第3話 黒髪の魔女(三) 黒曜の少女
なんだこの黒髪の女は?この私に平手打ちだと?
ふざけやがって、どこにこんな力があった?
この畜生、痛いじゃないか。久しぶりだぞ、この私に痛みを与えるなど。
許さない。絶対に絶対に許さない。お国に盾突いたことを。ヘリオス家の顔に泥を塗ったことを。
何より、エリートの私の顔を引っ叩いたことを!
だから消し飛ばす。火刑に処してやる。今の私の全力で。骨も残らぬように───
「その宿ごと完全に吹き飛ばされるがいいさ!!」
熱い、嫌だ、死にたくない。
オラニエールさんによって創造された火球は私を飲み込まんとしているだろうか。
私はそれから逃げている。
「はっはっはっはっ」
走って走って走ってそして、
ドサッ!
しまった。焦るあまり
「痛い…」
土を噛む、とはつまらないことを意味する言葉だが、実際のところ土を噛むととても
伏せてはいられない。
体勢を立て直そう。
ついでに今のオラニエールさんを確認しよう。
そう思ってつい振り返ってしまった。
「は…」
終わった。
丸太小屋ならば
太陽に隠れ、姿の見えないオラニエールさんが叫ぶ。
「死ね、この
立ち直して再び走ることもできただろう。
でもたとえ走っても追いつかれる速度で太陽は接近している。
すでにもう熱い。
触れたら灰は残るだろうか。
それにしても世界がゆっくり進んでいるような錯覚を感じる。
小さい時階段を踏み外して落ちてしまいそうになったあの時、誤ってお客さんへ持って行くお酒をこぼしそうになったあの時に感じたあの時間の流れと同じ、いや、もっとかもしれない。
とにかく今なら本当の意味で確信を持って言える。
宿はこれによって吹き飛んでしまった。
お父さんたちはこれに巻き込まれて亡くなってしまった。
あの殺人鬼らしき集団さえ、軽い一発で壊滅したと言うのに、これから私がどうなるかなんて考えたくない。
結局、宿にお別れはできなかったなあ。しておけばよかった。
どうせなら、せめて早く殺して。
でもやっぱり怖いよ。死にたくない。
助けて。誰か私を助けて。
でも当然そんなことは起こらない。
私は助からない。
私は背後で燃える宿と共に灰となるだろう。
もうこんなに辛い現実を直視できない。
私は恐ろしさのあまり目を固く閉じた。
───はずだった。それなのにここはどこ?
私は一面真っ白い部屋にいた。
部屋中を見回しても見えるのは白い壁だけで、ここがどこなのかについてなんの手がかりもないようだ。
私はここで何をしたら良いのだろう、どうすれば出られるのだろうと不安を感じたその時、
「よおセリナ」
と後ろから少し偉そうな、子供っぽい声が聞こえた。
びくっとして振り返るとそこにいたのは私と同じくらいの背丈の女の子。
右手が上がっている。
体は頭のてっぺんから足先まで黒く、一切の表情は
代わりに赤と黒の可愛らしいロリータファッションで全身を着飾っている。
右手を挙げて
私も「こんばんは」と挨拶した。
しかしここの時間帯がわからない、こんばんはでよかったのだろうか?
私はロリータの女の子に今持っている疑問を率直に述べた。
「ねえ教えて、ここはどこ?
すると女の子はなんてことはないと言いたげに叫ぶ。
「ああそうだな、手短に教えてやるよ───お前に私を御しきるだけの素質があったらな!」
「え?」
女の子はよく響く声でいきなりそう叫ぶと、彼女の足元から影が伸びて、それはこの部屋を覆い隠してしまった。
「な…!?今何が起こったの?」
突然の出来事が今日はよく起こる。
この部屋一面が墨汁に浸されたかのように揺らめいたり反射したりしている。
黒曜石のように綺麗な空間だ。
「わからなくていいさ、これは抜き打ちテストだからな!」
その黒の中でも一際黒く存在感を放っているロリータの女の子が威勢よく宣言した。
そして、
「はっ!」
と言いその女の子は手を前に伸ばしたかと思うと、床の墨汁のようなものが波のようにどわっと湧いて私を襲った。
「きゃあっ!」
これが津波というものなのだろうか、防御も回避もままならず思い切り波に流されてしまった。
しかし水ほど優しくもなく動かされた勢いのまま床に転がる。
「うう…痛い…」
体に力もあまり入らない。立ち上がることができずに地べたから女の子を見上げる。
「ほお、今の波でそこまで衰弱しないとは、素質があるかもな」
まさかうまくいかなかったらもっと酷い目にあっていたの?
この女の子が怖い。
うずくまってる私のことは無視し、女の子は私に聞く。
「さて、早く済まそう。私がお前について知りたいことは一つだ。お前は今、死なないための力を欲しているんだろ?な?」
そうだ。私は死にたくない。
死なないために力が必要ならば私に必要なのは当然力だ。
私にもわかる。残酷な自然の
力、という強大で曖昧な言葉に恐れつつ、いいえと言う勇気もないため首肯した。
「そこで朗報!お前に力を与えようと思っている。うんと強力な、とびきり強い、圧倒的な力だ」
ここまでその「力」について念を押されると、どんどん恐怖が強まってきた。
使うことで使用者さえ
はたまた発動したら相手を殺してしまう絶対即死の必殺技なのだろうか。
だがもう
女の子は胸を張って私に人差し指をピンと伸ばして自慢げに言い放った。
「私がお前に与える力は
黒色の魔法はよくわからない、しかし黒魔法だとか黒魔術だとか言われるものなら聞き覚えがある。
禁忌に触れた悪役がよく使っているやつだ。様々な物語で登場していたし、この国でも
でも思いもしなかった。まさか現実にもあるだなんて。
「信じられないと言う顔をしているな?でも受け取ってみれば分かる。これは実在の魔法だとな!分かったらさっさと行ってこい!もう時間がないんだ!」
そう女の子は私に伝えると───
「ちょっ、待って」
黒色の天井から雷の束のように漆黒の激流が私を襲った。
目が開かれた。現実世界に置いて行かれたセリナの体が目を開けたのだ。
しかし目つきは先ほどの太陽に怯え切っていたものとは違う。
成功を見据えた、自身のある目つきであった。
感じる。確かな力が私───セリナにはある。この灼熱を
魔法の使い方は知っている。あの女の子は影の私だったのだ。あの子が魔法を使った経験が、
だから私は魔法を使える。
今は非力なさっきまでとは違う。
そうして放つ。今の私の全力で。私と、その背後の今なお燃える宿のために。
やられてしまったお父さん、お母さんのためにも。
「
セリナは黒い女の子がやっていたように右手を前へかざした。
漆黒の魔法陣が展開された。二重になった円形の中に
「これは…何だっ…!?」
研究者のオラニエールさえ見たことがなかった。
黒髪の者が魔法を使っている事こそが彼女にとっての未知であった。
「悪魔は、実在していたのか…?」
動揺するオラニエールを置き去って魔法陣は黒く光り───正確には黒がより深まり周辺を闇で包み込んで、解き放たれた。
先ほどはセリナを襲った闇の濁流が。
今から巨大な火球を、そしてこれからオラニエールを襲う闇の濁流が。
ドドドドドドドドドドドドド
濁流は魔法陣から無尽蔵に湧き出てきた。
後が
「なんだとっ!?」
オラニエールは未だこの田舎娘が魔法を行使しているという事を信じられなかった。認められなかった。許すことなど、できなかった。
ドドドドドドドドドドドドド
闇の第一陣が炎に接触した。この火球はセリナを巻き込み宿を爆発させることを前提とした作りだったため、旅人たちを掃討した時のような一触即発の爆弾ではない。
ドドドドドドドドドドドドド
飛来する炎によって幾つかの闇は消滅したがそれはあちらも同じこと。
迫り来る闇によって炎はじわじわと鎮められている。
「やめろっ…やめろっ…」
強大な魔法の代償で、オラニエールは今は炎を放てない。
ドドドドドドドドドドドドド
炎に供給はない。
セリナはまだ闇を放流し続けている。
「はあっはあっ、はあっはあっ」
セリナの息が上がっている。肩を揺らしてもまだ足りない。
しかし太陽を止めるため、使い慣れぬ魔法の負担に耐えながら右手を魔法陣にかざし続ける。
ドドドドドドドドドドドドド
セリナは頭の痛みに耐えかねて左目を
顔には汗と涙、それもただの涙ではなく血の涙、
「うっ、うう…」
セリナは痛みを
ドドドドドドドドドドドドド
とうとう闇は太陽を飲み込んでしまった。
ちょうどセリナの手前で、燃え尽きてしまった。
闇はというと浄化され、消えて無くなった。
そこに残ったのは草ひとつ生えていない、しかし燃えてもいない大地であった。
「はぁっ、はあっ」
セリナは
「
再び右手を前に突き出し、先ほどと同じものを今度はオラニエールへ向かわせる。
ドドドドッ!
だんだんと魔法が使えるようになってきていたオラニエールはこれに応戦する。
「いい加減に…いい加減にしろよこの黒髪がっ!」
調子を取り戻し火炎を放つ。
ボボボボボッ!
量、大きさ、勢いともに落ちた火炎弾だが魔法の負荷で
しかしセリナの放つ闇の前には無力であった。
一部の闇は火炎弾と
「しまった!ぐっ、がっああっ、何だっ、何だこれはっ!力が、力が抜けて…」
オラニエールは波に流されはしなかったが、闇は彼女を濃い霧のように囲い、彼女の活力、生命力を奪っていった。
セリナにはあまり効かなかった、闇の衰弱の効果だ。
「くそっくそっくそっ!邪魔だ、
どんどんオラニエールの力が失われる。立っていることもままならない。
がくがくと震え、伏してしまった。
そんなオラニエールを見てセリナは魔法を停止した。
足を引きずり
頭の痛みは収まっておらず、足取りもおぼつかない。
燃えた宿の逆光でセリナが陰ってオラニエールからはいっそう黒く見える。
「はあっ、はあっ。畜生、こんなのに、こんな悪魔なんかに…」
オラニエールの方は魔法はおろか、体を起こすこともできずに
彼女には悔しがること、涙ぐむこと、声を出すことに精一杯な体力しかもう残っていな
い。
セリナの足はオラニエールの顔まで迫っていた。
オラニエールは真っ黒なセリナを見上げて
「やめろっ、やめろよ、やめてくれ。まだ私は殺すには惜しい…私は研究者なんだ!国に仕えて魔法の、研究をやっている!私は有意義な存在なんだ…だから助けてくれ!」
と、涙ながらに非常に不本意で屈辱的な命乞いをした。
セリナは言う。
「もちろんです。命なんて、とりませんよ」
オラニエールさんを追い払った私は、今でも燃え続けている宿を見上げていた。
彼女を生かし逃したことについて後悔はない。
今更後悔してももう遅いし、私のしたことは決して間違っていなかったはずだ。
たとえ間違って彼女を殺してしまっていたら、私は後悔していたことだろう。
だからこれでいい。はずなのに、やはり悔しい。
なぜ私たちは殺されなければならなかったのか。モヤモヤは残り続ける。
しかし今、私は宿と自分の身を守ることができた。
しかし残念なことに、今の私に消火できるだけの余裕はない。
宿の消火はできない。
だから私は早いところ伝えなければならない。意識を保っているのも限界なのだ。
だからすぐに言わなきゃ。この宿への感謝の気持ちを、別れの言葉を、口に出すのだ。
「ありがとう、そして、さようなら」
そうして、セリナの意識は途切れた。
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