オフィス・ボーイ(OB)
黒須えぐる
第1話 出勤
「おはようございます」
僕はオフィス全体に響き渡るくらいに大きな声を、頑張ってお腹の底から出した。
社長の稲葉団十郎という六十歳くらいのお爺ちゃん
(二十三才の僕からするとお爺ちゃんになってしまう。それに、見た目も白髪で側頭部にしか頭髪がなくて、小柄で小太りの人の良さそうないかにもお爺ちゃんといった風情なのだ)
それから、雑用係かつ清掃員の山本サイという、年齢は知らないけれど、おそらく七十歳くらいのお婆ちゃん
(顔に皺がたくさんあり、サイは白髪頭をベリーショートにしている。
小太りで小柄な体型で、やはり僕からすると充分おばあちゃんなのだ)
が満面の笑みを浮かべて僕を見る
「あら、早乙女君。今日も早いわねえ。若いのに偉いわあ」
「本当じゃなあ。今時の若いもんにしては立派じゃ」
僕はふと壁にかかっている大きな時計を見る。よくあるシンプルなアナログの壁掛け時計。その時計は定時の八時半よりも、三十分ほど早い時間である八時を差している。
僕はたいてい、約束の時間よりも三十分早く着くように計算して動いている。
それは仕事以外の待ち合わせの時もそうだ。定時より三十分早く出社しただけで、この二人はいつも褒めてくれるけれど、この二人こそ僕よりよっぽど早い時間に出社している。
「花園不動産」は二十畳程のスペースがあるこじんまいとした不動産営業所だ。
コンビニ跡地のような敷地のベージュがかった外壁に、屋根付近には大きな文字で「花園不動産」と横文字で大きくで書かれた看板がくっついている。
いかにも片田舎の個人経営の不動産会社といった雰囲気のある営業所だ。
僕は部屋の一番隅っこにある自分の机と椅子のある場所に近づく。仕事用の黒い鞄をそっとデスク横にある荷物かけにかけて、椅子を引く。そして、小さな深呼吸をしてその椅子に座る。
「今日もよろしく。僕の仕事道具たち」
僕はそっと心の中でつぶやく。
毎朝、僕はこうして机と椅子、それから机の上に置かれたデスクトップパソコンに向かって挨拶する。物にも人間のような感情があるんじゃないかって、僕はそう信じている。だからこうして僕は、仕事で使うアイテムにも声には出さないけれど毎朝の挨拶を欠かさないようにしている。
僕はデスクトップパソコンの電源を入れて、メールのチェックを行う。未読のメールを一通りチェックすると、お客さんからの問い合わせメールが一件あったので僕はすかさずメールを開く。
メールの内容は物件の見学希望だった。一人暮らし希望の二十代女性。二LDKの賃貸マンション見学希望で、見学希望物件はこの事務所からそう遠く離れていない。
僕はデスク横に置いてある、いらない紙を切り離して作成したメモ用紙の束の一枚めに
「本日見学希望者 十一時に一名あり。一人暮らし希望の二十代女性」
とボールペンで書いた。黒いインクの滑らかな書き心地がたまらないと、うっとりしていた時だった。
「おはようございます」
耳によく通るやや低めの大きな声で、
「あらあ、桐藤君、おはよう。今日も相変わらずイケメンねえ」
山本サイさんは僕たちよりやや遅れて、桐藤竜さんの挨拶に答える。
桐藤竜さんが朝の挨拶を毎朝するたびに、サイさんは同じセリフを返す。
確かに、桐藤竜さんはイケメンだ。釣り目のくっきりとした真っ黒な瞳に、スッと伸びた鼻筋。百八十㎝はあるであろう長身に、スーツの上からでもわかる筋肉質でがっちりとした体型。営業マンにふさわしい爽やかな雰囲気と、人当たりの良い性格。
きっと昔からモテてきていて、今もそれは変わらないのだろうなと思う。桐藤竜さんがイケメンだと、僕もそう思う。だけれども、毎朝言わなくてもいいではないか。
僕だって、彼に面と向かって「イケメンですね」って言いたい。僕は毎朝、桐藤竜さんに「イケメン」と堂々と言えるお婆ちゃんの山本サイさんに嫉妬する。
僕は(このままじゃいけない。仕事に集中しなければ)と、頭を切り替える。そして、桐藤竜さんの目を勇気を出して見て、連絡事項を伝える。
「おはようございます、桐藤さん。すいません、今日は一件だけ十一時から見学希望者がおりまして」
僕は社会人としてふさわしい言葉遣いを意識して、桐藤さんに報告する。
「おはよう。見学ね。了解」
桐藤さんはうっすらと口元に微笑みを浮かべて答える。毎日の外回りで日焼けしたと思われるこげ茶色の頬と、形の良い薄めの唇に、僕は思わずドキドキしてしまう。
「ちなみにどんな人? 年齢は? 女性?」
「はい。女性で二十代です。お一人暮らしのようですよ」
「そっか。十一時ね。了解。連絡ありがとう」
女性二十代と聞いて、桐藤さんが思わず嬉しそうに口元を緩めたのを、僕は見逃さなかった。やっぱり、桐藤さんも普通の男の人なんだよな。僕はかなりがっかりした。こんなことは日常茶飯事で、若い女性がお客さんとなると、嬉しそうにするのは毎回のことなのに、僕はいまだにこの反応に、いちいち傷ついてしまう。
八時四十分になると、朝礼が始まる。社長の稲葉団十郎が司会を務め、僕は先ほど桐藤さんに話した一日の見学者の予定などを話す。この朝礼の時間に伝えるのだから、朝一番にわざわざ個別に桐藤さんに予定を伝えなくてもよいのだけれど、桐藤さんと少しでも話したくて、あえて朝一番に話しかけて伝えるようにしている。今のところ、うざったがられたりされる様子もないから、僕は可能な限り続けようと思っている。
朝礼が終わると、桐藤さんはノートパソコンの入った薄型のビジネスバッグを持ってさっそうと営業所を出て行った。ネイビーのビジネススーツが、細身で引き締まった体型によく似合っている。おそらく新規物件の開拓に行くのだろう。朝礼でそう言っていた。朝礼では桐藤さんと社長が一日のスケジュールを報告する。僕とサイさんは毎日ほぼ同じような仕事のルーティーンが多いから、あえて毎日発表はしない。それは暗黙のルールになっていた。 社長は一日中営業所にいることが多いが、デスクに向かってパソコンと睨めっこっし、何やら1人でぶつぶつと独り言を言っていたり、取引先やらに電話をしたりしている。
サイさんは清掃員という名目で雇われているが、突然の来客対応でお茶出ししたり、ちょっとしたコピーやら簡単な資料作成くらいはできるから、事務補助としての役割もできていて、僕にとってはとても助かっている存在だ。年配女性によくある噂話やら世間話を執拗に仕掛けてくるわけでもなく、仕事中はいたって真面目に働いている。それに、この会社はアフターファイブの付き合いとか、社内飲み会とかもないから、僕はその点でも気楽に働くことができている。
今日は月曜日で、明日の火曜日と水曜日は花園不動産、つまり僕の働く会社の定休日になる。世間でゆう金曜日の感覚。つまり週末の感覚だ。休日の予定は今のところ何もない。そして、特別に予定立てて外出してみたりといった趣味は、僕にはない。ただひたすらに、気の向くままに予定のない休日を過ごす。僕の休日はいつもそんな感じだ。それに対して、特別に良いとも悪いとも思わない。ただひたすらに、時間が過ぎてゆくことに身をまかせている。 時々、サイさんから
「土日休みじゃないと、お友達と予定が合わなくて大変でしょう」
と言われることがあるけれど、僕には友達なんていないから、全然支障がない。それに、僕はどちらかというと、1人でのんびりと過ごすことが好きだ。
というわけで、月曜日は花園不動産にとっての週末なので、社員はみんなあまりやる気がないのが目に見えてわかる。
社長は営業所が暇なら夕方の三時には「りもーとわーくとやらにするわい」とか言ってさっさと帰ってしまうし、サイさんも普段以上にティータイムが長い。今もズルズルと音を立てて湯呑からお茶を飲む音が聞こえてくる。変わらないのは、お客さんの予約状況なんかによって仕事量が変化してしまう桐藤さんだけだ。僕もバレない程度に、定時きっちりの時間で上がれるように仕事量をセーブしている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます