第1楽章[4節] その後………
どこかで鳴いている鳥のさえずり。緩やかに流れるせせらぎの音。先日あんな出来事があったというのに、森はその事をまるで気にしていないようだ。まだ日は登りきっていないが、木間の隙間から差し込む光と、透き通った水面の反射が相まって少しばかり眩しい。そんな自然の美の中に体を濡らした少女ファーネがいた。水分を含んだ尻尾と耳を重たそうにピクピクと動かして、その動きが表す様子からはご満悦の雰囲気が伺える。しかし川で水遊びをしているというわけではなく、どうやら汚れた己の身体を洗っているようだ。付着した土や泥、加えて他人か自身のか区別のつかない血の跡。透明な水を濁らせて少しずつ洗い流していく度に、彼女本来の肌の色を覗かせる。それは若さゆえの特徴か、ファーネの性質か。驚くほどに素敵な艶を帯びた白い肌が、光を吸収して甘美なものへと仕上がっていた。だが、それは一目で定着させて良いものではなく、その体を観察すればするほど痛々しい思いが湧き上がる。無差別に刻まれた深い傷跡に、白い肌に反するように点在する青痣。それに加えて、腰から胸元にかけてのうねりは、曲線美と表現するには妙に細く痩せていて、肋骨の形が浮く出ている。この世の獣人に対する扱いが、一つの体でその全貌が垣間見える。
体を洗い終えたファーネは、エルから貸してもらった翠のケープマントを羽織る。彼女にとってはオーバーサイズで、もう少しでマントの先端が地面につきそうだ。ファーネは裾が汚れぬように持ち上げ、森の中を歩き回る。エルは今どうしているだろうかと、物思いにふけながら……。
数時間前……
「私は近くの街へ向かうよ。数日間森で過ごすだろうから、色々調達しないといけないからね。」
「え………、でも…。」
エルの突拍子のないことに、ファーネは不安そうに声を唸らせる。無理もない。突如現れた暗黒の中に差し込んだ一筋の光。その主である者がすぐにどこかへ行ってしまうのだ。ファーネは産まれたての雛鳥のようにエルに寄りつこうとするが、それは本能的に
「っ…………わかりました。」
「すまないね。早朝ぐらいには帰ると思うから、待っていてくれ。」
エルは変わらず優しい表情を見せる。今まで微かな希望にすがり続けていたこともあり、人一倍優れた観察眼で物事の引き際と言うのはよく理解している。逃したくない。だが、踏み込み過ぎては失敗するかもしれない。そんな傲慢とも言える感情と迷いが心を渦巻く。けれども、ファーネがどのような選択をしても、彼は上手く導いてくれるだろう。だから、今は自身の気持ちを押し殺し、彼の合理的な判断に従おう。これが最善であるのならば仕方のないことだから。
「大丈夫。ここの近くはあまり人が来ないから、安心して体を休めるといい。それに、ここはとても美しい。君が自然を好むのならきっと気にいるさ。」
声色で気づかれたのだろうか。また気を遣われてしまったと感じたファーネはもう何も言えなかった。
「そうだ。その服装じゃ、夜を越せないだろう?それに、女の子がそん格好をするべきではないしね。」
エルはそう言って、自身が纏う鮮やかな翠のマントを脱ぎ始めた。そして、そのままファーネの後ろに回し、彼女の体全体を覆うように被せた。
「今はこんな物しかないけど、我慢してくれ。」
「…………」
身体が火照っていく感じがする。身体がとても熱い。今まだに感じたことのない感覚。それは、服を着たことによる熱なのかどうかすらもわからない。でも確かに、この熱は彼の温もりから感じられる。温かい。全てを包み込んで、優しく撫でてくれているような、そんな抱擁力がある。懐かしい。わからないけど、そう思ってしまう。似たような温もりをどこかで…………。でも思い出せない。
「じゃあ、そろそろ行ってくるよ。後のことは彼らに任せよう。」
「彼らって?」
「自然と暮らす者たちさ。何かあれば、彼らが私に教えてくれる。」
エルの言っていることは、ファーネには全くもって理解できないことだった。
(動物?それとも彼しか知らない何か?)
ファーネの中で答えはでない。これ以上質問することも躊躇われたで、静かにエルを見送ることにした。彼は再度笑みを浮かべ、足早にその場を去っていった。
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