第11話 私の知らないあの人
カラン、と音を立てて倒れたコーヒーカップから、茶色い液体がデスクの上に広がっていくことすら、今の千鶴にはどこか膜一枚隔てた先の出来事のように感じられていた。
その原因になったのは、手のひらサイズの携帯画面で流れていたとある番組であった。
『だって瑠璃さん、ミステリアスなお姉さんって感じで、私のタイプですもん!』
最近目にする若いタレント――たしか、花蜜カレンだとかいう女だったろうか。とにかく、その女が瑠璃の口にした理想のタイプ論に食いつき、あろうことか両腕を瑠璃の腕にからめたのだ。
どういう相手が好みなのかとか、今までの恋愛経験はどうなのかとか…そういった類の質問からは逃れられない、と瑠璃が辟易するのはいつものことだ。千鶴自身、瑠璃の職業性質上、そういう絡み方をされても我慢する立場にあることも理解しているつもりだった。
しかし、これは別物だ。
人の見ていないときだけ自分の腕に絡められる、紫野瑠璃のしなやかな腕。いわば、恋人とか家族のためにあるものだ。それなのに、この小娘は我が物顔で触れていた。
「ちょ、ちょっと相沢さん!コーヒー!こぼれてる!」
上司の大竹が慌てて千鶴の不注意を指摘するも、彼女はゆっくりと浮上するみたいな速度でしかコーヒーを拭こうとしない。
幸い、今は昼休みだったし、大事な資料やキーボードなどにかかっていなかったから、大竹も不可思議な顔でその場を後にしたのだが、千鶴にとって最も大きな問題は何も解決していなかった。
画面の中の瑠璃は酷く淡々とした瞳で、でも、どこか真意が読み取れない色彩を秘めたままでカレンの肩をやんわりと押した。
『ふふ、私、カレンさんのファンに怒られてしまいませんか?』
口元がわずかに綻ぶとても品のある微笑み方に、一瞬だけ魅入ってしまう千鶴だったが、それが向けられているのが自分ではないことを思い出し、ぐっと力強く右手を握り込む。
(紫野…!何をそんな悠長なこと言ってんの…!?さっさと押しのけてよ!)
しかし、瑠璃はそれ以上強引に相手を引き剥がそうとはせず、カレンが大丈夫だと根拠なく笑う姿を穏やかに見つめるばかり。
(受け入れてるみたいに見えちゃうじゃん!あぁ、もう…!イライラするなぁ!)
ちっ、と舌打ちしながら画面を睨みつける。そんな千鶴に向けて同僚たちが気づかわし気な視線を送っていることなど、彼女は気づきもしない。
いつになったら腕を解くのだろうかと画面に食い入っていた千鶴を嘲笑うみたいに、そのまま番組はCMへと移る。いっそう募った苛立ちは、CMが明けて再び映し出された二人の姿が自然なものに戻っているのを確認するまで、ごうごうと燃え盛っていた。
千鶴はガシャ、と音を立てながら、オフィスチェアの背もたれに思い切り体重を預ける。そして、番組の途中にも関わらず動画アプリを閉じ、代わりにメッセージアプリを開いて紫野とのトークルームを起動する。
『なんか、花蜜カレン?とかいうのと仲良いんだね。番組見たよ』
よし、嫌味成分は十分…なんて考えたところで、どうにか成熟しつつある千鶴の精神が顔を出し、“送信”のボタンを押すことを躊躇わせた。
これじゃ、すごい性格悪い。
瑠璃がああした仕事に就いたのは、話によれば私のためらしい。いや、どこをどうしたらそうなるのかは今でも分からないけれど…。
だけど、今の瑠璃はきっと仕事を楽しんでいる。本人はなかなか言語化しないけれど…とにかく、彼女が色々と有名になるのなら、どんなことだって目をつむるのがパートナーである私の仕事ではないだろうか?
ぐるぐると思考が回る。
千鶴は一先ず、メッセージを送りつける前に花蜜カレンのSNSを検索して、彼女のパーソナリティを知ろうと思った。そうすることで、カレンがパーソナルスペースの狭い、誰とでも親密なコミュニケーションを取る人間である証明を見つけられると予想したのである。
しかし…これはむしろ、千鶴の火に油を注ぐ行為にしかならなかった。
(な、なにこれ…!)
最近の花蜜カレンの投稿。それらはほとんど、紫野瑠璃――もとい、紫電瑠璃との写真か、彼女に関するコメントばかりだったのだ。
次から次に出てくる、きらびやかな写真。称賛と共感を得るコメント。
そこには、千鶴の知らない瑠璃の姿があった。写真は瑠璃に許可を取って撮影したのかも疑わしくなるものが多かったが、一部はきちんとツーショットらしいものもあった。
(こんなの、熱狂的なファン…いいや、彼女面してるファンじゃない!)
ろくに知りもしないカレンへの恨みは、すぐさまそれを許している瑠璃へと向かう。この場合、具体的には『送信』ボタンにである。
『なんか、花蜜カレン?とかいうのと仲良いんですね!色々と拝見しましたよ』
怒っていることを伝えるため、わざと丁寧な言葉も混ぜてみる。
瑠璃からの返事はすぐにやってきた。
『なに、その変な話し方』
ぶちっ。
怒りに任せ、素早くメッセージを送る。
『花蜜カレンって、なに。なんなの』
『カレンさんがどうした?』
『いや、どうしたじゃなくて。こっちが質問してんの』
『…なにって…何が聞きたいの?』
円滑に行われてない文字だけのコミュニケーションは、今の千鶴にとって着火剤にしかならない。
「ちっ!」
ガタン、と自分の席から離れた千鶴は、まだ昼休みに余裕があることを確認してから、会社の屋上テラスへと向かった。
テラスは少し肌寒かったものの、神経が昂ったことで体温も上昇している千鶴にとっては程よいものである。
出ないかもしれない、と思いつつも、出なきゃ許さない、とも思いながら電話をかける。相手はもちろん、パートナーであり、怒りの矛先でもある紫野瑠璃だ。
幸か不幸か、電話は2コールでつながった。
『もしもし?』
「あの子、なんなの」
開口一番、攻撃的な口調になってしまう。
『あの子?カレンさん?』
「そう」
『カレンさんが何?』
「だからぁ、なんなの?腕組んだり、写真撮ったりさぁ…!必要なの?ああいうやり取りって」
『腕?…あぁ…』
瑠璃はようやく合点がいったようで、早口になっている千鶴とは対照的にゆったりと事情を説明した。
『腕は急に組まれたんだよ。仕事柄、引き剥がすわけにもいかない。写真は…うん、必要、なんだろうね。あんまりしつこいときは咎めるけど、彼女の影響力に便乗できて仕事が増えるのは、正直美味しい』
淡々と、事務的。
あぁもう、そうじゃない…!
紫野は、何も分かっていない。事の重大さを、私が何に怒っているのかを。
「紫野」
『なに?』
「私がどうして怒ってるのか、分かってる?」
『…ごめん、あんまり』
だろうね、と心の中で毒づく。でも、予測できていたおかげで感情を爆発させずに済んだことは僥倖だっただろう。
大きく息を吸い、神経を少しでも落ち着かせてから千鶴は続けた。
「…しょうがないとは分かってるんだよ、私も。でもね、やっぱり、面白くないよ」
できるだけ感情を乱さず気持ちを口にしたつもりだ。だけど、瑠璃は何も言葉を返さない。
黙して辟易としているのでは、と心配になった千鶴は、沈黙を厭うようにして言葉を重ねた。
「紫野はさ…誰の恋人なの」
うわっ、痛いなぁ…と後で振り返ったら悶絶するような台詞にも自分で気づかない千鶴に待っていたのは、思わず赤面してしまうような瑠璃の言葉だった。
『…違っていたらごめん。嫉妬?』
「なっ…!」
嫉妬?
私が、花蜜カレンとかいうよく分からない人間相手に?
そんなわけない、と口にしかけて、よくよく自分の発言を振り返る。そうすれば、この頭の大部分を占めていた感情は、純度百パーセントの嫉妬であったと思い知らされて言葉に詰まってしまう。
いっそ、ああそうだよ、と開き直ってやろうかと、変な汗を珠のように額に浮かせた千鶴が考えていると、やおら瑠璃が笑い声を発した。
『ふふっ』
それは、天の祝福みたいに綺麗なさえずりだった。
幸せが音色に変わることがあれば…きっと、こんな音だろうという響き。
『可愛いね、千鶴』
どうして私が怒っているのに、そんな幸せそうな声を出せるのか、とか。
どうして私からは見えない場所なのに、幸せそうに微笑むのか、とか。
どうして瑠璃の言葉は、単純なのに私の一番大事な部分を震わせるのか、とか。
千鶴には、言いたいことがたくさんあった。
でも、それを正しく言語化する術を彼女は持ち合わせていない。
だから、千鶴は何度も何度も言葉を紡ぎかけてはやめ、また紡ぎかけては…と繰り返していたのだが、そのうち、携帯越しに瑠璃を呼ぶ声が聞こえてきた。
『ごめん、千鶴。仕事だ、戻らなきゃ』
「あ…うん…」
憤りを覚えていたはずなのに、口からこぼれたのは名残惜しそうな返事だ。
『千鶴』
電話を切る直前、瑠璃が囁くように言った。
『愛してるよ』
電話の声って、本当の本人の声ではないと聞いたことがあるが…あんなの、嘘だ。
そうでなかったら、こんなに胸が高鳴っている自分は馬鹿みたいじゃないか。
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