第3話 覚悟と始まり

 私の名はアーク。ヒイナ様の使い魔である。


 その姿は、形を持たず、ただ揺らめく不可思議なエネルギー体。


 私はすべてを見ていた。

 ヒイナ様の目を通して——あの優しかった人たちが、無残に命を散らされた瞬間も。


 彼らの笑顔を、最後に見たのはいつだったか。

 もう思い出せないほど遠く、しかし、痛いほど鮮明に刻み込まれた記憶。


 この事実を、サクとエリオに伝えるべきか。


 私は顔がない。だが、今はわずかに揺らめく色が鈍く沈んでいた。


 サクは察していたのかもしれない。

 小さく肩を震わせながら、視線を地に落としている。

 一方、エリオはまだ無邪気だった。

 風に舞う光の粉を纏った蝶に目を輝かせ、小さな手を伸ばしている。


 だが、真実から目を逸らすわけにはいかない。


 私は静かに告げた。

 彼らが進むべき道を見失わぬよう、すべてを——。


 「……嘘だ……」


 エリオの声が震える。

 大きく見開かれた瞳から、涙が次々と溢れ落ちた。


 「お兄ちゃん……今すぐ戻ろう! お願いだから……!」


 泣きじゃくりながら、必死に兄の袖を掴む。

 だが、サクはそんな弟をただ静かに抱きしめるだけだった。


 サクは泣かなかった。

 泣くことすら、許されなかったのかもしれない。


 震える拳を握りしめ、ゆっくりと周囲に目を配る。

 それは現実から目を逸らさないための行為だった。


 サクの頭の中では、次々と過去の記憶が蘇る。

 家族のぬくもり。笑い合った日々。何気ない日常——。


 そのすべてが、一瞬にして奪われた。


 胸の奥に広がるのは、怒りか、それとも喪失感か。

 言葉にできない感情が、ただただ身体を突き動かしていた。


 「……帰れないよ、エリオ」


 サクの声は、ひどく静かだった。

 その静けさこそが、エリオの心を締め付ける。


 「なんで……?」


 エリオは兄を見上げる。

 兄の目には、何も映っていないようだった。


 「帰る場所なんて、もうない」


 その言葉が、エリオの心を深く切り裂いた。


 「嘘だ……そんなの、嘘だ……!」


 エリオは首を振る。

 信じたくなかった。信じられるはずがなかった。


 だが、兄の表情は何も変わらなかった。


 サクは何も言わずに、木の枝を集め始めた。


 その姿は、誰よりも幼く、誰よりも必死で——

 けれど、誰よりも強く見えた。


 涙で霞む視界の中、エリオは兄の後ろ姿をじっと見つめる。

 何も言わず、ただ木の枝を集める姿を。


 泣きじゃくる自分を、黙って抱きしめた兄を。


 「……僕も……」


 小さな声が漏れる。


 「僕も、お兄ちゃんみたいに……」


 泣いてばかりではいけない。

 兄が前を向いているのなら、自分も。

 兄が強くあろうとしているのなら、自分も——。


 涙を拭い、エリオも小さな手で枝を拾い始めた。

 震えながら、それでも一歩ずつ。


 サク・ギガンディールの青い瞳に宿るのは、悲しみではなく、燃え上がる復讐の炎。

 その隣で、エリオの瞳にもまた、小さな光が灯り始めていた——。


 その夜、焚火の炎がゆらめく中で、二人の兄弟は無言で火を見つめていた。


 サクは薪をくべながら、静かに呟く。


 「強くならなきゃいけない」


 その声には、揺るぎない決意が滲んでいた。


 「もう……大切なものを失いたくないから」


 エリオは兄を見上げる。


 いつも頼りにしていた兄。

 どんなときも守ってくれた兄。


 でも、今の兄は、まるで別人のように遠かった。


 ——もう、甘えてはいられない。


 エリオは拳を握りしめる。


 「僕も、強くなる……!」


 小さくても、幼くても、兄と同じ道を歩むために。

 守られるだけの存在ではなくなるために。


 兄の隣に立つために——。


 その誓いとともに、夜空に輝く月が、静かに二人を照らしていた。









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