藤原美波

第4話

 予定通りの演奏を終え、汚い楽屋のロッカーを開けた時だ。


「ミナミ、お客さん」


 汗をかいたシャツを着替えようとしていた手をやめ、そばにあったタオルを無造作に首にかけてから彼女は扉を勢いよく開けた。


 視界に入ってきた男性はここじゃ見かけない服装に身を包み、落ち着いた口調で彼女の名前を確かめる。


「藤原美波さんですよね」


 そういう名前の問いかけだけで、相手がどんな目的でやってきたのか美波にはなんとなく察しがついた。


「そうだけど何の用?」


 行為に愛想のない声で彼女は尋ねる。


 それは特別意識しなくても自然と発せられる癖のようになっていた。


 異様に薄暗い楽屋の一室を一人で占領出来るのはメンバー内で唯一の女だからだ。


 普段は「女」という扱いをされてはないが、こういう面だけはきちんとした対応をリーダーの京一が責任感を持って押し付ける。


 細かいことを気にする彼の性格のせいらしい。


 彼は酔っ払うとたまに言う。


「ミナミは特別なんだから」


 いい大人の男のくせに半分泣きながら言うのだ。


 その台詞を聞くたびに美波には嫌をなしに思い出す人がいた。


 彼はもういないのだけれど、そんな時だけあの頃のように彼が隣にいるような気がする。


 高速道路を車の限界速度で走ったような、そんな時間が鮮明に脳裏を埋め尽くす。


 対向車も街灯や標識さえ見る間もない景色の中で、輝いていたのは目の前にそびえ立つ眩い光だけだった。


 一瞬、遠くにとんだ美波の意識を現実に引き戻したのは尋ねてきた男性の答えだ。


「これを拝見したもので」


 そう言って美波の前に出されたのは原稿の束。数ヶ月も前に書き上げ、出版社に送った作品だった。


 だがその原稿をもう一度この目で見ることになると美波は思ってもいなかった。


 届いた場所のゴミ箱に捨てられるのがこの作品の宿命だったはずなのだ。


「これ…」


 思わず彼からその原稿の束を取り上げる。


 男性は差し出した手をそのまま上着の内ポケットに持っていくと名刺を出した。


「HTテレビのドラマ制作部でプロデューサーをしております、本間です」


 美波は自分の耳を疑い、取り上げた原稿を手に持ったまま差し出された名刺を見つめる。


 そこには確かにその男性が名乗った通りの役職が綴られていた。


「どういう経緯でこの原稿を手に入れたかはご想像出来ると思いますが」


 本間は放心状態の美波に釘をさす表現を口にした。


 どうやらその経緯には触れてくれるな、と言いたいようだ。


「あなたがどんな考えでこの作品を送られたかも分かっているつもりです」


 原稿と名刺を持ったまま、美波は彼の話をただひたすら黙って聞いた。


「この作品はただの恋愛小説ではなく、人がどう人を愛し、愛され、そしその感情を相手に伝えることがどれほど困難であるか、そのことがとても丁寧に描かれている」


 熱弁を繰り返す彼を前に無表情の美波は何かに心を奪われたかのようにボー然だ。 


 そんな様子の美波を前に本間は最後の言葉を告げた。


「この作品を私に託してもらえませんか?」


 長い演説を本間はそう締めくくった。

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