第2話 - 2

女性は安心したようにうなずくと、「そう?よかった」と言いながらクロの背中にそっと手を当てた。今度は自然と受け入れることができたその手の温もりはとても心地よく感じられたが、同時にクロの心の中ではやはり疑心が拭えなかった。自分の過去の記憶や経験から来る勘のようなものが、そこにはあった。


「ところで、クロム。ご飯は食べれそう?なにか作ろうか?」


「はい…」クロはゆっくりと答え、顔を上げた。ごく自然の様に、違和感ない様に、次の言葉を考える。断片的な記憶は確かに女性が母親であるとやかっているはずなのに、今までの経験がそれを裏づける理由には足りていなかった。


女性が部屋を出るとき、クロは無意識に視線を追った。ドアが閉まる音が静かに響き、クロはまた一度深呼吸をした。


(慎重に行動しなければ)


そう心に誓う。

今回がどうであれ、穏やかな未来は想像できない。いずれにせよいつかは手放さなくては今を生きために、出来ることはするだけだ。


クロはベットから降り、体をマジマジと観察する。

容姿を確認することは出来なかったが、怪我一つなく、清潔感溢れる白い肌が確認できた。

女性が出ていった扉に近づき、外の様子を確認した。

聞こえてくるのは微かな話し声、どうやら先程の女性とは別にもう1人、男性らしき声が確認できる。

相手に気が付かれない様、細心の注意を払って扉を開ける。扉の外には短い廊下が続き、自分がいる所とは別にいくつか扉と奥に扉のついていない部屋が確認できた。

話し声の主はどうやらそこから聞こえてきているらしい。


クロは足音を極力隠し、身を隠す様にしてその部屋を覗いた。

どうやらキッチンと一緒に食事をすると思われる大きなテーブルが置いてあった。

先程の女性はキッチンに立ち、大きな鍋をかき混ぜているのが見える。そしてそれを後ろから眺める様にしてテーブルについた男性の姿がみえ、その2人が声の主で間違いなさそうだった。


『あの子ったら急にかしこまっちゃって〜』


『誰かの真似をしたんだろ。年頃の子なんて大人の真似をしたがるものさ』


息を殺してこっそり盗み聞きをするクロだったが、会話の内容はなんとも平和な日常の1ページのようだった。

内容に悪意はなく、聞いている限りでは嘘がない風景に見え、彼はほんの少し安堵した。

しかし、その中に入っていくにはあまりにも無相応な気がして仕方なかったクロは穏やかな2人の会話をまるで歌を聞くみたいにじっと静聴した。


そうこうしているうちに準備が出来たのか、男がクロを呼んでくると立ち上がり、こっちへ向かってきたのだ。

部屋に戻ろうかとも考えたが距離はあまりにも短すぎ、気がついたら男がクロを怪訝そうな顔で見つめながら立っていた。


「こんなとこでどうしたんだ?クロム」


男の声にハッとしたクロは、すぐに背筋を伸ばし、無理に微笑んだ。内心では、心臓が一瞬跳ね上がったような気がしたが、平静を保とうと努力した。


「なんでもないよ、父さん。おはよう…」


「おはよう、クロム。今日は元気そうだな」


男はそう言って、クロの顔をじっくりと見つめていた。クロは無意識に視線を避らすが、変に悟られないよう視線は合わせず、男の頭上辺りを見上げた。

何でもない、ただの朝の挨拶だ。けれど、その言葉が耳に入る度に、何かが違うような気がしてならない。


彼の笑顔の裏に、いつかの惨劇が影を落としている。それが、彼の心の奥底に住み着いている不安だからこそ、今、こうして平穏に見える光景にもすぐに疑念が湧いてしまうのだ。


クロは視線を合わせられぬまま、男の顔を観察した。

『父さん』そう口に出来たのだからやはり、自分の父親なのだろう。記憶にもそう物語っているのにも関わらず、違和感は拭えなかった。先程の女性と同じ、むず痒様な心地よい様な眼差しは、どうしてもクロの心を萎縮させてしまっていた。

この体の記憶ではどこまでも暖かく、泣きたくなるほどの優しい両親であるのにも関わらず。


次の言葉出そうとするも、声にする事は出来なかった。自分の居場所ではない、この空間にクロはどんな言葉を並べるのが正解なのか分からないからだ。

ニコニコと浮かべた笑みも、仕草も、全部借り物ような気がしていて、どこまでも現実味を帯びていなかったのだ。


「あら、1人で降りてきたの?」


奥で作業していた女性も男性の言葉に釣られる様にクロに近づいてきた。


「体調は大丈夫?あまり無理をしちゃダメよ?」


女性は先程同じ様に視線を合わせる様にして屈み、クロの顔を覗いた。

彼女の心配するところがいまいち理解できなかったが、なんとなく自分の体があまり丈夫ではない事だけは察することが出来た。


「大丈夫」とだけ答えて、次の言葉を熟考する。

2人の息子として演じるのは背筋が凍る様な勢いだった。

けれど何処か別の場所でなんとも言えない、むず痒さがクロをこの場に縛りつけていた。


「何か…手伝う事あり…ある…?」


今すぐ逃げ出したい。

すべてが嘘に感じるこの空間に疑念が拭えず、それでも今すぐこの温もりに飛び込みたい気持ちの中で葛藤していた。


「ありがとう、クロム。でももうすぐできるから大丈夫よ。まだ体調も完全じゃないんだから無理はしないで」


その言葉には、優しさが感じられる。しかし、その優しさがクロには重く、鉛の様にのしかかった。


彼は再び目を逸らす。目の前の景色はすべてが偽りのように見えて、心の中に広がるのは、ほんの少しの安堵と、溢れ出しそうな不安だった。


あの時の村が突然襲われた記憶が、どこからともなく湧き上がってくる。温かさや優しさ、そういったものが、自分にとってはあまりにも儚く、あまりにも眩しかった。それがとても得難いものであることが頭の中で繰り返し響いている。

手に入れた途端、水の様に手から溢れていく感覚が、家族としての愛情が疑わしく思える自分に、どこか怖さがあった。


クロは再び、胸の奥から湧き上がる不安に押しつぶされそうになりながらも、薄く笑顔を作ろうとした。


「本当に…大丈夫だよ。僕、元気だよ」


絞り出す様に、溢れ出た言葉に気づけば彼の手はまた無意識に震えていた。温もりに触れたかったはずなのに、その温もりが重すぎる。クロはその感情を抑え込もうと、深く息を吸い込む。


「無理しないでね。すぐにお茶を用意するから」


聖母の様な女性の微笑みにクロは頷くことしかできなかった。心の中でどんなに叫びたくても、口にすることはできなかった。自分がこの場に居てはいけないような気がして、ただただ耐えるしかなかった。


そして、男性の方もクロを見つめながら、静かに言った。


「調子がいいなら今日は散歩にでも行こうか?部屋に篭っていても暇だろ」


その言葉に、クロは再び不安が胸を締めつける感覚を覚えた。この平穏な時間が、どれだけ自分にとって不安定で、どれだけ仮初めのものに感じられた。


「そうだね…。食べたら散歩したい」


今後のことを考え、今は出来るだけ情報が欲しかった。外に出る事に不安が無いわけじゃない。

それでも自分が置かれている状況を把握出来なければ逃げ出すことも難しいと思えたからだ。


男性はクロの言葉に満足そうに笑い、クロの頭を撫でる。その大きな手はどこまでも優しくて、愛おしてくて、涙が出そうになった。

フラッシュバックする記憶の中で怖いはずのその手は、クロにとってはあまりにも過ぎたものだ。逃げ出したいはずなのに、この体がそれを拒んだ。ただそれが自然であるかの様に受け入れ、そのまま男性に促される様にテーブルへと着いた。


テーブルには温かいスープとパンが並べられていた。香りがクロの空腹を刺激する。しかし、その温かさがまるで夢の様にも感じられた。過去にこんな瞬間があったのかもしれない。いや、もしかしたら夢だったのかもしれない。

家族との「普通の朝食」だと感じる一方で、その平穏がとても遠く、不自然に感じた。


「どうした、クロム?食べないのか?」


男性の優しげな声が、クロを現実に引き戻す。けれど、その優しさに応えられず、クロはうつむいた。手に取ったスプーンの重みすら、どこか遠い記憶のようで、目の前の光景は確かに現実のようでありながらも、どこか儚くて、手を伸ばしても掴むことができない気がした。


食事を取るたび、身体は空腹を満たしていくけれど、心は満たされることがない。その温かさは過去にあったはずのもの、でも今の自分には手に入れることが許されないもののように感じられて味がまともに感じられない。


「無理しないで、好きなだけ食べてね」


目の前の両親の優しさも、どこか遠くて、幻のようなものに思えた。過去の「家族」としての記憶が、本当にあったことなのか、自分にとっては確かなことが何もなく、ただ儚い瞬間のように感じる。


「大丈夫…もう少しだけ…」


震える手でスープをスプーンで掬うが、その温かさが逆に胸に重く感じた。これは、本物の幸せなのだろうか。今、この瞬間を大切にしたいのに、心の中でそれを拒む自分が

クロは再び、スプーンを口に運びながらも、心はどこか遠くにあった。


「外に出たら気分が変わるかもしれないな」


男性の言葉に、クロは答えを出す間もなく立ち上がった。外に出ても、何かが変わるわけではないのだろうか。温かさを感じながらも、その全てが崩れていくような気がして、ただ無言でその場を離れた。


外に出てみると少し日差しが強く感じた。

空は雲ひとつない晴天で、太陽が目に染みる。

近くに誰もいない事を確認し、大きく背伸びをしてみる。届かない空は緊張していた体をそっと包み込むようで、少しだけホッとすることが出来た。


ここはどこだろうか。

そんな意味もない事がクロの頭に過る。

視界に広がるのは、どこか見覚えのあるような、ありふれた穏やかな村の風景だった。暖かな陽光が降り注ぎ、至る所から笑い声が聞こえる。まるで子守唄のように耳に届くその声に、クロは無意識に歩き出していた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る