第2話 - 3
少し歩き始めると、村の営みが視界に広がる。
かつて遠くから眺めていた風景が、今は目の前に当たり前のように存在していた。
村人たちは笑顔でクロに声をかけ、優しく手を差し伸べてくる。それは、まるで彼がずっとここで生きてきたかのような、自然な温かさだった。
「おはよう、クロム。お散歩かい?」
なんでもない言葉。
呼ばれた名前に違和感はあった気がした。けれど、それはすぐに村の穏やかな空気に溶け込んでいく。
「ええ、今日は調子がとてもいいんです」
照れくささはあったが、微笑みながら答えた自分に驚いた。
誰かに気をかけてもらうことが、こんなにも心地よいとは思わなかった。
村全体が温かな空気に包まれている。ここが自分の家であり、この日常がずっと続くかのように錯覚するほどに。
だが、同時にそれが夢のように感じることもあった。村人たちの優しい眼差しの奥に、どこか遠さを感じることがあるのだ。漠然とした違和感が胸に広がる。けれど、温かな言葉をかけられ、差し出された手に触れるたび、その感覚は流れて消えていった。
しばらく歩くと、小さな池を見つけた。
クロは足を止め、ゆっくりと水面へと近づく。水は青く透き通り、陽の光を受けてきらきらと輝いている。
彼はじっとその中を覗き込んだ。
そこに映るのは、見知らぬ少年の顔だった。
10歳前後の幼い顔立ち。健康的とは言い難い白い肌。けれど、その瞳は──
「……普通だ」
呟いた声が、水面に波紋を広げる。
写し出されたのは、青紫の穏やかな瞳。
かつての自分を象徴していた、あの血のような赤い光は、どこにもなかった。
それが、何よりも異常だった。
クロは視線を落とし、手を伸ばす。水面を撫でるように指を滑らせた。
そこに映るのは、どこにでもいるような子供の姿。ただそれだけなのに、強い違和感が拭えない。
──やっぱり。
彼は目を細め、注意深く水面を見つめた。すると、ほんの一瞬、違和感が揺らめいた気がした。
まるで何かに覆われているかのように、その瞳の奥に、僅かな歪みを感じる。
「……魔法」
一人の少女が教えてくれた。
本来、人間には備わっていないはずの力。
遠い記憶のように思えたが、思い出すのに時間はかからなかった。
――アリス。
クロは、無意識にその名を口にした。
彼女を傷つけるつもりはなかった。それでも、自分の気持ちを優先し、彼女を突き放した。別れるために放った言葉が、小さな少女を泣かせたことを知っている。
二度と会うことはない。そう思っていても、胸の奥に罪悪感が渦巻いた。
池に映る自分の姿を見つめる。
揺れる水面に映るのは、見慣れないようで、けれど確かに自分の顔だった。酷く、情けない顔だ。
クロは、水に顔をつけた。
夏の日差しの下、冷たい水が心地よい。けれど、その感触と引き換えに、体内の酸素がじわじわと奪われていく。それでもクロは、構わずじっとしていた。
――綺麗だ。
薄く目を開くと、水中は驚くほど澄みきっている。揺れる光が静かに揺蕩っていて、しばらくぼんやりと眺めた。
水の揺らめきに、指先が引き寄せられる。
触れたら溶けてしまいそうなほど澄んでいるのに、手を伸ばせばそこにある。
もう少しだけ、触れていたいーー
だが次の瞬間、不意に体が引っ張られた。
視界が一気に反転し、気がつけば遠かった空がすぐ目の前にあった。
突然のことに驚く間もなく、口から肺いっぱいに空気が押し込まれる。喉に詰まり、むせ返る。息を整えるのには時間はかからなかったが、ようやく気づいた。
「……父さん?」
心底驚いたように呟くと、クロを抱えていた男は、苦笑しながら地面に降ろした。そして、何事もなかったかのように、彼の頭を撫でる。
「どうした?クロム。泳ぐにはまだ早いぞ」
目線を合わせてくる父親の表情は穏やかで、クロは理解が追いつかないまま、ぎこちなく笑顔を返した。
「帰りが遅いから探しに来たんだが……驚いたぞ」
言葉の意味を飲み込むのに少し時間がかかった。確かに、傍から見れば奇妙な行動だっただろう。
何か言い訳を考え、口を開くが、適切な言葉が浮かばない。
「その……暑かったから、顔でも洗おうかなって……」
苦しい言い訳だった。
でも、本当にそれだけだったのかもしれない。
口に出した言葉に妙に納得できた。
父親は、それ以上追及することなく、ただ笑ってクロの頭を撫でた。
「そうか、クロムには少し暑かったな」
言葉の温かさに、クロはむず痒さを覚える。
居たたまれなくなり、顔を拭うふりをして父親の手をすり抜けた。その瞬間、水面に映る二人の姿が目に入る。
――どこにでもいる、普通の親子。
現実味がなく、違和感だらけの光景。それでも、そこには確かに”平和”があった。
「どうかしたか?」
表情の変化を見逃さない観察眼は、やはり父親なのだと実感させる。
「……平和だなって」
思わず呟いた言葉に、父親は目を丸くする。
「急にどうした?確かに今日は変だな」
戸惑いながらも、豪胆な笑みを浮かべ、再びクロの頭を撫でる。その手の温かさに、今度は抵抗することなく受け入れられた。
この時間が、いつまで続くのかは分からない。けれど、今この瞬間だけは、壊したくないと思った。
この感情に名前をつけることはできなかった。
つけてしまえば、それが嘘になる気がしたから。
けれど、嘘でもいいのかもしれない。
「おーい、クロムー!」
遠くから子供たちの声が聞こえる。
顔を見ずとも分かる。同世代の子供たちだ。
無意識に手を振ると、彼らも笑顔でそれに応えた。
「今日は元気そうだな!一緒に遊ぼうぜ!」
父親に視線を向けると、困った顔をしていた。
体調を心配しているのだと、言葉がなくても伝わってくる。
「父さん、大丈夫だよ。今日は本当に調子がいいんだ。辛くなる前にちゃんと帰ってくるから」
そう伝えると、子供たちが口々に「オレたちが見とく!」と父に向かって懇願し始める。
ますます困った顔を見せた父だったが、やがて諦めたように息を吐いた。
「……わかった。少しだけだからな?無理は絶対にしないこと、いいな?」
「うん、大丈夫」
クロが頷いた瞬間、子供たちの一人に手を引かれた。
許可が下りたと分かると同時に、彼らは駆け出していた。
引かれるままに走り出す。
息の仕方が一瞬分からなくなる。
けれど、それが何故か、少し楽しく思えた。
「いってきます」
振り返りざまに手を振ると、父は笑って手を振り返してくれた。
好奇心と、安堵が入り混じる。
どこへ行くのか分からない。
けれど、今はそれでもいいと思えた。
◆
子供たちに連れて来られたのはなにもないただの広場だった。
地面は踏み固められ、草もまばらにしか生えていない。村の子供たちが日常的に遊び場として使っているのは瞬時に理解できた。
広場の片隅には木箱や古びた桶が積まれ、その上には使い込まれた木剣が雑に置かれていた。
「ねえ、クロムもやろうよ!」
声をかけたのは、自分と同じくらいの背丈の少年だった。すでに木剣を構え、今にも振りかかってきそうな勢いだ。他の子供たちもそれぞれ木剣を手にしていて、どうやら「戦いごっこ」をするつもりらしい。
クロは視線を落とし、無造作に置かれた木剣の一本に手を伸ばす。片手に収まる感触は軽く、過去のどこかで握ったものとよく似ていた。
ーー意外と覚えてるものだな。
そんなことを思いながらクロは軽く振ってみる。
あくまでも自己流だったが、他の子達を見ればたいして変わらないような気がして少し安堵できた。
「ほんとにやるの? じゃあ、オレが相手だ!」
構えれば、嬉しそうに意気揚々と少年が踏み込んできた。木剣が振り下ろされる。クロは反射的に後ろへ一歩引き、紙一重でそれを避けた。
自分でも驚くほど自然な動きだった。
しかし少年は避けれるとは思っていなかったのか、一瞬驚いた表情を見せたが、すぐにムッとした表情で再度剣を振りかざしてきた。
次は剣筋をゆっくり眺めながら、体を捻って避ける。脅威はなかった。ただ思ったより遅く感じ、すんなりと避ける事ができた。
その後少年は何度か剣を振ったが、クロはいずれも避ける事ができた。
「クロムすげー!」
「アイツあんな凄かったか?」
観ていた子供たちが次々に歓声をあげる。
クロ自身も驚いていたことだった。
今まで剣を握ったことは何回かあったが、その時はこれほど体が軽かっただろうか。それとも相手が子供だからだろうか。
そんなことをぼんやりと考えながら剣筋を冷静に見る事ができていた。
「避けてばっかりズルい!ちゃんと戦え!!」
目の前の少年がそう叫ぶ。
少し息の上がった呼吸で薄ら涙目を浮かべている。
ーーしまった。
避けることに夢中になっていて、相手が子供なのを忘れていた。
クロは自分の大人気ない行動に反省し、再度剣を構える。あまり自信はなかったが、それでもこれは子供のごっこ遊びなのだと自分に言い聞かせ、今度は自分から相手に向かって剣を振る。
コツン
木でできた剣同士が交える瞬間鈍い音が響く。
クロの振った剣はあっさりと少年の手によって受け止められてしまった。
しかしそれで正解だったのか、少年の顔には自信が戻ったのか笑顔になっており、受け止めた剣を押し切ろうと力が加わってきたのだ。
こちらも負けずと力を加えるが、相手の方が力が強く、負けそうになる。相手にもそれが伝わったのか、力任せ押してきたのだ。
それでも頭の中は思ったより冷静で、クロはあえて込めていた力を抜き、剣を受け流すようにして身をずらした。
「あっ!」
すると少年は突然行き場をなくし、バランスを崩して勢いよく地面に倒れ込んでしまった。
まさかそのまま転んでしまうとは考えず、クロは困惑してしまう。
「大丈夫?」
観戦していた少年が話しかける。
「くそっ……!」
幸い、大きな怪我はしていなかったようで、少年はすぐに起き上がって見せたが、悔しさと痛みでか不機嫌な顔を見せていた。
「クロムのほうが弱いと思ったのに……!」
地面に手をついて、ぎゅっと唇を噛み、目には涙が浮かんでいて、今にもこぼれそうだった。
周りの子供たちが「すげー!」「クロム、あんなに動けたのか!」と興奮しているのが、余計に悔しさを煽っているのかもしれない。
クロはどう声をかけるべきか迷った。負けた相手にどう接するのが正解なのか、よくわからなかった。
「ええと……強かったですよ」
口から出たのは、自分でもぎこちないと思う言葉だった。少年は「そんなことない!」と叫び、涙を拭いながら立ち上がる。
流石は男の子だとクロは内心ホッとした。
「もう一回だ!次は絶対負けないからな!」
「いや、次は俺様とやろうぜ!」
再選を望む少年とは別にまた違う少年が名乗りをあげる。
他の子たちとは違い、今度は自分より少し大きな体格をしていた。記憶を整理するまでもなく、その風貌からこの中で1番強い子だとわかる。
けれど、先程のことを考えるとあまり気乗りはしない。いくら強くても相手は子供。先程と同じ様な状況になるのは避けたかった。
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