被害妄想
第3話
その行為に気付いた浅見は顔を上げると、何かにとり憑かれたかのような速さで原稿を追っている本間の姿を目撃した。
そんな本間の様子に呆れながらも黙って仕事を続ける。
「また病気が発病しなければいいけど」
そう小さく呟いて、彼は久しぶりに微笑が自分の顔に零れたことにちょっと嬉しくなった。
浅見の予想通り、一枚目の原稿を読み終わった本間は生き生きとした声で座って作業している浅見の傍に歩み寄ってくる。
「浅見。この原稿を貸してもらえないか?」
「はあ? はい?」
さすがの彼も一瞬戸惑う。
いくらなんでもそれは承諾出来ない。
「本間さんでもそれは。うちは契約する気はないから本には出来ないし、だからと言ってライバル会社にわざわざ渡す気もないから全部処分しているわけで」
「契約? 彼女まだ作家やってるの?」
「ええ。ちょっとしたコラムとか、たまに見かけますけどね。当時は何社か数年契約をしていたと。でも今はしてないと思いますよ。ただ常磐社が通っていると噂は聞いていますが」
「一流の出版社じゃない」
本間のコメントに浅見は一瞬、眉を歪める。
「悪かったですね、二流で」
「そういう意味じゃないよ」
本間は一応のフォローを口にしたが現実として、常磐社は出版社の中では郡を抜く一流会社である。
「あくまで噂ですけど担当者が彼女の作品に惚れているらしくて、未だに粘って通っているって聞いていますけどね。けど今の書いている文章読む限りじゃ、もう旬は過ぎていると思いますけど。趣味は個々、様々ですし」
「ふ~ん。じゃ常盤社は担当者の個人的な意見に会社が同意してくれてんの?」
本間は原稿を手に持ったまま質問を投げかける。
机の上に置いてある冷めたコーヒーを手に取りながら浅見は作業を止めた。
「そういうわけじゃなく、会社自体が彼に頭が上がらないみたいですから」
「何? その担当者、社長の子息とか?」
コーヒーを口に運んだ浅見は首を横に振る。
「いえ、ただの一般社員です。飲みます?」
浅見は立ち上がってコーヒーを注ぎ足す。
本間はそれに軽く手をあげ断った。
思わせぶりな浅見の様子に本間は昔の記憶を呼び起こし、一人の男が浮かんだ。
そのことを察した浅見が本間に聞き返す。
「思い出しました?」
「ああ、思い出した。葛西さんだ」
喉に何か引っかかっていた大きな塊がすっきりと取れたような気分になる。
葛西吾郎。こういう業界の人間なら誰でも知っている出版界の影の仕事人だ。
「また、とんでもない人にファンになられてしまったものだな、彼女」
「本間さんよりはマシでしょ、きっと」
浅見はそう突っ込む。それに本間は苦笑いをしながら話を進めた。
「じゃこの作品、彼に渡せば数ヶ月後にはベストセラーになるかもしれないってことかな」
片手に持った原稿をもう片方の手に何度もあてて本間は悠然と呟く。
浅見はその言葉に険しい表情を浮かべ、小さく頷いた。
「でしょうね。けど、さっきも言いましたが、うちでは処分です」
本間の手から原稿を取り上げ、浅見は空の封筒が入っている段ボールに落とす。
その行動に本間は抵抗せず、上着から煙草を取り出すと火をつけ、神聖なものを前にした口振りで囁く。
「書き出ししか読んでいないけど、かなりいい作品だぞ」
「…十分、分かっていますよ。だから目を通さない。捨てられなくなりますから」
浅見は本間と再会してから初めて感情を込めたトーンで囁くよう告げ、作業を始め出す。
そんな彼の背中を見つめながら本間は白い煙を吐き出すと、しゃがみこんで捨てられた原稿に手を伸ばした。
「いくら本間さんの頼みでも、その原稿だけは渡せません。それはここで処分するんです」
「そう言われることは百も承知だよ」
煙草をくわえなおし、本間は立ち上がる。
手にした原稿を最初に置かれるはずだった場所に本間は静かに優しく重ねた。
「しょうがいないよな。こっちも雇われている立場、従うことも仕事。それが正論で間違いじゃないさ」
本間らしくない慰めに、浅見は自分のしていることに対する憤りと、もどかしさを感じられずにはいられなかった。
「間違いかぁ~。そんな風に思ったことはないですけど正しいと思ったこともないですね。実際もうどれくらい処分したか分からないくらいですから。中にはきっと今こうやって選んでいるものより、ずっと素晴らしい作品があったはずだと思いますよ」
「人生、勝ち組で生きていくには必要だ」
本間の発言に浅見は目を細くし、彼を直視して述べた。
「本間さんにそう言われるとちょっとキツイな。あなたは負け組と分かっていても自分の意志を通す人だし、そこから必ず返り咲く力を持っている人ですからね。変な労りは余計に惨めですよ」
浅見はそう言いながら昔のことを思い出す。
四年前のあの日のことだ。
『俺、部所変わることになったんだわ』
『えっ? 何を言って』
『責任ってやつだよ。俺、立場のある人間だし。コイツが引き継ぐから宜しくな』
それだけを告げて、出版社をあとにする本間を引きとめ、困惑した表情を浮かべた記憶が浅見にはしっかりとある。
『大丈夫、お前なら俺なしで出来るからさ。次の作品も期待してるよ』
本間はそう言い残して忽然と姿を消した。
それから四年。
彼は実績を残したわけでも逆らったと噂される上司に頭を下げたわけでもなく元の場所に復帰してきた。
理由は言うまでもない。彼がいなくなって四年。
人材は何人も代わったが本間の残した結果を上回る者がいなかったということだ。
本間を異動させた上層部は自ら恥の上塗りを承知で彼を呼び戻した。
「別に俺自身には大した力はないよ」
そう軽く本間は浅見の言葉を受け流す。
部屋中に煙が漂っていることに本間はやっと気づいて煙草を灰皿に押しつけた。
「力のある人は必ずそう言います。だけど違う。限られた人だけがその力を持っているとしか思えない。もし誰もが平等に持っていたなら、その原稿はここには存在しないはずでしょ。違いますか?」
浅見は本間の目の前にある原稿を見つめてため息混じりに尋ねる。
そこに置かれた多くの人間の情熱の塊の言霊を前にして訴える。
「捨てられると分かっていても送ってくる。それがどういう意味か分かりますか?」
浅見の静かな質問に、本間は原稿に視線を向けたまま頷いた。
そこに込められている感情を透視するかのようにじっと見つめたまま答える。
「分かるよ。俺も同じ【もの】を作る仕事をやってきた人間だから。彼らが何をしたいのか痛いほどよく分かっているつもりだよ。俺自身が以前より増して、作ることへの想いの密度は嫌でも濃くなったからね」
その言葉に浅見は彼ほどの人にとってもこの四年間は辛く、もどかしかったということを直球で受け取らされ、そのことを察してしまった浅見は急にさっきまでの自分が恥ずかしくなった。
「被害妄想もいいところですね」
浅見はそう独り言を呟くとしばらく椅子に背を預け、天井を見上げた。
仕事をやめた彼に本間は黙って自分の傍にあった椅子に腰掛け、窓から見える空をじっと見つめた。
どのくらいの時間が過ぎたのかは定かではなかった。
浅見は大きな深呼吸をすると立ち上がり、空の封筒が入っている段ボールに手を伸ばすと、差出人の名前を確かめて本間に苦笑いを見せた。
本間は彼の行動に一瞬首を捻ったが、封筒を受け取ると何度も小さく頷いてから目の前に置いてある原稿に手を伸ばした。
「その作品は最初からここにはなかった。ここには送られてこなかった。それに間違いはないはずです。…ねぇ、本間さん」
封筒になおし終わった本間は彼を見つめ、長い沈黙の後、静かに深くゆっくりと頭を下げた。
「これは俺が持ってきた。久しぶりに感動する作品を見つけたからな」
「ええ、感動しましたよ。一枚読んだだけで心が震えるほど切ない文章でした」
「…ちゃんと読んでるじゃんかよ」
「何か言いました?」
ジッと自分の視線を受けながらも仕事を再開した浅見の姿を前に、本間は首を振って背を向け、会議室のドアノブに手をあてる。
「今度、飲みにでも行こう」
帰り際に本間は浅見を誘う。
「いい作品を創った後の打ち上げには是非呼んで下さいよ。本間さんは期待を裏切らない人ですから楽しみにしています」
ああ、と呟いて本間は楓出版を後にした。
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