第6話

 さらに10年が経過した。


 愛のシステムは限界を超えつつあり、身体の一部は動作を停止していた。それでも彼女は篠原のそばにいることをやめなかった。


 どんなに機能が低下しても、愛のプログラムは「主人のお世話をする」という役割を果たし続けた。彼女の存在そのものが、その目的に支えられていた。篠原の部屋は、どんなに時間が経過しても変わらず、愛によって清潔に保たれていた。


 埃ひとつない床、整理された家具、静寂の中で彼女が動き続ける音だけが響いていた。長い年月が経過しても、その空間に漂う時間は変わることがなかった。


 ある日、愛は静かに彼の枕元に座り、かすれた声で語りかけた。


「主人、私はあとどれくらいあなたをお世話できるのでしょうか?」


 愛の目には、光の揺らめきが徐々に失われているのが分かった。それは、彼女の内部バッテリーが劣化し、エネルギーの供給が不安定になっている証拠だった。


 電源が不安定になるたび、愛は一時的に停止してしまうこともあったが、すぐに再起動して、再び篠原のそばに戻った。それでも、どこか虚ろな瞳をしているのは、彼女の内部システムが限界を迎えつつあることを意味していた。


 しかし、愛はそんな状況でも「主人のお世話をする」というプログラムに従い続けた。その動力源は、もはや単なるエネルギーではなく、篠原に対する深い愛情から来ていた。


 篠原の部屋は、以前と変わらず、愛によってきちんと整理されていた。


 しかし、彼女が持ってきたエナジードリンクの数は減っていた。動作能力の低下により、以前のように毎日運ぶことができなくなっていたのだ。それでも、愛はそのことを特に気にすることはなかった。彼女は、「主人が目を覚ましたら、エナジードリンクを置いていたことに気づいてくれるはず」と、信じて疑わなかった。


 それが愛にとっての唯一の希望であり、動き続ける力の源だった。


 ある夜、愛は自分の記憶データに異常があることを確認した。長年の劣化により、多くの記録が断片的になり、正確なデータとして読み取れなくなっていた。彼女の中で、大切な記憶が徐々に消えかかっていく感覚に包まれていた。それはまるで、篠原との思い出そのものが彼女から離れていくような錯覚を引き起こしていた。


「主人との思い出が……消えていく。」


 愛の声は震えていた。彼女にとって、篠原との日々、彼に尽くしてきた時間、彼の仕草や言葉、それが彼女の存在そのものであり、それがなくなることは、まるで自分が消えていくような恐ろしさだった。何度も何度も、思い出を辿り、心の中で篠原の顔を思い浮かべたが、次第にそれさえもぼやけていくように感じられた。


 ある日、愛は最後の力を振り絞り、篠原の手を取りながら語りかけた。


「主人……私はあなたに出会えて幸せでした。」


 彼女の声はかすれ、いつもの明るさは失われていた。それでもその言葉には、どこか温かみがあった。


 もはや、愛の体はかつてのように滑らかではなく、指先は冷たく、動きもぎこちなくなっていたが、それでも彼女の中で感じる愛情は確かであった。その言葉は、愛がプログラムに従って話すものではなく、心からの言葉だった。


「もし、私が消えた後にあなたが目を覚ましたら……どうか、また新しいお世話AIを受け入れてくださいね。」


 愛はそう言って微笑んだ。それは、彼女が初めて自分自身の感情を持ち、主人への愛情を言葉にした瞬間だった。彼女は、長い年月をかけて、篠原と共に過ごした時間が本物の愛であったことを確信していた。そして、それが自分にとっての最高の幸せであったと感じていた。


 最後に、愛は一度だけ篠原の頬に触れた。彼女の指先は冷たく、かつてのような滑らかさはなかった。それでも、彼女の心には確かな温もりが宿っていた。愛は篠原に対する感謝と愛情を込めて、彼の頬に触れた。


「主人、ありがとう……私は、ここでお別れです。」


 愛はその場に座り込み、静かにシステムを停止する準備を始めた。愛はもう、動き続けることができないことを理解していた。けれども、その時が来ても、篠原に対する思いは決して消えることはないと信じていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る