7.分からせたいのに分からせられない

 周囲の様相はまだ惨状と言っていい。

 何度目かになる溜息をつき、智は作業の手を一旦止めた。

 ようやく座れるようになったソファに腰を下ろせば、どこからかやって来た倦怠感に襲われる。それは終わりの見えないこの掃除作業のせいではなく、けれども一体何に対してかと言われれば自分でもよく分からなかった。


 惣次の誘いでこの別荘に来た。昨晩言われた時はとてもうれしかった。停滞した毎日に変化をもたらせられると思ったし、長すぎる夏休みに一つくらい人並みな行事があってもいいと思ったからだ。

 しかし状況はここに来ても変わらなかった。惣次の心遣いはありがたかったが、騒々しい同級生は変わらず近くにいるし、彼の予測不可能な行動にはもはや引くと言うより、ただ諦めしか感じていなかった。ここに来るよりアルバイトに励んでいた方がよかったのではないかとも思い始めていたが全ては今更でしかなく、今はやるべきことを一つずつ片づけていくしかなかった。


「よし、やるか」

 束の間の休憩を終え、智はまだ乱痴気騒ぎの名残を留めるリビングを見渡した。

 多少見られるようにはなったものの、未だ道半ばである。けれども元々掃除は好きな方だった。いるものといらないものを選り分けて、いらないものを徹底的に始末していく様には胸が空くものがある。換気したおかげで室内の空気も入れ替わりつつある。数を増すゴミ袋はもう三つ目が一杯に膨らんでいた。荒れ果てていたリビングは少しずつではあるが、元の優雅な様子を取り戻そうとしていた。やり続ければその分目に見えて分かる変化も心地よいものだった。


「あー、マジ、すっきりした!」

 しかし届いたその声で気分は急降下していた。目を向ければ腰にタオルを巻きつけた仲倉が、脳天気な顔でぶらぶらしている。特に見たくもなかった半裸姿を一瞥し、智は作業の手は止めずに言葉のみを向けた。

「仲倉、服は早く着た方がいいよ。いくら夏でも風邪引くと思う」

「あー、それなんだけどオレの服、今洗濯中でさ」

「それで?」

「とりあえずさ、自称……じゃなくて智の叔父さん? っていうあの人のをちょっと借りられないかなぁ、と思って」

 いつもの悪びれない様子で相手はこちらを見ている。彼は未だ惣次に対して叔父でないという疑念を抱いているようだが、それに関してはただ面倒という認識しかなく、故に改めて疑いを晴らそうという気もなかった。何も言わず叔父の鞄まで歩み寄ると、智は適当に物色した服を相手に差し出した。


「サイズは少し大きいけど、別に借りても問題ないと思う」

「あー、えっとそれでさ、自分で言っておいてなんだけど、それ、大丈夫かな?」

「……大丈夫って何が」

「つまりさ、汚……いや、えっと、その服を着ても色々大丈夫かな、ってことだよ」

 智は無言で相手を見返した。 彼が潔癖症気味であるのは重々承知だがそれを否定するつもりは無論なく、けれどもその言葉どおり自ら言っておいて、こちらに一体どんな返答を求めているのだろうと思った。

「別に着る着ないは仲倉の自由だけど、気に入らない服を着ても死にはしないよ」

「いや……気に入る気に入らないの問題じゃなくて、それが……」

「その説明はしなくてもいいよ。よく分かってるけど、よく分かんないから」

「え? え? それ何? もしかして謎かけ……?」


 疑問を浮かべる相手に手にした服を押しつけると、智は元の作業に戻った。粗方の作業を終えたゴミ回収の次は、固く絞った布巾でソファやテーブルの汚れを拭き取っていく。

 作業に没頭しながらも、智は自分が苛立っていることに気づいていた。一体何に苛立っているのかと言えば、それは自身に対してかもしれなかった。

 自分の中にある優柔不断さ、中途半端さが、この感情の齟齬を生む不幸を呼んでいる。それは自分にも相手にも及んでいる。徹底的にビシっと言わないから(一応言っているつもりではあるが)、仲倉はいつまで経ってもこの調子なのではないだろうか。

「なかく……」

「掃除機はっけーん!」

 だがそのことを言い渡そうとした時、相手の大声が被った。目を向ければズボンの長さが合わず、裾を幾重か折り曲げた仲倉が大型の掃除機を手に立っていた。

「これを使えば掃除なんて楽勝だよ、オレも手伝うし」

 そう言って屈託なく笑う相手は早速コンセントを探して辺りをうろうろしている。

 作業の手が増えるのは願ってもないことだった。言うべきことを言ってもいいがそのことで色々と感情がもつれて作業が滞ってしまうのは、この状況下では余計な手間でしかないはずだった。言いたい言葉は一旦呑み込むことにし、智は相手に頷いて了承を返した。


 仲倉が見つけた掃除機は外国製の業務用らしく、水分や半固体の汚れもパワフルに吸い込んで周囲はみるみる片づいていく。仲倉も意外な機敏さを見せ、リビングでの作業を早々に終えると、手に馴染み始めた〝相棒〟を掲げて次の部屋にいそいそと向かっていった。

 智はその姿を見送ると自分はリビングに残り、家具を整えたり細かい箇所を確認していった。その作業の途中、暖炉の上に伏せた状態の写真立てと未開封のダイレクトメールが何通か散らばっているのに気づいた。

 写真立ては様々な形の貝殻で彩られたどこかの土産物らしきもので、二人の男女の写真が飾られている。やや軽薄な感じの若い男性と、やや派手目な感じの若い女性、二人が満面の笑みで頬を寄せ合っている。その見せつけるような仲睦まじい様には些か引く思いもあるが、二人がとても幸せそうであるのは確かだった。

 ダイレクトメールの宛名は全て識内真となっていた。恐らく『識内真』という人物がこの家の主で、それがこの笑顔の若い男性かもしれなかった。でもそれを知ったからどうと言うこともなく、智はそれらをひとまとめにすると次の作業に移った。


 キッチンに移動すると、一足先に向かっていた仲倉が床掃除の作業をほぼ終えていた。智はまだ手つかずのシンク掃除に取りかかった。使い捨ての皿や残飯を分別してゴミ袋に入れ、次は洗剤とタワシで黴なのか何なのかよく分からないものをこそげ落としていく。シンクがまともになった後は、脇に避難させていた陶器やグラスを順に洗う。よく見ればそれらには安物にはない輝きがあって、汚れたまま放置されていたことを不憫にさえ思った。

「オレ、あっちの方もやってくるよ」

 仲倉は掃除機を手に次の部屋に向かおうとしていた。潔癖症気味だから掃除も好きなのか、仲倉は手際がよかった。見ていないが掃除を終えたらしいバスルームもきちんと片づいているのかもしれない。その辺りは見直すべきなのだろうかと思っていると、仲倉はキッチンの中央で急に足を止めた。


「クソ……なんだよ、あれ……」

 見上げる方を見ると、天井から吊り下げられた電灯がある。燭台をモチーフにした洒落たものだが、そこに女性物と思しき黒い下着がぶらりとぶら下がっている。それは何とも言えない気持ちに襲われる光景だったが、この状態に至った経緯を想像することすら時間を無駄にする行為としか思えなかった。

「まったくふざけんなよ」

 だが仲倉にとっては見過ごすことのできないもののようだった。

 吐き捨てるように呟くと傍にあった椅子を電灯の下まで移動させ、それを踏み台代わりにして目的の下着に手を伸ばす。指先はすぐに下着に到達したがその直後、女の子のような甲高い悲鳴が響き渡った。

「いやぁっ! なんかベトっとしててキモチワルイっ!」

 正体不明の何かが指先に触れたことで仲倉はパニックに陥り、それを振り払おうと闇雲に腕を振り回した。そのせいで足場の悪い椅子の上であっという間にバランスを崩した。


「うわぁ!」

「仲倉!」

 そんな相手を放っておけず、智は思わず駆け寄っていた。しかし何かを為す間もなく、落下した相手ともつれるように床に倒れ込む。

「いたたた……だ、大丈夫か? 智」

 気づけば仲倉の身体が覆い被さった状態になっていた。その右手はこちらの左腕を押さえ込み、その左腕と倒れた衝撃で床に打ちつけたらしき後頭部が酷く痛む。大丈夫かと訊くならその前に上から退くのが一番だと智は思ったが、なぜか仲倉はいつまで経ってもその場から動こうとしなかった。

「智……オレ……」

「……」

 妙な空気が流れ、智はこの相手に惣次が叔父だと説明することとほぼ同等に面倒なことになったとしか思わなかった。

 徐々に相手の顔が迫り、その左手が太腿を撫でさするように触れている。

 潔癖症なのにこういうことは別なのだろうかとぼんやり思うが、そんなことよりこの前は掠め取られたが二度目を許すつもりは毛頭なかった。どうにか伸ばした右手の指先が先程放り出された下着に触れる。それをそのまま握り取り、迫る相手の首筋に〝強く〟押しつけた。


「ぎぃやぁぁっ! マジ? 信じらんないっ! 超キタナイっ!」

 再度悲鳴が轟き、飛び跳ねるように退いた相手は手足をばたつかせながら床上で悶絶している。

 顔面にしなかったのは最後に残った微かな情けだった。

 智はゆっくりと立ち上がると傍らに立ち、未だショックで立ち上がれずにいる相手のその頭上へと言い渡した。

「仲倉、私はそうすべきと感じたことに対しては徹底的に対処するつもりでいるから。それがどんな方法でも」

「うん……それはすごく、よく分かった……」

 途切れ途切れな返事ながらも相手は強く頷く。

 今回はどうにか分からせることができたが、他にもまだ理解を求めなければならないことは多くある。道のりは遠いがとりあえずはこの掃除任務を優先させることにし、智は最後の役目を終えた誰かの下着をゴミ袋に放り込んだ。

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