、太陽は水平線にゆっくりと沈もうとしていた。

 雲は薄く引き伸ばされたように広がり、夕陽の光を受けて縁が黄金色に染まっている。

夜へと移り変わる気配がじわじわと迫っていた。


 背後の街を振り返ると、坂道沿いの家々の屋根が規則正しく並び、小さな商店の看板が西日を反射している。

 ガラス窓に映る光がちらちらと揺れ、洗濯物が干されたベランダには、まだ夏の残り香が漂っているようだった。

 街灯がゆっくりと灯り始め、夕焼けに染まる町並みが、徐々に夜の輪郭を帯びていく。

 遠くに見える山の稜線は薄紫に沈み、山の向こう側から夜が静かに広がろうとしていた。


 夏の終わり。

 すべてが黄金色に染まりながら、確実に夜へと向かっていく。


 波打ち際に立つ少女の姿が、沈みかけた太陽の光に溶け込むように見えた。


 「君も、この夏に閉じ込められてるんでしょ?」


 彼女は、柔らかく微笑みながら言った。


 白いワンピースは潮風に揺れ、肩まで伸びた栗色の髪が、夕陽を受けて透けるように輝いている。

 風が吹くたび、布がふわりと持ち上がり、細い手足の輪郭が一瞬だけ露わになる。

 裸足のつま先は、寄せては返す波に濡れ、足跡が残るたびにすぐに消えていった。


 僕は、思わず息をのむ。

 彼女が何を言っているのかは、わかっていた。

 この町が8月31日を繰り返していること。

 僕だけが、それに気づいていること。


 でも――彼女は、一体何者なんだ?


 「……君は誰?」


 思わずそう問いかけた。


 少女は小さく首をかしげる。


 「誰だろうね」


 「え?」


 「私にも、よくわからないんだ。でも、気づいたらここにいたの」


 さらりとした口調で、彼女は言う。


 「ここって……この町?」


 「ううん」

 彼女は少し目を伏せ、それから静かに波打ち際を歩き出した。


 「この夏の終わり、かな」


 背後では、山の端がゆっくりと影を広げ、町の灯りが一つ、また一つと灯り始めていた。

 たなびく雲の間から、紫がかった夜の気配が滲んでいる。


 彼女は、まるでそこにいるのが当たり前のような足取りで、裸足のまま波打ち際を歩いていた。

 波が寄せるたびに、細い足首が濡れ、冷たい海水が彼女の足跡をさらっていく。


 「君ってさ」


 不意に彼女が言う。


 「こういうもの、好き?」


 僕が答える前に、彼女はしゃがみ込み、砂の中に手を伸ばした。


 「……ほら」


 彼女の細い指の間には、小さな貝殻が挟まれていた。

 淡いピンクがかった、つるりとした表面の巻貝。


 「君にあげる」


 そう言って、何の前触れもなく、それを僕に差し出した。


 「なんで?」


 「なんでだろうね?」


 僕は戸惑いながらも、それを受け取った。

 掌に乗せると、ひんやりと冷たく、わずかに潮の香りがした。


 「綺麗でしょ?」


 彼女が微笑む。


 「……うん」


 その貝殻が、なぜか妙に大切なものに思えた。


 視線を上げると、彼女は静かに海を見つめていた。


 海は、太陽の光を失いながら、深い藍色へと変わりつつあった。

 波の間にきらめく光の粒は、一つ一つが星のように見える。


 遠くの街並みには、車のヘッドライトが光の筋を描き、小さな商店の明かりがぽつぽつと灯る。

 それらが、まるで地上の星のように、夜へと沈みゆく町を優しく彩っていた。


 「君は、夏の終わりが好き?」


 彼女の問いに、僕は少し考えてから答える。


 「うん……たぶん、好きだと思う」


 「どうして?」


 「わからない。でも、夏が終わる瞬間って、何か特別な感じがするんだ」


 それは、子供の頃からずっと感じていたことだった。


 夏休みの終わり、まだ暑さが残る夕暮れの空気の中、どこか取り残されたような気持ちになる。

 寂しいような、でも、その寂しさが心地いいような――そんな感覚。


 「夏が終わるのって、少し寂しいけど……でも、だからこそ、綺麗なんじゃないかって思う」


 僕がそう言うと、彼女は目を丸くした。


 「ふふ、君って、面白いね」


 「そうかな」


 「うん。私ね……君のそういうところ、好きかも」


 彼女は小さく笑った。

 どこかあどけなくて、それでいて、遠い記憶の中にあるような、そんな笑顔だった。


 その時、僕はふと、彼女の正体を知りたくなった。


 「……君は、一体何者なんだ?」


 彼女は少し考える素振りを見せ、それから静かに呟く。


 「……私はね、この夏の終わりなのかもしれない」


 その言葉は、風に乗って、静かに消えていった。


 僕は立ち止まり、彼女を見つめた。


 彼女は、ゆっくりとこちらを振り返り、穏やかに微笑んでいた。


 波が、また彼女の足元をさらっていく。

 海は、ひどく静かだった。


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