6.うまい話なんかやっぱりない
「うわっ、なんだこれ」
むかつく相手の言葉だったが、惣次はそれに同意した。
先程はガレージから入って、そこの酒類ばかりが並ぶ予備冷蔵庫から水を調達してきたから惣次も居住部分に足を踏み入れたのはこれが初めてだった。
「汚ったないし、臭っさ」
洒落た木造りの玄関扉を開けると、まず目に入るのは大きな窓から望める緑溢れる美しい風景。それを従える広いリビングには高級ブランドの革張りソファーに一枚板のテーブル、壁際には豪奢な暖炉、高価な家具や絵画、美術品がいくつも並び、確かにいかにもではあるのだが、招かれた人々の期待を決して裏切らない素晴らしい居住空間があるのは間違いなかった。
しかし、今現在そんな賞賛に値するものは既になかった。今自分達の目の前にあるのはそれら全てを打ち消す惨状でしかない。たとえるなら自堕落という言葉を事細かに表現し尽くしたとも言えた。
テーブルの上はデリバリーの空き箱や食べ残しの残骸で溢れ、床は酒瓶や空き缶、割れたグラスなどで埋め尽くされ、他にも煙草の吸い殻、脱ぎ捨てた服、中身を確認したくないゴミの塊……ひと言では言い尽くせない様々な諸々のあれこれが部屋中に無尽蔵に散乱していた。室内の空気も澱んで停滞し、臭気とも呼べるそれらのニオイがただひたすらに漂っていた。
「な、なんなんだよこれ……オレ、絶対こんなの耐えらんない!」
率先してリビングに駆け込んだ仲倉は、率先して悲痛な叫びを上げた。
「そ、そうだ! お、オレ、シャワーを浴びたかったんだ!」
そして逃げ場を探すようにリビングを出るとバスルームの方に向かったようだが、じきに「ぎゃーーっ!」っという悲鳴が轟いた。
「い、一体なんなんだよ! この家!」
仲倉は這々の体で戻ってくるとその場にへたり込んだ。だがすぐに床の汚さを思い出してか飛び上がるように立ち上がった。ここの現状を思えば水回りであるバスルームは、この場以上の惨状だと想像できた。彼は落ち着かない様子でしばらくその場をうろうろしていたが、急に何かを決心した顔で声を張り上げた。
「お、オレ、マジでこの場所に耐えらんない! でもすんごくシャワーは浴びたい!」
仲倉は叫ぶと再度リビングを出ていった。その後はバタバタとあちこち漁っていたようだがどうにか探し当てた掃除用具を手にすると、もう一度バスルームの方に駆けていく。すぐさま掃除を始めたらしき騒々しい水音が聞こえてきた。
「……あいつ、やっぱり変わった奴だな……」
惣次は足を踏み入れた玄関辺りで立ち尽くしたまま、騒々しい相手の動向に目を奪われたままだった。
隣を見れば同じく立ち尽くす姪の姿がある。その表情は毎度の如く読み取りにくいが、同じことを思っているのは間違いない。彼女をここに誘った経緯を思えば、申し訳ないという思いが先立った。バスルームで騒々しい水音を立てているあの存在を思えば、ここに来たことも無駄になったとしか言いようがなかった。
「まずは掃除かな……」
「えっ? 智、いいのか?」
「いいも何も、そんなこと言ってる場合じゃないと思う。どうにかしなきゃ今日の寝場所もないよ」
智は荷物を傍に置くと、足元に散らばるゴミを避けながら窓の方に歩いていった。そのまま正面にある大きな窓を開け放つと森からの涼しげな風が、滞った部屋の空気を攫うように流れていった。
「いい風だな」
森から吹く心地よい風はこの場にある唯一の希望のようにも感じた。窓からは木々のざわめきや鳥の囀りも届けられてくる。依然ここが惨状であることに変わりはないが、掃除をして換気をすればこの建物が持つ本来の姿を取り戻せるはずだった。
「そうだな、やるしかないか」
惣次は周囲を見渡すと、ここでの滞在を可能とするための事柄を順立てた。それはこのゴミの山ほどあり、時間も同様に要するはずだった。しかし言葉どおりとにかくやるしかなかった。
「ねぇ、電話が鳴ってるよ」
そんなことを考えていると智がそう言った。耳をそばだててみると、確かに呼び出し音が小さく鳴り響いている。鳴っているのはこの家の固定電話のようだった。鳴り続ける音を頼りにどこかに潜んでいるらしき電話機を智と探し回り、ソファの下の更にゴミの下からようやく見つけ出す。受話器を取り上げると、予想どおりの声が耳に届いた。
『どーもでーす、惣次さーん、無事着きましたー?』
確かに予想どおりではあるのだが、返す言葉が出てこなかった。それは何を言えばいいか分からないのではなく、言いたいことが多すぎるからであるようだった。しかし無言でいる訳にもいかず、惣次はとりあえず返事をした。
「……ああ、着いたよ、少し前にな……」
『あー、えーっと、そっスか……で、それでなんですけど、んー、どうでした?』
「……どう、って一体何がだ……」
『あの……大丈夫、ですよね?』
不穏さを嗅ぎつけてはいたが、その言葉で確定的になっていた。先程の電話も、今またこうやって何かを確かめるように連絡してきたのも、それらを裏づける要素でしかない。ずっと朧気だった確信犯、という言葉も鮮明になっていた。
「お前……もしかしてここがこうなのを知ってて、それで俺に片づけさせるためにこの話を持ってきたんじゃないよな……?」
『えっ、ま、まさか……そんなことあるワケないじゃないですかぁ……』
「……」
否定する相手の言葉に意味など全く感じず、惣次は黙した。
たった三日であろうとここでそのまま過ごせる人間などいない。清掃、片づけは必然的で、それはここにやって来た人間に訪れる絶対的な展開だった。
これで横澤が自分でやろうとしなかった理由も分かった。高額な依頼料の理由も判明した。この惨状を回復するための掃除込みなら妥当なものであるはずだった。
「横澤、お前な……」
やっと横澤の腹の内が分かってすっきりしたが、ただそれだけだった。受けてしまったものは引き受けるが、抗議の一つくらい言っても罰は当たらないはずだった。
『あー、それとですね、惣次さん! これ、お知らせしてなかったんですけどその辺り、ケータイが通じないんです! 町の方まで下りれば大丈夫なんですけど、しばらくのご不便大変申し訳ないです!』
だが電話向こうの相手は何かを察したのか、矢継ぎ早に別の話題を振って話を逸らそうとしてくる。
確かに手元の携帯電話を確認すると圏外になっている。先程は携帯の方にかけてきたのに今は家の電話にかけてきた理由が分かったが、これもただそれだけだった。
『と、とにかく、よろしくデス!』
「あっ」
漂い始めた殺気を感じ取ったのか、横澤は先回りして電話を切ってしまった。
しかし今更何を言っても、どうなるものでもなかった。留守番だろうが大掃除だろうが、やる他なかった。「他も見てくる」と智に声をかけると、惣次は他の部屋も見て回ることにした。
最初に見たのは悪臭と汚れが堆積したキッチンだった。仲倉の絶叫を呼んだバスルームとどちらがマシだったのか考えるだけで疲労を感じた。
リビングを挟んだ反対側にある二つの寝室は、水回りとはまた違う悪寒を呼ぶ悪夢を満載し、見たことを酷く後悔させられるだけに終始した。
二階にあるバストイレ付きの三つの客室も同様、どの部屋もどんな騒ぎをしたらこうなるんだと思うほどに汚れ切って、乱れ切っていた。
最後に惣次はキッチンの冷蔵庫や、ストックされている食料を確認した。買い置きの食料は好きにしていいと言われていたが何がどれだけあるかは行ってみないと分からないと、昨晩家のスペアキーを持ってきた疫病神男が補足していた。
確かめた大型冷蔵庫には黴かけたチーズと腐ったトマトがそれぞれ一つずつ、申し訳なさそうに鎮座している。他には保存食用にカップラーメンが二つ残っているだけで非常に乏しく、先に見たガレージの冷蔵庫にもほぼ酒類しかなかったことを思えば、やはり食料は近くの町まで行って買い足すしかないようだった。
「智、悪いが俺は先に買い出しに行ってくる。お前はどうする?」
この惨状の片づけを放置していくことに未練はあるが、食料の方も早めに対処しておかなければ晩飯だけでなく、朝食にもありつけない現実が待ち受けているはずだった。ここから下の町まで行けば往復一時間半ぐらいはかかる。二度手間になってしまったが、仕方がなかった。
「私はここに残るよ。あの人ほどきれい好きじゃないけど人並みな場所にはいたい。惣次が戻るまでには落ち着いて座れるくらいにはしておくよ」
智からはそのような返答が戻ったが、惣次としてはあの少年と二人きりになるこの状況に何も思わないでもなかった。今のは暗にそれを示して訊いたつもりだったが、その思惑をよそに智は既に片づけに取りかかろうとしていた。
「俺も戻ったらやるよ」
「うん」
声をかけるが、相手からは背を向けたままの素っ気ない返事だけが戻る。こちらの心配など無用と分かっていた。相手に対する信用も強くある。しかし心に留まるものが呟きのように漏れていた。
「……智、大丈夫か?」
かけた言葉には怪訝な表情が振り返った。
「それ、どういう意味?」
「あー、えっとそれは……つまりだな……」
「惣次、何も心配しなくていいよ。別に何も起こらないから」
額の汗を拭い、彼女はこちらを見ている。思わず出た言葉はあの少年と二人きりなることへの思いが言わせたものだったが、それをつい口にしてしまったことを惣次は後悔し、特に感情も見せず言葉を返した十才下の姪に戸惑いを覚えた。
これまでも彼女の感情を難しいと感じたことはある。でも今ここにあるのはそれとはまた別の種類の戸惑いだった。
自分の心配は必要か? そう思う。
彼女が迷惑と感じることは阻めるが、彼女と誰かとの間に自然に起こり得る何かに、自分が入り込む隙や理由などあるだろうか? 自分の立ち位置はどこまで行っても部外者的立場でしかなく、それは今後も平行線を辿る不変的なものであるはずだった。
「……それじゃ行ってくる。たぶん、二時間ほどで戻れると思う」
惣次はそう告げて相手に背を向けると、己の微妙な感情が漂う別荘を後にした。
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