いつの間に
月花 蒼海 PLEC、KKG所属
蟻
母が家に客を呼んだ。自分の客だ。
昼の日差しの下、庭で客である二人の女性と楽しげに話しているのは母で、父はソファーの上で不貞寝していた。なんとも珍しい休日の光景だ。
父が連れてくることはあれど、母が自ら率先して連れてくることはあまりない。近所付き合いだの何だのと言うのをめんどくさいと言って敬遠していた母が客を連れてくる気になったと言うのは確かにいいことなのかもしれないが、それ以上に私は違和感を感じてしまっていた。
先ほど、急に客を呼ぶな、と父はぶつぶつと呟いていた。休日だというのに、庭でバーベキューなんてやられてはうるさくて叶わないと、いう。だが自分がいつも迷惑をかけている自覚はあるためか、父はその後すっかり押し黙ってしまって、今はソファーで不貞寝している。私は膝丈ほどの高さしかない低い椅子の上でテレビを見ていたのだが、後から来た父に番組を変えられてしまった。見ていたアニメをニュースにされて、ニュースから今度は違うニュース、また違うニュース。ニュースでは新しく絶滅危惧種登録がなされたアフリカの猿について放送されていた。キャスターが早口で登録の意味について物語っている。どの番組もそれで持ちきりであった。
父はそれぞれ面白くなさそうな顔をしながらそれを数十秒だけ眺めて、次の番組に変えた。その番組も猿の話であったが、今度はニュースではなかった。画面左うえには「美しい自然をありのままに」という謳い文句が踊っている。珍しくもないネイチャー番組だ。
画面中央には拡大された猿の顔が映っていた。猿は目の周りが赤と青で縁取られており、その中心の眼球は真っ黒。薄暗い樹林の中、木漏れ日をテラテラと輝くその眼に反射させながら、手と尻尾で器用に枝を渡り歩いている。金属同士が擦れるような、甲高い警戒音のような、キー、キー、と鳴いた。人と同じように四肢を持っているというのに、彼らの声は全くもって私たちと似てはいなかった。カメラは必死でその後を追っていたが、あまりにも早く動く猿に置いて行かれてしまって、途中から猿は画面から外れた。すると今度は女性キャスターが画面に映り、興奮した口調で何かを捲し立てている。
父はそれを見ることにしたようで、リモコンをソファーの上に置いて自分はクッションの上に頭を預けた。父の前には小さな机が置いてあり、スマホやリモコンやお菓子などが置かれている。父がポリポリと、袋からつまみ出した菓子を食べている。細かな破片が床に落ちた。くちゃくちゃと音がした。父の目には目ヤニがついていた。弛んだTシャツの下を弄り、少し張った腹を手でかきむしっている。
時計の方に目をやると、ちょうど正午になりかけていた。私はとにかく汗や唾液やよくわからない何かの充満するこの部屋から出ようと、して、一方父はまだ菓子を貪っていた。ポロポロと口の端から落ちる破片はエアコンの風のせいでどこかへ飛んでいってしまっていた。それは床に落ち切ってからもモゾモゾと動いていて、何か新種の生き物に見えなくもない。
靴に足を突っ込みながら、テレビの音を聞く。
『〜ので、この種は絶滅の危機に瀕してしまっているのです』
何の理由も聞かされないまま、聞かないまま、そう言われた。そこだけが聞こえた。絶滅の危機に瀕してしまっているのです。それが悪いことなのか、多分悪いことだと言うのは頭ではわかっているのだが、それでもアフリカという遠い地のことが私には何一つ想像できなかった。
二重扉を開けて外に出ると、母が大手を振って私を呼んできた。私は踵を潰したままのスニーカーで庭に入る。四角い、緑の庭だ。いつも見ているはずのその場所は、どこか漠然とした違和感を帯びていた。庭の草木からは水が滴っていたし、全体が煙たく、それに中央にタープが貼られていたからいつもより手狭に見えたのかもしれない。
「こんにちは」
母と、母の客に声をかけた。彼女らは声のした方を振り返って、あぁ、と頷く。大きくなったわねぇ、そうねぇ立派になってねぇ、間延びした口調で何やら言葉を交わし、だが私は彼女らのことを知らない。窓からはあまりはっきりとは見えなかったが、近くで見るとどちらの女性もかなり化粧が濃かった。肌は真っ白になっていて、目は端の方が尖っている。にこ、と微笑むと頬の端に線ができ、表面に貼られた薄い膜、私と彼女らを隔てる何かが崩れいくように見えた。
一人の女性は真っ白なワンピースに大きな麦わら帽子を頭に引っ掛けていた。私はその人の隣に座った。
「ソラ、お昼ごはん?」
母は嬉々として私に喋りかけてきた。私が最近あまり親と話さないからだろう。母の化粧はあまり濃くはなかった。むしろ、いつもと変わっていないようにも見えた。彼女は微笑んだ。
「うん」
「ちょっと待って、今お皿出すから」
母は自分の席の後ろにある袋を漁って皿と箸を取り出した。私の前に置くと、またニコリと微笑んだ。ソファーで寝転ぶ男が見えた。母の影の中にいた。
「ありがと」
それだけいって、目を伏せた。
白いテーブルは大きく、四人の皿は十分はいるように見えた。母の座る椅子の右側にあるコンロでは、まだ何枚かの肉が油を滴らせながら何かを待っている。母はトングでたまに肉を裏返し、すると一際大きなジューという音が聞こえた。
女性たちは私に挨拶をしただけでそれ以上何か話しかけてくることはなかった。私の母が何かを伝えたのかもしれなかった。母だけは、始終私に微笑み続けた。
「でさ、そのケンタなんだけどさ」
私が入ってきたことで会話を中断させてしまっていたのだろう。白いワンピースの女性は母ともう一人の客との会話を始めた。庭を見渡すと今まで気づかなかった一人の少年の姿が目についた。彼は庭の中ではしゃぐこともせず、地面を見つめていた。
「最近さ、死んじゃって」
「あらまぁ」
「かわいそうに」
母と一人の客が言い、そして私はドキリとした。死んだ、という言葉を聞いて母はこともなげな顔をしていた。私に向かって白い皿を突き出してきた。先ほど私の前に置かれていた白い皿が、今度は肉を4枚乗せて戻ってきた。ジュージューとコンロの上の肉は泣いており、皿の上の肉はその表面にいくつもの油の泡を抱え、たまにそれがプチプチと弾けていた。
「ええ、それでショウヘイ、ずっと泣いて、もう泣き止ませるのが大変だったわ、どうしても埋めてあげたいっていうし、そうすれば泣き止むかも、と思って裏庭に埋めてあげることにしたの、それでおとうさんといっしょにスコップ使って穴を掘って、朝に始めたんだけど埋める頃には夕方になってて、ショウヘイその間ずっと泣いてて」
肉を一枚食べて、喉が渇いた。机の上には先ほどまでなかったペットボトルのお茶が置かれていた。蓋を捻って口につけると、冷たい水がつう、と喉仏の上を通り過ぎていく。母に目をやると、彼女はもう私の方を見ずにワンピースの女性の話を聞いていた。
先ほどの男の子の方を見た。彼はまだ、地面を見つめている。遠目からでは何があるのか分からなかった。そのうち彼は、木の枝で地面に何か絵を描き始めた。先端を置器用に使って、土をいじっている。
「でもね、穴を掘り終わった後、ケンタを埋めてやるとショウヘイはピタリ、って泣き止んだの、まるで忘れたみたいに、それでニカッて笑って。一言バイバイ、って言ったの」
「へぇ」
「それで私がどうしたの、って聞いたらね。笑ってバイバイしないとケンタが戻ってきた時また遊んでもらえない、っていうの。戻ってくるんだ、って信じてたの。涙の跡がついたまま笑うもんだからなんだか可愛くなっちゃって。ショウヘイが泣き止んだら今度はこっちが泣いちゃったの」
「そうかぁ」
母はしみじみと言った。
「でも、すごいね、ショウヘイくんまだ7歳でしょ。なのに犬のことでちゃんと泣いてあげられるのはすごいことだよ、それにそんな深く考えられるのも、すごいすごい、きっと根が優しんだろうね」
ケンタというのが犬の名前であることに、少し安堵した。
私は席を立った。皿の上にあった肉はもうなくなっていた。少年の方に歩いて近づく。母がチラリとコチラをみてくるが、それも一瞬。ドン、ドンという音が道路の方から鳴っていた。私以外の全員がそちらを向いた。祭りなのか、それとも他の何かなのか。最近この田舎へ引っ越してきたばかりの私には分からなかった。
「ねぇ、きみ。何してるの」
少年は白いシャツに黒いズボンを着ていた。この子がショウヘイくんだろうか、と考えた。七歳、それにしてはやけに小さくて利口に見えた。いや、これが普通なのだろうか。七歳といえば小二だから、なるほど確かに一部の子供であれば分別も覚えるのだろうか。
「これ」
彼は地面を持っていた枝でさし示した。草があるせいで何も見えない。絵を描いていたのではないようだった。
「何?」
分からなかったので私は聞いてみた。少年はそっぽを向いた。恥ずかしいのか、なんなのか、彼は私に顔を見せなかった。おとなしそうで気弱な少年だと思った。犬なんかが死んでしまったら、大層悲しみそうだと思った。この子がショウヘイくんなんだな、と私は確信に近い思いを抱いた。
草をかき分け、地面を見る。そこには一つの穴があった。
「あり」
少年は持っていた木の枝を私に見せてきた。顔はそっぽを向いたままだった。木の枝の先端には、蟻の骸がたくさんついていた。蟻の腹が潰れてしまって、木の枝が黒く濡れている部分もあった。頭と胴体が離れてしまっているものもいた。全て動かなくなっていた。
穴をもう一度見た。そこが蟻の巣だったのだろう。だが、今は蟻が一匹も出入りしていなかった。周りには、死屍累々と蟻の死骸が転がっていた。隣に座る少年を見た。少年は、ニタリ、と笑っていた。なぜか、分からなかった。
「君、名前は?」
「ショウヘイ」
「ふーん。白いワンピースを着た人の子供?」
「そう」
「へー」
そういえばさ。
「さっきお母さんたちが話してた犬の話って本当?」
「そう。ケンタは、死んだ」
彼はその時だけ、悲しげな目をして空を見た。手には蟻をの死体をつけた棒を握っているというのに。関係ないようだった。庭の中でも家に近いからか、この場所だと窓から漏れ出たテレビの音が聞こえてきた。家の中にカーテンが、エアコンのせいでフラッと揺れた。中には、先ほどと同じ猿の顔が見えた。この少年も同じなのだろうか。私がアフリカや、大きな大人たちのことがわからないように、彼も周りの何もかもがわからないのだろうか。
「ケンタね、優しかったんだよ」
「へぇ」
「お父さんが遊んでくれない時も、お母さんが遊んでくれない時も、一緒に遊んでくれた」
「へぇ」
「だから僕、待ってるんだよ」
少年は、犬を待っているわけではなさそうだった。死んだということを、わかっているようだった。そこまで無垢でも、馬鹿でもなかった。ただの自分への慰みだと知って、私はもう一度へぇと呟いて席に戻った。風がふっと、私の目の前を通り過ぎていった。母たちは席にいなかった。
席に座った後、ふと足元を見た。黒い埃がついていた。風に揺られて、左右に動いている。特段何かが気になるわけでもなく、それでも私は埃に手を伸ばした。ついていて心地いいものではない。黒い何かを平手ではたき落とす。
どこでついたのかもわからない黒い何かは、一度地面に落ち、その後また、風に揺られて靴を登ってきた。私はまた、払い落とそうとする。
今度は、落ちなかった。その埃が、逆に手についた。不自然な感じがしたので、顔に近づける。埃が、蠢いていた。風のせいではなかった。それは埃ですらなかった。
少年が潰していた、手負いの蟻であった。いやもしかしたら最初は無傷で、でも私が彼を手負にしてしまったのかもしれない。腹が潰れ、六本あるうちの2本の足もあらぬ方向へ曲がっている。いつからいたのかと、私は蟻を庭に放りなげた。見たくも知りたくもない。
ちょうどその時、母が戻ってきた。
「へぇ。こっちではあんな大々的にやるんだね」
「そうそう。偉い人が亡くなっちゃった時なんかは特に。村のみんなで祭り上げましょ、ってことらしい」
「ふーん」
先ほどのどんどん、と言う太鼓を叩く音が葬式なのだとすれば、それはいささか不謹慎なのではないだろうか。たが、こんな山の中の町だ。わからないことが当たり前だと、私は思うことにした。都会とは違うのだと。
母が私の隣に座る。母が話しかけてきた。下を向いていた顔をクイと上げて、その姿を見る。もう一度声がした。母の口は動いていなかった。人の声に聞こえたが、違ったのだろうか。声ではなく鳴き声かも知れず、私は鳥かと疑った。鳥の声が人の声に聞こえるというのも滑稽なものだが、だがその声はどこかぼんやりと聞こえて、あの時の私なら聞き間違えたとしてもおかしくなかった。周りを見渡した。だが、鳥はいなかった。
もう一度聞こえた。
「ばいばい」
蟻を投げた庭の草の中でその声は響いていた。
風が吹いた。下草がザワザワと踊った。ゾラゾワとした感触が背筋を這いあがり何事かと下を見れば足には大量の蟻がしがみついていた。
母が父と離婚したのは、それから一週間と経たないうちのことだった。何もかもがわからないままで、うやむやなままで、私はどこまでも響く声と共に庭に取り残された。
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