第3話『二人だけの夏の終わり』
空がゆっくりと色を変えていく。
昼の熱気を帯びた空気は、少しずつ冷たくなり、海風が頬を撫でるたびに汗が引いていくのを感じる。
西の空は茜色に染まり、その中をいくつもの雲が、金色の縁取りをまとって流れていく。
高く広がる空の隅には、すでに薄い群青が滲み始め、夜の気配がゆっくりと町へ降りてこようとしていた。
振り返れば、海沿いの道を挟んだ向こう側に、商店や住宅が並んでいる。
窓ガラスに夕陽が映り、道路には長く伸びた影が交差している。
細い路地の奥では、自転車を押して歩く人の姿が見え、遠くで犬の鳴き声が響いた。
昼間とは違う、少しだけ落ち着いた時間が流れ始めていた。
僕と少女は、並んで歩いていた。
「ねえ、アイス食べたくない?」
突然、彼女がそんなことを言い出した。
「アイス?」
「うん。ほら、あそこ」
彼女が指さした先には、商店が一軒。
外壁はどこか色褪せ、ガラス戸には『冷たいアイスあります』と書かれた古びたシールが貼られている。
「暑いしさ、甘いもの食べたくならない?」
僕は少し考えたが、反対する理由もなかった。
「じゃあ、食べようか」
商店の中は、外の熱気を忘れさせるほど涼しかった。
奥のほうにある古い冷蔵ケースには、いくつものアイスが並んでいる。
僕は適当に選んで棒付きのアイスを手に取り、彼女はカップに入ったシャーベットを選んだ。
レジの前に立つと、店主の年配の女性が僕らを見て微笑んだ。
「今日は暑かったねぇ」
「はい、でも風が少し涼しくなりました」
「そうだねぇ。もう夏も終わりだからねぇ」
その言葉を聞いて、僕は少しだけ胸の奥がざわつくのを感じた。
終わらないはずの夏。
それでも、確かに『夏が終わる』という感覚が、この町にはあった。
僕は会計を済ませ、店を出た。
「何買ったの?」
店先で彼女が尋ねる。
「チョコのアイス」
「へえ。私はレモンシャーベット」
彼女はカップの蓋を開け、スプーンで少しすくって口に運んだ。
「うん、おいしい」
満足そうに微笑むその表情を、僕は何となく見ていた。
ワンピースの裾が風に揺れ、沈みゆく太陽の光が彼女の髪を柔らかく染めている。
まるで、この景色の一部としてそこにあるようだった。
僕もアイスをひとかじりする。
冷たさと甘さが口の中に広がり、少しずつ溶けていく。
「君は」
彼女が静かに口を開いた。
「この夏に、何か特別なことあった?」
僕は少し考えた。
何度も繰り返してきた8月31日。
最初の頃は違和感があったけれど、今ではそれが当たり前になっていた。
特別な出来事なんて、何もなかったはずなのに――。
「……わからない。でも、今こうしてアイスを食べてることも、悪くない気がする」
彼女は、ふっと笑った。
「それでいいんじゃない?」
「いいのかな」
「うん。大事なのは、今の時間が心地いいかどうかでしょ?」
彼女はそう言うと、シャーベットをもう一口食べた。
僕はしばらく彼女を眺め、それからゆっくりと歩き出す。
彼女も僕の横に並び、海沿いの道を歩き始めた。
空には、最初の星がちらちらと輝き始めていた。
波の音は静かに響き、遠くの町の灯りが、徐々に夜の色に染まっていく。
「夏の終わりって、なんだか夢みたいじゃない?」
彼女がふいに言った。
「夢?」
「うん。はっきりしてるようで、なんとなく曖昧な感じ」
僕は彼女の言葉を反芻しながら、海を眺めた。
穏やかな波の上に、空の色が映っている。
昼の青と夕暮れの橙、そして夜の群青が入り混じり、どこからどこまでが海なのかわからなくなるほどだった。
「……わかるかも」
彼女は小さく微笑む。
「でしょ? だから、私はこの時間が好き」
彼女の声が、風に溶ける。
僕は、そんな彼女の横顔をそっと見つめた。
波打ち際では、子供たちが最後の遊びを楽しんでいる。
砂の上に書かれた落書きや、打ち上げられた貝殻が、柔らかい月明かりに照らされている。
「この時間が、ずっと続けばいいのにね」
彼女の言葉に、僕は答えなかった。
それは、僕も思っていたことだったから。
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