第一章
第1話
「行ってきます」
「千晴ー! 最近物騒だから気をつけるのよー!」
「はいはい」
「今日の晩御飯はあんたの好きな生姜焼きだから早く帰ってくるのよー!」
「はいはい」
「ハイは一回って小さい頃から……」
「行ってきます!」
母の言葉を遮るように叫んで、勢いよく玄関を飛び出す。
まだしっかりと、踵まで履ききれていなかった革靴を、玄関先のコンクリートに、とんとん、と叩きつける。
左腕にはめられた、華奢で飾り気のない時計は、時刻が八時四十分を過ぎたところだという事を示している。
間に合うだろうか。
そう思案した、その時、また分針は一目盛り進んで、私の焦燥感を掻き立てる。
ああ、ほんとうに、急がなければ。
慌てて赤い自転車に飛び乗る。
通学鞄を、カゴへと乱雑に押し込み、すり減ったペダルを、ぐっ、と踏み込んで、二つの車輪がゆっくりと回り出す。
季節は夏である。
真っ直ぐに伸びる、海沿いの道を、車輪はぐるぐる、ぐるぐる回る。
伸びた黒い髪は、潮風にさらわれて、ふわりとなびく。
時折それは、視界を邪魔して、鬱陶しく、私はとうとう、それを耳に掛けた。
ここは、海の近くの、閑静な町である。
海開きから八月下旬頃までは特別賑わうが、普段は人気が少なくもの静か、その割に路線は発達していたので、とても住み心地が良かった。
そろそろ、この人気のない道にも、ちらほらと旅行客が行き交い始めることだろう。
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