20. 天秤の竜
小さな丘の上には視界を
「これが……竜族」
ファイランが息を飲む。俺はファイランを後ろに隠し、竜に一歩近づいた。その前腕は巨大で、俺であっても直撃したら肉片になるだろう。長い首もどう動いてくるのか読めない。
『私はお前たちに警告をしにきた』
竜が威厳に満ちた声を、俺たちの頭の中に直接流し込んできた。
『ハルヴェルンは魔境だ。行かぬがよかろう』
「ハルヴェルンはどうなっている。ジグランス公爵は」
『人の踏み入れるような場所ではないのは確かだな』
とりあえず「敵」とは言えなさそうだ。俺は剣を抜かずにさらに前に出た。そもそもこの巨大な竜を前にして、俺の剣が役に立つとも思えなかった。
「あなたは何者ですか」
ハイエラールが問う。
『天秤の竜――といえばわかるだろうか』
「天秤の竜?」
俺とファイランが同時に声に出した。俺の記憶の中に竜の話は一つもない。反応したのはミシェだ。
「天秤の竜って、龍樹の大
「ミシェの故郷の?」
ハイエラールが尋ねると、ミシェは興奮気味に「そうそう!」と
竜は
「しかし、天秤の竜といえば、創世の頃に暴れまわって、その結果大瀑布に封印されたって。何百年か前にそんな話を聞いた記憶がうっすらあるんだけど」
『確かに私はお前たちの中では悪竜であろう。その本質が変わったとは思えぬ』
「なら……」
『だが、私はお前たちに敵対しようとしているわけではない』
竜は不意に湧いてきた霧に溶けた。霧がふわりと無くなったところに、女が一人立っていた。羽兜と銀の鱗鎧を身に纏った女戦士だ。丁寧に編み込まれた髪は黒く、その瞳の色は墨に血を落としたような不可解な色だった。青いマントが
「この姿で世に出るのは五十年以上ぶりになる、か」
「五十年? あの大瀑布、その頃はアタシたちが守っていたはずだけど」
「実体は確かにあの瀑布に縛られていたが、さすがに千年も生きればそのあたりはどうにでもなる」
女はいつの間にか長剣を持っていた。そしてその構えは――。
「天陽の構え……」
ファイランが呟く。そう、それはまごうことなき天陽の構え。
「私はかつて一人の人間を弟子にした。そして持てる剣技を全て託した。剣技自体は私を封印した太古の英雄の複写なのだがな」
「まさか、その弟子はじいちゃん……アグラード伯爵では」
「ああ、そんな名前だった」
その瞬間、女は神速で打ち込んできた。俺に対して、ではなく、ファイランにだ。
「っ!」
進路上にいた俺を完全に無視し、ファイランに肉薄する女。ミシェもハイエラールも反応できない。
ファイランは
女の身体が左右に揺れる。
「落ち着いて対処しろ!」
ファイランは瞬時に
だめだ、それは。相手の力量が上すぎる。
ファイランは
案の定、その必殺の一撃は女が立てた剣によってあっさりと弾き返された。猛烈な土埃が俺たちを襲う。
「しかし、やるではないか」
「見たところ一番弱いお前を狙ってみたのだが、なるほど、私の技か。運命とは面白い」
女は「それに」と目を細める。
「なるほど、聖剣ガルンシュバーグか。ますます面白い。千年前、私を封印した英雄の剣と、再びこうして
女は剣を引くと、その武器を消滅させた。ファイランは油断なく切っ先を女に向けていた。
「私にこれ以上の戦闘の意志はない。
「お、俺を知っている……?」
「眠りながら噂には聞いていた。そもそもこの地に
女はそう言うと少し遠い目をした。
「弟子は
「じいちゃんが死んですぐ、国王も王妃も病で……」
「剣聖の死去を
「ありえない話ではないな」
俺は頷く。ハイエラールも難しい顔をしている。
「国王や王妃も亡きものにし、王国を乗っ取ろうとした」
「そのシナリオを書いたのがゼルデビット」
ミシェの鋭い言葉が
「ジグランスもおそらくは、だろうさね」
「しかし、ミシェ。ジグランスは自国の領土を自分でこうまで荒廃させているというのか」
「
「些細って……」
俺の代わりにファイランが
「それで、ええと天秤の竜」
ハイエラールが腕を組む。女は自分を右手の親指で指し示し、言った。
「かつて、私はリブラリスと呼ばれていた」
「ならば改めて、リブラリス。あなたはハルヴェルンの様子をご存知なのですね」
「ああ、見てきた。赤い魔女と骸骨のような魔導師が陣を敷いていた」
吸血の魔女カネアと恐慌のファレンに違いない。あの二体が同じ場所にいるのか。
「街の人間は?」
「奴隷のように使われている人間の他は皆殺しだろうな。
「ジグランス公爵は――」
「わからん。私には人の見分けがつかないからな」
リブラリスは首を振る。
「そもそも私とてこの不完全な状態であの二体の大魔導師を同時に相手することはできない。ゆえに、お前たちに行くなと言いに来た」
そこでファイランが両手を組んで訴える。
「そういうわけにもいかないんです、リブラリス。連れ去られた子を助けないと」
「そう言うとは思った。聖剣の継承者」
「こっ、これは、成り行きで」
「成り行き、か。ふむ、運命とはそういうものだな」
「ククク」と笑いながら、リブラリスはファイランの肩を叩く。
「まともな防具の一つもないのは不安だろう」
「!」
リブラリスの手が触れたところから、ファイランの身体に金属製に見える鎧が姿を現す。リブラリスのものよりは軽装だったが、それでも十分な防御性能を有しているように見えた。
「千年も生きればこのくらいはな」
「千年生きてもエルフじゃ無理だ」
ミシェが肩を
「奴らの居場所は把握している。案内しよう」
リブラリスはそう言うとまた霧の中で竜と化した。竜の姿はやはり、畏怖すべき何か――一言で言えば神々しい。
『ついてこい』
ふわりと浮かび上がる天秤の竜。風圧が俺たちの身動きを封じる。
「ガレッサ! あの竜を追いかけてください」
ハイエラールの号令一下、黒馬と三頭の鱗馬にそれぞれまたがり、俺たちは竜の背中を追った。
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