第12話 あるいは、心を縫い留めるように
数日後、無理やり有休を使ってでも瑠璃と休みを合わせた千鶴は、自分の日頃の健康具合に感謝しつつも、いつもの喫茶店の一席でそわそわと腕時計を確認していた。
待ち合わせ時刻、十分前。普段なら集合時間数分前にしか出て来ない千鶴にしては珍しい行動だ。
机の上に置いてあるコーヒーはまだ温かい。千鶴がカップを口に運ぶ度、そのブラウンの鏡面に新調したヘアスタイルときらめくイヤリングが映った。
まずはこの間の件を話させて、謝らせよう、なんてことを考えていると、入店のベルが鳴った。
瑠璃だろうか、と顔を向ければ、確かにそこにいたのは瑠璃だった。
「え」
しかし、瑠璃だけではなかったのだ。
「紫電さん、どちらの方ですかぁ?」
入口には、紫がかった髪色をしている長身の女性――紫野瑠璃と、その隣に髪の毛がゆるふわな感じの少女が立っていた。
身長はいくらくらいだろう?瑠璃が大きいので目測を誤りそうだが、おそらくは150センチ台。気の強そうな吊り目が印象的な女の子だ。
千鶴は少女に見覚えがあった。それもそのはずだ。最近、会ったこともないのに彼女に対して敵意を燃やしていたのだから。
(は、花蜜カレン…!)
瑠璃は驚愕したまま固まっていた千鶴を見つけると、カレンの問いかけには一切反応を示さずに千鶴へと近づいた。
千鶴はというと、瑠璃の行動で自分に気がついたカレンと目が合ったことできゅっと胸が痛くなっており、自分を守るためとっさに顔の向きを戻して心を落ち着けようとした。
「お待たせ、千鶴」と瑠璃はさも当然のように、何の説明もないまま千鶴の正面の席に腰を下ろす。
「し、紫野…」
どういうことなの、と言葉を紡ごうとした刹那、ウェイトレスみたいにテーブルの隣に立っていたカレンが頓狂な声を発する。
「うぇ」
踏まれた蛙みたいな声にびっくりして彼女を見やれば、カレンはどこかぎこちない様子で千鶴に微笑み、それから瑠璃をじっとりと睨んで続ける。
「紫電さん。そっちに座られると、私が座る場所に困るじゃないですか」
相手を責めるような低い声音。テレビで見るようなきゃぴきゃぴした声ではなかった。
「なんで」
「なんでって…」と再びカレンが嫌な顔をする。「彼女さんが嫌でしょう。自分がいるのに、恋人の隣に恋人じゃない人間が座るの」
すると、直前まで不思議そうな顔をしていた瑠璃が急に顔色を変えて自分が座っているすぐ隣をトントン、と叩いた。
「カレンさんはこっち」
「いや、だからぁ…」
話の通じない相手に困っているようなカレンの態度。千鶴は久しぶりに学生時代の紫野瑠璃を見ているような気持ちになった。
瑠璃はカレンの言いたいところがピンとこないらしく、そのうち、「すみません」と千鶴に頭を下げたカレンに対し、勘違いしてこう言った。
「千鶴の隣に座るな」
その声がやたらと刺々しかったから、思わず千鶴はぎょっとしたのだが、同じく気の強い人間だからだろうか?カレンはムッとした顔であえて千鶴の隣に腰を下ろした。
たしか、花蜜カレンは自分よりも七、八歳ぐらい下の年齢だったと思うのだが…肌の艶やきめ細やかさからは、どうみてもティーンエイジャーにしか見えない。
「失礼しまぁす」
「おい」
カレンは身を乗り出す瑠璃をそっちのけでウェイトレスを呼ぶと、自分の分だけカフェオレを頼んだ。それから瑠璃も続けてコーヒーを頼んだが、視線はずっとカレンに向けられている。
「カレンさん。いい加減に――」
「あの、初めまして。私、花蜜カレンと申します。紫電さんの彼女さん、ですよね?」
ひたすら瑠璃を無視し続けるカレンが丁寧に自己紹介するから、千鶴も社会人として染みついた行動として、反射的に自己紹介を返した。
「えっと、相沢千鶴と申します。初めまして」
本日はどのようなご用件で、とまで口にしかけて止める。そこまでしたら嫌味になってしまうだろうから。
「千鶴さん…。思っていた以上に大人っぽい方」
ふふっ、と挑発的に微笑まれた千鶴は無意識的に身構えてしまうも、その会話を横から聞いていた瑠璃が不機嫌そうに、「千鶴って呼ぶな」とぼやいたことで、事情の説明を求めるのはこっちのほうだと気を取り直した。
「紫野、どういうことか説明してくれる?」
「あぁ…」
どこか不機嫌そうな瑠璃。不機嫌になりたいのは自分のほうだ、と千鶴は思い出したみたいにしかめ面を浮かべる。
「カレンさんが、どうしても千鶴に会ってみたいって言うから。連れて来た」
「は…?」
何の説明にもなっていないだろう、とこめかみに青筋が立つ。
「それで連れて来るの?私に何の許可も取ってないのに?」
「許可?何の?」
とぼけた声にぶちっ、と脳内の血管が切れそうになる。とてもではないが、この間の『愛してる』の声と同じものには思えない。もしかすると、携帯が作り出した声のほうがよほど自分の心を揺さぶるのかもしれないとさえ思えた。
「ちょ、ちょっと、紫電さん。色々と端折りすぎですって」
険悪なムード(ただし、片方だけだが)になりかけている二人の間に慌てて入ったのは、声を裏返したカレンだった。
彼女はきちんと千鶴のほうへ体を向けてから、ボディランゲージ交じりで一生懸命に事態の収束を図る。
「あのですね、私もこの後友だちとすぐ近くで遊ぶ約束してまして。微妙に時間が余りそうだったので、その、紫電さんの彼女さんと話してみたいなぁって、お願いしたんです。いやぁ、ご迷惑でしたよねぇ…すみません。ちゃんと数分もしたら消えますので…」
早口でまくし立てるように説明したカレンは、千鶴の未だ半信半疑といった表情を目の当たりにして酷く焦っているようだったが、他人事みたいに瑠璃が挟んだ、「お願いなんて可愛いものじゃなかっただろ」という言葉には目くじらを立てていた。
千鶴はどうにもカレンが言っていることに嘘はないような気はしていたけれど、色々と納得できないことがあって、隣に座る彼女へ尋ねる。
「どうして私に?自分で言うのもなんですが、何の面白味もない人間ですよ」
「いえいえ、とんでもない!紫電さんの彼女さんというだけでも、面白いですよ!」
なんじゃそりゃ、と頭の中で苦笑していると、相変わらず不機嫌そうな瑠璃が口を開く。
「おい、千鶴は千鶴だ。“紫電瑠璃の恋人だから千鶴”なんじゃなくて、“千鶴が紫電瑠璃の恋人”なだけだから」
瑠璃のややこしい言い回しを耳にした両者の反応はそれぞれバラバラだった。
カレンが相手の言っていることが理解できないふうに顔をしかめている一方、千鶴は自然にこぼれた微笑みの中、「うわぁ、紫野らしい言い分」と告げた。
「そう?普通だと思うけど」
「紫野の普通が本当に普通だった試しなんて、ほとんどないじゃん」
「言ってくれるなぁ」
「ふふ、でも事実でしょ?」
千鶴がそんなふうに笑えば、自ずと瑠璃も口元を綻ばせる。千鶴自身はたいして特別でもなんでもないやり取りだったのだが、それを客観的に観察していたカレンにとっては違った。
「紫電さんって、そんな顔するんですね」
ぽつり、と呟くカレン。その顔にはどこか複雑そうな様子が見られた。
「そんな顔って、どんな?」
カレンは瑠璃の問いも無視して携帯を取り出す。
「…そろそろ時間なんで、お暇しますね」
あっという間に飲み干されるカフェオレ。このテンポ感の速さは、吹き荒ぶ風のようで、どこかカレンの印象にぴったりな気がした。
「満足した?」と瑠璃が問う。そうすれば、カレンは唇を尖らせて瑠璃を見つめ、「まぁ、はい」と言ってから、最後に千鶴のほうへ向き直った。
「千鶴さん。急にお邪魔してすみませんでした」
千鶴は深々と一礼された居心地の悪さから腰を浮かす。
「あ、いや、いいんですよ。またいつでも来てください」
自分でも分かりやすいリップサービスだな、と千鶴も考えていたのだが、それはやはり相手にとっても同じだったようで、カレンはきゅっと挑発的に口元に三日月を描いてこんなことを言った。
「えー、それ本心ですか?千鶴さん」
「え…」
不意にこちらの考えを読まれた千鶴は、ぎくり、とぎこちない笑みのまま固まった。
「ふふっ、ごめんなさい。意地悪しちゃいました」
今度は浅く頭を下げるカレンに、瑠璃が何か小言を言っていたが、千鶴の頭には入って来ない。
やがてカレンは、「次があるなら、私も友だちを連れて来ますね。ダブルデートにしましょう」という青々とした言葉と、自分のカフェオレ分の小銭をテーブルに残して風のように去っていった。
突如として嵐に遭遇したような心境だった千鶴が呆然と彼女の後ろ姿を見送っていたところ、それをじっと観察していた瑠璃が何でもないことのようにこう言った。
「変な子だろ」
どの口が、と千鶴は苦笑する。
「それはまぁそうだけど…紫野に言われたくないでしょ」
「ふっ…かもな」
物憂げにも見える微笑みを浮かべた瑠璃はコーヒーを口に運ぶと、そのまま窓の外に顔を向ける。だから、千鶴も同じようにしてみせる。
天気は雲一つない快晴。
何かを始めるには、きっと相応しい一日。
千鶴は瑠璃の端正な横顔を見つめながら、ただなんとなく、物事にはタイミングがあるものの、それを適切に捉えられるかどうかは勇気とか勢い次第なんだろうと考えていた。
「ごめん。何もやましいことなんてないって証明して、安心させられるって思ったから、勝手に許可した」
主語がないが、おそらくカレンをこの場に連れて来たことだろう。千鶴は黙って微笑み、首を左右に振る。
「あの子のアレは、物珍しい動物を見つけたら、その正体を確かめたくなる感覚に似ているんだと思う。好意云々の問題じゃなく。そもそも、女性だしね」
それを言うなら、私も女性だ。それに、カレンの眼差しには大きくはないかもしれないが、確かな恋慕があったような気がする。
千鶴を安心させるためなのだろう。瑠璃は珍しく饒舌気味になって自分の考えを口にしていたのだが、いつの間にか、考えるべきこと、話し合うべきことは今それじゃないと確信していた千鶴は、その半分以上を聞き流していた。
やがて、会話の隙間に千鶴が恋人の名前を呼ぶ。
「紫野」
真実を見通す水晶の如き両目が、千鶴を捉えた。
「なに?」
「今日の予定、私が決めてもいい?」
「構わないよ。どこか行きたいところでもあるの?」
「うん」
千鶴は続ける。
そっと、息を吹き込むように。あるいは、心と心の間を糸で縫い留めるみたいに、優しく。
「部屋、探しに行こうよ」
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