愛しているのは、誰?

雨宮悠理

愛しているのは、誰?

 最近、彼の様子がおかしい。


 遅くまで残業と言いながら、疲れた顔ひとつ見せない。

 スマホを肌身離さず持ち歩き、SNSアプリの通知が来るたびにそっけなく画面を伏せる。

 「この前の土曜日、何してたの?」と聞いても、「んー、家でゴロゴロしてたかな」と曖昧に笑うだけ。


 ――浮気してる。


 直感的にそう思った。


 彼は誠実な人だと信じていた。少なくとも、つい最近までは。

 けれど、こうもわかりやすく態度が変わるのなら、疑うなというほうが無理な話だ。


 世間では「女性の勘は鋭い」なんてよく言うけれど、本当は違う。

 鋭いんじゃない。ただ、気づきやすいだけ。

 普段から何気なく見ているものと、少しでも違うところがあると、本能的に違和感を抱いてしまう。


 例えば、スマホの扱い方。

 例えば、帰宅時間のちょっとした変化。

 例えば、妙に楽しそうな表情をしている夜。


 そのすべてが、「何かある」と物語っていた。


 ――彼は、私に隠し事をしている。


 そのことに気づいたとき、私はすぐに「浮気」だと結論を出した。


 だって、そうでしょう?

 男がこんなにわかりやすく態度を変える理由なんて、他にある?


 決定的な証拠が欲しかった。

 だから、私は彼のあとを尾行することにした。


◇◆◇◆◇


 その日、彼は「会社の同僚と飲みに行く」と言っていた。


 私は仕事が終わると、彼の勤務先の近くのカフェに入り、スマホを弄るふりをしながら待機した。


 そして、夜八時過ぎ。


 彼が会社から出てきた。


 黒いジャケットに、ネイビーのシャツ。

 軽くセットされた髪が、街灯の下で揺れる。


 ――ああ、お洒落してる。


 普段の飲み会なら適当なシャツで済ませるのに。

 やっぱり、今日は「同僚」となんかじゃない。


 私は気づかれないよう距離を取りながら、彼のあとをつけた。


◇◆◇◆◇


 彼が入ったのは、駅前のビストロだった。


 私は遠くの柱の影から様子を伺う。

 彼は一人で席につき、メニューを開いた。


 そして、数分後。


 一人の女性が、彼の前に座った。


 スレンダーな体型に、上品なワンピース。

 艶やかな黒髪を肩まで流し、控えめな仕草で笑う。


 彼はその女性に、静かに微笑んだ。


 ――やっぱり。


 胸が痛くなった。


 お洒落をした女性と、こんなところで待ち合わせて二人きりで食事をする。これが仕事仲間であるはずがない。


 私はスマホを取り出し、証拠として写真を撮った。


 けれど、これだけではまだ不十分だった。


 もしかしたら、ただの友人という言い訳もできてしまう。

 もっと決定的な証拠が欲しい。


 だから私は、彼らの後を追った。


◇◆◇◆◇


 二人は食事を終え、駅前の繁華街を歩いていた。


 楽しそうに笑い合いながら、人混みの中を並んで進む。

 時折、彼が女性の肩に触れる。

 それを嫌がる様子もなく、自然な流れで距離が縮まっていく。


 ――この先は?


 私の心臓が、強く打った。


 そして。


 二人が立ち止まったのは、駅から少し離れたラブホテルの前だった。


 彼が入口の前で立ち止まり、女性と何か言葉を交わす。

 少しだけ迷う素振りを見せて、彼女が頷く。


 次の瞬間。


 彼は、迷うことなくホテルの自動ドアを押し開けた。


 女性がその後に続く。


 ――終わった。


 私は手元のスマホで、その瞬間を写真に収めた。


◇◆◇◆◇


 後日。


 私は彼を問い詰めた。


「この写真はどういうことかな、説明して?」


 スマホの画面には、ホテルへ入る彼と女性の姿。


 彼は目を見開き、言葉に詰まった。


「……お前、尾けてたのか?」


「それが問題?」


 私は腕を組み、冷たく睨む。


「浮気でしょ? 認めなさいよ」


「ち、違う!」


「違わないでしょ。こんな証拠まであるのに」


 彼は何度も口を開こうとしたが、次第に観念したようにうつむいた。


「……悪かった」


 低く絞り出した声。


「許してほしい」


 私はため息をついた。


「仕方ないわね、今回だけは許してあげる」


 彼は目を丸くすると、ほっとしたように笑った。


◇◆◇◆◇


 それから数日後。


 私は彼とホテルの前にいた。


「……本当に、ごめん」


「もういいよ。許したんだから」


 私は微笑んだ。


 けれど、次の瞬間。


「……随分と楽しそうだな」


 背後から、低い声がした。


 びくりと背筋が凍る。


 振り向くと、そこにいたのは――


 夫だった。


◇◆◇◆◇


「お前、なにしてる?」


 夫の目が鋭く光る。


「まさか、浮気してるんじゃないよな?」


 頭が真っ白になる。


 ――違う。違う違う。


 浮気をしたのは彼のほうで。

 私はその証拠を掴んで、問い詰めて、許しただけで。

 なのに、どうして私が責められなきゃいけないの?


「私は……」


 私は何か間違えてしまったのだろうか?


 でも、おかしいのは私じゃない。

 彼が裏切ったのがいけなかった。

 私は、ただ正義を貫いただけで――


 春の夜風が、やけに冷たかった。


 でも――


 今、心臓を締めつけているのは、きっとそれだけじゃない。

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愛しているのは、誰? 雨宮悠理 @YuriAmemiya

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